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黒の雄羊  作者: みお
第1章
35/64

第30話  その後(2)

―――起きて。



 それはとても澄んだ声。



―――起きて。



 聞き覚えのないそれは耳元で囁き、温かな手で身体を揺する。

 次第に覚醒する意識。

 遠くで聞こえるのは虫の音か。鼻を擽るにニオイは……。



「……」



 エリゼオは目を開き、何度か瞬いた。鈍い体に感じる固い感触。痺れた平手掴めば、落ち着くニオイのする布は慣れた肌触りを返す。無意識のうちに辺りを見回し、天幕の内で寝かされているのだと知る。いくつか疑問が浮かんだが、



―――来て。



 それは直ぐに消え失せた。

 夢ではない。確かに聞こえる。

 エリゼオは眉根を寄せ、身体を起こす。そうして、あれ程痛めた身体が普段通り動くことに気づく。無意識に、冷や汗が流れる程の痛みを訴えた脇腹を撫ぜ、掛布を捲る。そこには血に汚れ、酷く傷ついた足ではなく、清潔な下衣を穿いた己の下肢があった。鎧の下で蒸し焼かれた身体も今はすべらかで、どうやら手厚い看護を受けたらしいことは理解できた。

 エリゼオは裾から覗く包帯を撫でる。やはり痛みはない。恐る恐る動かすと、案外すんなり動いた。驚いてまた撫ぜ、簡易的に組まれたベッドの脇に腰かける。意識的に庇った左を、地面に敷かれた小さな飾り布の上にやんわり、とつく。それは冷えた感触を伝え、裏に優しく吸い付いた。加減しながら体重をかける。



「……」



 貫かれた足は僅かに軋んだが、やはり痛みは感じない。身体は酷く重たくて、だるさがないと言えば嘘になるが、それでも他に問題はなさそうだ。未だに霞のかかった頭で回復の要因に思い当たり、



「准将……」



 誰にとはなく、彼を呼んだ。同時に湧き上がる不安。

 確かに、異常な回復力は他者とは比べ物にならない、と言う自負はある。それは元より身体に備わった治癒力。

 しかし、これ程綺麗に、支障なく元通りになるには、相応の代償が必要になっただろう。彼は下官を助ける、と叫んでいたのだ。マンディブラから生気を頂戴しただけで賄えたのだろうか。

 遠征中、吸気の方法をそれとはなく教えては貰ったが、試すまでには至っていない。確かに、スヴェンを吸ったらしい身体は見違える程調子が良かったし、あの夜は食事まで摂れる身体になっていた。量は決して多くはない、と聞いていたので、若しかしたら少量で事足りるのか。

 加えて、他者を癒す為の行為がどれ程身体に影響するのかも分からない。通常なら自身を生かす為の力を、他者へ渡すのだ。それがどれ程異常な事であるのか、等考えるまでもない様に思われる。

 では力を使い果たした彼は今、どういう状態なのか。

 上官に身体を譲るまま、意識を手放してからどれ程の時間が経ったのかは分からないが、脳裏に恐ろしい光景が過り、血が下がる。



「准将!」



 思わず叫ぶが応えるモノはおらず。

 エリゼオは脇に掛けられた軍衣を乱暴に羽織り、置かれた剣を握って天幕から飛び出した。ここは幕営地で、スヴェンが居ないことは確かだった。ではフロミーに助けを乞うべき、と判断したのだが。

 微かに聞こえる寝息に乗るのは仲間のニオイ。空を見上げれば、月はまだ真中に昇りきってはいなかった。いつもなら騒いでいるモノ達がいる時間。

 しかし、静かすぎる。

 エリゼオは訝しみ、辺りを探る。

 はためく天幕。嘶く軍馬。

 聞こえるのは爆ぜる炎と、風の音。

 そして、



―――来て。



 それは慣れ親しんだ声になった。



「准将……」



 眉を寄せるが、それは構わず。



―――来て。



 響くと同時に、柔らかな夜風が頬を撫ぜた。それが運ぶのは主のニオイ。



「准将!」



 エリゼオは弾かれる様に走った。濡れる赤い月の下、天幕の間を縫い、誰も居ない篝火の脇を抜ける。見張り番の一人も居ない異様な状況が、更に恐怖を煽る。奥歯を噛み、唸って、幕営地を飛び出す。

