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黒の雄羊  作者: みお
第1章
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第29話  その後(1)

「お兄ちゃんっ、目を閉じないでっ!」



 フロミーは地面に血溜まりを作り、倒れたアウヴォの手当をしながら涙を流していた。

 彼女達を囲む黒騎士も気遣いを見せたが、誰も顔を下げたりはしない。今、彼らがすべきことは辺りを警戒し、倒れた仲間を、大切な群れの仲間を護る事。不安の共有も、無駄口も一切必要ない。



「……」



 エリゼオは座り込んだまま、遠くで聞こえる少女の悲鳴と、彼の兄が流し続ける血のニオイに弁柄を眇めていた。その内に、先程まで耳を塞ぎ、身を縮めていた筈の彼の声が響く。

 零れる苦い笑い。



「……」



 イェオリは四肢を痙攣させる獣を、その膨れた腹を見ながら溜息を零していた。

 一体どこからやって来たのかは知らないが、身重の身体でよくここまで抵抗したものだ。これが単なる私怨ではなく、互いに生きる為に交えた刃だ、と信じたい。



「悪いな。運が良かったのは俺らの方だったらしい」



 静かに呟いて、イェオリは剣を振り上げる。

 弾ける光。

 鳴る空気。

 どんな相手だろうと、最後は敬意を持って。



「じゃーな」



 振り下ろしかけたところで、



「待って!」



 馴染んだ声に制された。

 イェオリは腕を振り上げた状態で、走り寄る彼を見た。そして緑眼を眇める。



「待ってっ!」



 その隙に、ベルンハルトは殺気を放つ兄と獣の間に、何とか身を滑り込ませた。



「待って……」



 息を弾ませ、獣を庇う様に身を寄せた。触れればその巨体は酷く熱く、不規則な震えを伝える。分厚い肉の向こうに僅かばかりに感じる鼓動は、彼女の生の証。



「間に、あった……」



 ベルンハルトは安堵し、獣の身体に凭れた。

 気が抜けたせいか、傷ついた足が酷く痛む。気づかなかったが、脇腹の辺りがじくじく、と痛んで、呼吸も真面にできないでいた。きっと怯えて隠れている間に、エリゼオは酷い目に会っていたに違いない。熱くなった目頭に眉根を寄せ、震える身体を無意識に擦る。

 そんな彼を見下ろしながら、イェオリは顔を顰める。

 あれだけ言い含めて、これはどう言う事なのか。

 酷く気分を害して、普段は決して見せない顔を上官に向ける。



「これは俺の獲物だぞ」



 暗に手を出すな、と言ったつもりだったが、彼の弟には通じない。ベルンハルトは灰目を何度か瞬かせ、上目に怒るイェオリを見る。



「俺に譲って」

「……」

「お願い」

「……」



 最愛の弟は、願えば叶うとでも思っているらしい。揺れる灰に見つめられ、イェオリは溜息を零した。ここでどう言葉を並べようが、結末は決まっているのだろう。ならば抵抗するのも時間の無駄か。

 イェオリは掲げたままだった剣を鞘に収め、深く、深く溜息を零す。そうして腕を組み、ベルンハルトに肩を竦めて見せた。



「あっ、はっ!」



 彼らを脇で見ていたヴィゴは声を上げて笑った。それを緑眼が睨む。



「悪い、悪い」



 悪びれる様子もなく、肩を揺らし続ける相方から上官へ視線を戻し、



「覚えてろよ、エリゼオ」



 イェオリが低く唸れば、



「俺は違えてないだろう? 恨むんなら准将にしてくれ」



 上げた彼の灰目が弁柄に揺れ、その口端を軽く持ち上げた。そして直ぐに灰目に戻る。



「怒った?」



 ベルンハルトが眉根を寄せると、灰が潤んだ。



「……」

「……ごめん」

「……」

「ごめんなさい」



 その顔は捨てられた子犬の様で。



「まったく……」



 容易に心を抉られた。

 これ以上、誰が彼を責められようか。

 イェオリは項垂れる他、無かった。



「……気にするな」



 結局、誰も彼には敵わない。



「どうするつもりだ?」



 イェオリは目を伏せ、深く溜息を吐いた。そうしてもう一度、緑に灰を映すと、



「アウヴォを助ける」



 彼の足元で、ベルンハルトは力強く拳を握って見せた。その仕草が子供の様で。イェオリは怒りより愛おしさを感じ、自嘲気味に鼻を鳴らした。



「そうか」



 ベルンハルトは口を閉じた兄貴分から、何とか生にしがみ付く獣へと向き直った。そして彼女の腹を撫でる。硬い皮膚の向こうに僅かに感じる胎動。きっとまだ仔も生きている。腹を裂き、出せば生きられるだろうか。調教し、荷を引かせれば隊に迎えられるかもしれない。



「……」



 考えるが、その悍ましさに気づき、首を振る。

 親を殺しておいて更に使役するなど、自尊心を満たす為だけの、慈悲の名を借りた偽善に過ぎない。

 ベルンハルトは触れた腹から手を引いて、浅く呼吸を繰り返す獣の顔の方へと回り込んだ。そしてその頬に触れ、鼻面に触れ、目を瞑る。反応さえしないそれを悲しく思うが、再び首を振って、雑念を追い払う。