 暗闇の中、月明かりを浴び、彼の弁柄がきらり、と光った。風を割り、景色を溶かし、駆ける彼の長く伸びた影は、尾を引く狼の様で。彼が人型であるのが不思議なくらいだった。



―――来て。



 導くのは声か。彼のニオイか。

 エリゼオは走って、走って、



「准将!」



 漸く彼の許へと辿り着く。

 そこは森の際。赤い大地に突如壁を作る巨木が乱立する地。

 ベルンハルトは苔生した至大の幹に手を添え、見上げても足りないそれと向き合っていた。赤い月光を浴び、抜ける様な肌は妖艶に色付き、灰の髪は淡く揺れる。



「……」



 無事だった。

 それはあり得ない筈の光景に違いなかった。

 しかし、エリゼオは酷く安堵する。眉根を寄せ、深く息を吐くと、何時の間に現れたのか。主の後方。左右に大きく距離を取り、まるで護るかの様に佇むヴィゴとイェオリの姿が視界に入った。彼らは息を弾ませるエリゼオに気づくと、いつもの様に顎を上げる。



「……」



 彼らは何があっても片時も離れず、彼を守護してくれる。

 エリゼオはその事実に落ち着きを取り戻し、振り返らない主の許へ歩み寄った。



「准将……」



 呼ぶと、彼が振り返る。血の気の薄い頬を朱に染め、薄い唇を引き上げて、灰を赤に濡らす。



「待ってたよ」



 感じる違和感。

 それは彼の声で話し、彼の声で笑む。



「おいで」



 優雅ささえ漂わせ、それが手を伸ばした。その濡れた瞳の奥に、見知った色はない。



「お前、誰だ……」



 反射的に眇めた目。瞼が僅かに痙攣する。エリゼオは手にした剣を抜き、逆立つ毛を成るがままにした。



「准将に何をした!」



 吼えれば、眼前で主が笑う。



「収めて、エリゼオ」



 優しい声で名を呼ばれた途端、身体が強張った。経験したことのない不安感に、背筋が粟立つ。



「エリゼオ」



 再び囁かれると、呼吸が詰まる。それは力ずくで頭を押さえ付けられる様な、酷く不快な、抗いがたい力だった。

 エリゼオは何とか動かせる眼球でそれをねめつけ、牙を剥く。

 するとそれはさも楽しそうに口角を上げ、



「私はあなたと話したいだけ」



 淑やかに微笑んだ。

 途端に身体の拘束が解ける。



「っ」



 動かずとももがき続けた身体が、反動で前のめりに倒れかける。エリゼオは慌てて踏鞴を踏み、何とかその場に踏み止まった。

 理解できない力に怯え、威嚇する獣の様に喉を鳴らすと、それはまた笑う。



「ごめんなさいね……」



 確かに目の前の男は主のニオイがし、主の声を出した。

 しかし明らかに中身が違う。そう感じるのはなぜか。理由が分からない。ただ、本能がそう吼える。エリゼオは何が起きているのか全く理解できず、困惑した。



「お前は……誰だ?」



 そう問うのが正しいのかも分からない。



「お前はなんだ?」



 更に問えば、ベルンハルトの姿をしたそれが口を開く。



「我らは管理者。名はイルシオン。他者の喉を借り、話すモノ」



 それが、彼の顔で歪に笑う。



「っ」



 エリゼオは顔を引き攣らせ、一歩大きく身を退いた。

と、後方に気配が生まれる。それは唸り、獣のニオイを運んで、霞より姿を見せる。その数、百有余。



「リコス……」



 赤い大地を埋め尽くさんばかりの、これ程大規模な群れは見たことも聞いたこともなかった。反射的に構えるが、打破できる要素は一つもない。退路もなく、詰め寄られれば、一頭きりの雄羊はあっさりと猛獣の群れに捕らわれた。

 エリゼオはできうる限り、獣から、背後に佇む男から距離を取る。必然的に囲いの真中に追われる形になるが、それ以上に出来る事などなかった。

 闇夜に浮かぶ複数の目が、雄羊を捕え、離さない。それらが昼間に見た姿と違って見えるのは、背後に立つ男と同じ。月光に濡れているせいだろうか。

 引き攣った頬が微かに動くと、リコスが一斉に腰を下げた。そうして長い尾を身体に巻き付け、敵意はない、と舌を出す。



「石の城から来たモノよ」



 一番大きな体躯の獣が、開いた口から音を出した。

 それは勿体ぶった口ぶりで、鬣を風に靡かせる。



「争うつもりはないのだ。ただ話がしたい」



 手数を揃え、包囲しておきながら、なんとも甘いことを口にする。エリゼオが苦虫を噛むと、背後で男が笑う気配がした。



「クソ……」



 幕営地は遠くない。これだけの獣が集まれば、さすがに気づきそうなものだが、誰一人として姿を現さないのは、やはり何かがおかしい。現状が現実なのか、夢なのか判断が付かず、エリゼオは眉根を寄せる。

 何にしてもこれだけの数だ。どう足掻こうと勝てる見込みはない。



「……」



 エリゼオは溜息をつき、剣を納める。



「あら、仲間には諦めるな、と吼えるくせに。存外早かったわね」



 揶揄するのはまた別のリコス。彼女は頭を掻いて首を振る。



「彼らは皆眠っている」



 唸るのは大きなリコス。



「心まで読めるのか」



 皮肉たっぷりに言えば、背後の男が囁く。



「怒らせるつもりはないの。ただ、お礼が言いたかった」

「礼?」



 エリゼオが振り返ると、巨木に背を預けたベルンハルトが首を傾ける。



「命を削るモノ共にはほとほと手を焼いていた。森の民を向かわせるも、悉く死に絶えた。それはもう目にしただろうが、悲惨な有様であった」



 声を上げた大きなリコスは、相変わらず不遜な態度で唸る。



「魔女に聞いたら、ニンゲン呼べ、って言うから」



 次に口を開いたのは小さなリコス。

 エリゼオは口々に言葉を吐く獣を見ながら、



「だからアルゴを襲わせたのか……」



 顔を顰めた。



「我らが獣を操れるのは近場まで。森より離れると言うことは我らの手を離れると言うこと」

「だから、餌があるって唆したの」

「後は獣がやった事」

「我らは預かり知らぬこと」



 囲まれ、輪唱の様に響く声は鼓膜を無遠慮に引っ掻く。



「なんとも勝手だな」



 不快なそれに頭を振って、エリゼオは舌を打つ。



「我らはこの地を護るだけ」

「ただあなたに感謝を」



 声がそう言うと、リコスが一斉に身を伏せた。同時に、あの時、森の中で雨が降った時の様な、独特の雰囲気が木々を騒めかせた。巨木一つ一つが軋み、歌う様な、囁く様な音を作る。そうして風を起こし、緑を巻き上げ、頭上から黒を濃くした木の葉を振らせる。



「……」



その様は確かに壮観ではあったが、エリゼオの琴線には触れない。



「なぜ俺を呼んだ? なぜ准将の形をとる?」



 眉根を寄せれば、



「あなたは……。私の足元に血を流したでしょう?」



 ベルンハルトが静かに笑う。

 向かい合う形のまま、エリゼオはその赤から目を逸らし、昼間の出来事を思い出す。そして先程の、拘束される様な、抑えつけ、捻じ伏せられる様な、不快な感覚に襲われた現象まで思い至る。



(じゅ)……か」



 森が、木々が震え、幻の雨が降った時点で気づいた筈だった。それなのに。

 犯した過ちは余りに大きい。

 奥歯を噛み、弁柄を眇めた。



「あなたたちは互いに呼び合った。そしてあなたは血を流した。だから私は呼べる。あなたを」



 それがどれ程残酷な宣言か。

 エリゼオは血の気が引くのを感じながら、襲い来る絶望に息を詰める。



「ねぇ、エリゼオ」



 揶揄された。

 途端に身体が動かなくなる。

 後、起きうることなど、想像に易い。魔力を操るモノの多くは血を使う。だから決して彼らに与えてはいけない。命を操るモノの多くは名を使う。だから決して明かしてはならない。