「もう大丈夫だよ」



 慈しむ様に撫で、呼吸する。

 それは気の遠くなる様な、眩暈にも似た感覚。放って置けば引かれるまま、後ろへ倒れてしまうのかもしれない。



「痛みも直ぐになくなる……」



 平を伝い、腕を伝い、首筋を伝い、それは喉を熱くする。まるで強い酒を呷り続けた様な、内臓が焼ける痛み。呼吸を繰り返す度にじんわり、と身体全体に汗が滲み、震える。

 焼け、熱くなっていた空気は風に流れ、今はただ心地よい涼やかさを運んだ。

 僅かばかり離れた森は静けさを取り戻し、今はただ荒れ狂った命の行方を静かに見守っていた。



「……」



 イェオリは儚げな上官を黙って見ていた。

 一見すれば獣に触れ、死を悼んでいる風にも見えるが、纏う雰囲気がそれとは違う。見えるとすれば澱んだ黒か。優秀な軍医はそれを食事、と称するが、その横顔に幸福感は微塵も見えない。

 こんなに苦痛に満ちた食事を摂る必要があるのか。

 本来なら直ぐにでも引き剥がして、彼を救いたい、と願うが、理性が彼の意思を尊重しろ、と必死に叫ぶ。イェオリは自嘲して、いつの間にか組んだ腕に爪を立てていた平から力を抜いた。



「……」



 黒騎士に生を強奪されるマンディブラは、やがて痙攣さえ止め、力なく大地に肢体を投げ出した。そうして乾いた音を立て、拉げ、崩れる。続いて赤く乾いた大地が軋んだ。雷撃で作った皹をより深くし、更に細かく割れて、最早原形すらも留めない獣を中心に陥没を始める。



「ミンツ、もういい」



 傍らに控えていたイェオリは静かに言って、全ての生を吸い上げる雄羊の肩に手を掛けた。



「はっ……」



 いつの間にか詰めていた呼吸を再開し、ベルンハルトが目を開けた。途端にふらつき、平衡を失った身体をイェオリに支えられた。



「大丈夫か?」



 優しい緑眼に見下ろされれば、



「き、気持ち悪い……」



 ベルンハルトは眉根を寄せた。

 少し離れた場所から一部始終を見ていたヴィゴは、



「腹は膨れたか?」



 いつもより少し低い声で、彼を揶揄した。



「んー、膨れたと言えば、十分すぎるくらい……」



 応えるベルンハルトは嗚咽を漏らす。

 そこに充足感はない。かなり無理をしているらしい事は直ぐに分かった。

 しかし、



「アイツを助けてくれるなら、早いとこどうにかしてやってくれ」



 少し複雑な表情を浮かべ、ヴィゴは肩を竦める。

 それは臣子の状態を見たからこそ。多くの戦場を潜り抜けてきたからこその焦りだった。国内、外問わず、黒騎士には常に死がついて回る。理解はしているが、納得している訳ではない。

 眉根を寄せるヴィゴの心中を察して、



「イェオリ、引っ張って……」



 ベルンハルトは何とか立ち上がる。その際、長く太い針が食いこんだ左足が、結果的に伸ばされる格好になった肋骨が激痛を運んだが、唇を強く噛んで何とか耐えた。今は一刻も早く、傷ついた仲間を癒さなければ、ただそれだけが彼を突き動かしていた。



「お前も良くはない。無理はするなよ」



 身体を支えながら、イェオリは震える上官に囁いた。



「たいした事ないって。アウヴォ治して、直ぐにフロミーに診て貰う」



 優秀な支援兵の名前が出たところで、イェオリは立つ事さえままならない上官を抱えた上げた。



「おー、おー。酷くやられたな」



 獣からは大きく距離を取った黒騎士の一団。ヴィゴは倒れた臣子を囲む様に立つ彼らを掻き分け、アウヴォの傍らに腰を下ろした。上げられた眉庇から覗く彼の顔色は酷く悪い。



「ったく……」



 苛立ちに舌を打ち、倒れるままにされている臣子の背に腕を入れる。少し動かすと彼が呻いたが、構わず上半身を持ち上げ、肩から掛けた矢筒を取り、腰に回された革紐を片手で器用に解いた。これで長い革を巻いた、細い丸太状の暗器入れは地面に重い音を立て、落ちる。

 ヴィゴはそれをアウヴォの身体の下から取り除き、今度は兜から彼の頭を抜いた。汗に濡れた髪が赤に白く散り、染みを落とす。



「らしくねぇことしてんじゃねぇよ」



 弛緩した臣子の身体を再び地面へ横たえ、腰から取った巻き革を首の下へ差し込んだ。



「ルル……」



 か細く鳴いて返す声に力はない。フロミーより明るい金の中の、大空を舞う鳥と同じ、真ん丸の黒目は散大して、最早どこを見ているかも分からなかった。

 それは戦場でよく見る色。

 臭い立つ死の影。



「フロミーを悲しませる気か、アウヴォ」



 色を失った頬を撫で、流れた涙を追って目元を撫でれば、彼の目元を鮮やかに彩る菖蒲色が無骨な指に移った。

 何時になく低い音を出すヴィゴに、感情を押し殺して手当に専念していた少女が大粒の涙を落とす。



「あぁ、悪い。大丈夫だ、心配しなくていい。もう、ベルが来る」



 ヴィゴが小さな頭を撫でれば、フロミーは嗚咽を漏らし、何度も頷いた。

 それから直ぐに、イェオリに抱き抱えられたベルンハルトは群れに合流した。アウヴォに負けない位の青い顔で、彼は傷ついた仲間の脇に跪く。そうして赤く肉を見せる傷口に唇を付け、そのまま動かなくなった。

 フロミーは祈る様に胸の前で腕を組み、ヴィゴはその頭をまた優しく撫でた。




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