 しかし、エリゼオはどちらも明け渡した。自身を囲む術師の群れがその気になれば、自我とは関係のないところで身体を奪われる。そして最悪な事に幕営地が近い。

 これらのことから想定される最悪な事態。

 エリゼオは己の手で、己の意思とは関係なく、黒騎士が切り捨てられていく姿を描き、震えた。

 あの時、森の外へ逃れた時点で自ら命を絶つべきだった。

 押し寄せる後悔に喘ぐが、呼吸さえままならない。言い知れぬ恐怖に目を閉じると、流れた汗が頬を、首筋を伝って、流れ落ちる。



「……て、くれ……」



 辛うじて出た音は引き攣って、うまく言葉にはならなかった。

 しかし、伝わったのか、眼前の男は笑う。



「私は呼べる。あなたを。でもそれはしなかった」

「っ、はっ!」



 エリゼオは解放され、今度こそ地面に膝をついた。

 溢れた汗が額を流れ、鼻筋をなぞって地面に落ちる。



「さぁ、お話をしましょう?」



 細い指が薄い唇を撫ぜた。

 木々が騒めく。地鳴りの様に。

 木々が笑う。彼の顔で。

 木々が囁く。彼の声で。



「お前ら……。言葉を、使う、なら……。礼の、意味、くらい……、理解、してから、に、しろ……」



 地面に手を突き、空気を求めて喘ぎながら、エリゼオは唸る。



「あら? もう十分過ぎるくらいお返ししたつもりだったのだけれど」



 彼の眼前に陣取ったベルンハルトは片膝を突き、それでも屈服しまいとする雄羊を見下ろしながら、薄ら笑いを浮かべていた。腕を組み直し、巨木に身を預け、目端に色香を乗せる。

 その姿を苦々しく見上げながら、エリゼオは肌を粟立たせる。それは確かに主の姿で、主の声を出すが、赤に輝く瞳の奥にあるのは暗く深い沼。それは主のニオイを放ちながら、同時に溝水にも似た異臭を纏う。



「ヒトの首に縄をかけておきながら、随分な物言いだな」



 エリゼオが牙を剥けば、ベルンハルトは整った口元を歪に引き上げる。



「この世界が糖蜜でできているなんて思っていたの? あなたは過ちを犯した。でも未だに命があって、あなたの大事なモノ達は呑気に寝息を立ててる。これ以上に何を望むの?」



 それは少し苛ついた様子で、脅嚇の意を明白にした。呼応する様に、周りを取り囲んだ獣が低く喉を鳴らす。



「これ以上の抵抗は得策ではないと思うのだけれど」



 眇められる赤に、背筋が冷える。最悪が過る。

 エリゼオが生唾を呑むと、ベルンハルトは巨木から背を離した。そうして腕を下ろし、優雅に歩を進める。巻き上がる風が砂埃を掬い、彼の薄い赤を逆立てた。その姿は大気を纏う術師で、美しさと共に畏怖を運ぶ。



「……」



 エリゼオは魅入られた様に彼から目を離せず、立ち上がる事さえできなかった。無言のまま僅かに身を退けば、怯える生娘の様に地面に尻をつく羽目になる。

 ベルンハルトは構わず距離を詰め、眉を寄せる雄羊の前に立つ。



「……」



 無言の圧力を体現するとしたら、きっと彼がそうなのだろう。月を背に負い、影の落ちた顔には表情さえなく、のっぺりと闇を張り付ける。

 伝う汗は冷え、嬲る様に身体を流れ落ちる。

 呼吸を忘れた肺は縮こまり、息苦しさより眩暈を選んだ。



「言葉で理解できないのなら、手綱を取るわよ?」



 抑揚のない声。

 差し出される細い腕。



「っ」



 掛けられた縄が締まる音が聞こえた様な気がして、エリゼオは無意識に首元を引っ掻いた。顔を上げれば、真っ赤な瞳とぶつかる。



「一度分からせた方がいいかしら?」



 同時だった。



「ぐっ!」



 とてつもない力で地面へ押し倒され、反動で下肢が宙に浮く。頭を、胸を押さえ付けられ、



「くっ、そっ!」



 抗おうと空を掻いた四肢まで絡め取られた。

 見えない何かは大きな雄羊の身体を地面に縫い留め、拘束する。



「はなっ、せっ!」



 無様に唸って見せるが、最早己の意思で動くこともできず、ただ早鐘の様に鳴る鼓動だけが煩かった。



「案外強情ね?」



 影の下で歪んだベルンハルトの顔が、哀れな羊を見下ろす。



「強い雄は嫌いじゃないけど……」



 言う彼の、月光に赤く濡れた唇は色香を放つ。それは酷く匂い立つ夜の香り。



「虐めたくなるわ」



 赤の中に月を見た。

 瞬間、何かが脇腹を撫ぜ、下腹を擽って這い上がってくる。



「やめっ……っ」



 エリゼオは強く唇を噛んで、動かない身体で悶える。



「あぅっ」



 鳴けば、それが喉を鳴らし、肩を揺する。



「観念なさい」



 言うが早いか、熱もないそれが首元に掛かる。途端に下がる血液。身構えるが動けず、



「あっ、がっ!」



 絞められるままに、喉を鳴らす他なかった。



「っ……ぁ……」



 皮膚が擦れ、絞られる布切れの様に高い音を出して、鼓膜を引っ掻く。息苦しさに舌を出すが気管は開かず、空気を求めて開閉した口端から涎が流れた。



「っ……っ……」



 痛いくらいの静寂に、鼓動が早い。溢れた汗が頬を伝い、短い栗毛を濡らして地面に落ちる。辛うじて動く指先は苦痛で痙攣し、地面に僅かばかりかかった爪が割れた。



「ぃ……」



 脈打つ鼓動は更に早くなり、拘束された胸を震わせるほど大きくなる。エリゼオはのたうち回る事すら許されず、陸に上げられた魚の様に微かに喘ぐばかり。引き攣った筋肉が悲鳴を上げ、視界が揺らぐ。



「……」



 どこか遠くで、何かが覚悟を決めた。

 開けていられない程重くなった瞼を閉じるに任せると、



「いい加減にせんか」



 何かが唸った。エリゼオにはそれが何かを判断できる余裕はなかった。ただ、身体を拘束する力が一瞬で消え失せ、



「っ、……っ」



 大量に流れ込んでくる空気に胸を詰めた。酷く痛むそれを引っ掻き、胎児の様に丸くなって、肢体を痙攣させる。



「我らにも猶予はないのだ。協力者をここで失う訳にはいかん」



 それは遠くで鳴る雷の様に喉を鳴らし、ベルンハルトを諫めた。



「あら? 揶揄っただけじゃない」



 受ける彼は楽しそうに笑って、力なく呼吸を繰り返すばかりの雄羊の傍に腰を下ろす。



「ねぇ? これで素直になれるでしょう?」



 流れるまま、地面を汚した涎を拭われ、顎を掬われる。振れたそれはやはり冷たく、主のそれとは全くの別物だった。流れる風が彼の脇を過ぎ、緑と、とろける程に甘い香りを運ぶ。



「さ、……る、な。樹人(ジュト)が……」



 エリゼオは鼻面に皺を寄せ、力の限り唸る。口元から覗く整った歯列に、長く尖った牙が月光に濡れる。



「……」



 ベルンハルトは暫く、抵抗もできずに唸るばかりの雄羊の顔を見下ろしていたが、



「もおっ! ホントにこれに頼むのっ?」



 汚物でも触ってしまったかの様に手を引き、立ち上がって踵を返した。



「っ」



 急に支えを失ったエリゼオは、地面に強かに後頭部を打ち付け、顔を顰める。



「だって、時間がないじゃん」



 口を開くのは小さなリコス。



「私死にたくない」

「それは誰もが同じだ」



 引き継ぐのは大きなリコス。



「許せよ、恩人。あやつは乱暴でいかん」

「ほんとー。短気なんだよね」

「煩いわね」



 エリゼオはまだ震えの取れない腕を突っ張り、何とか半身を起こす。



「大体、説得するって言っておきながら、イジメるってどうなの?」

「まったく。これでは獣と変わらんではないか。脅迫だ、脅迫」

「ほんとー」



 口々に責め立てるリコスに、ベルンハルトは後ろに腕を組んで振り返る。そうして主の顔で唇を尖らせ、



「分かったわよっ! それじゃこうしましょ。今からやり直すの」



 さも名案だ、と手を打つ。

 その姿に、エリゼオは既視感を覚え、頭を抱えた。



「なによ?」



 主の顔で、主の声で、主の言葉で首を傾げるそれに、



「いつまでその格好で口を開く積りだ?」



 エリゼオは心底嫌そうな顔で返した。



「あら? この姿が嫌なのね。ふふんっ、止めてあげないわよ。あなた、彼には逆らえないでしょ?」

「……」



 雄羊は今度こそ、大きく溜息をついて、項垂れた。




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