第26話 赤い大地
「お日様はやっぱあったけぇなぁ……」
黒騎士一個小隊が入森した場所で待機する馬番は、適当に身を寄せ、それなりに寛ぐ軍馬の脇でのんびりと空を眺めていた。
流れる雲。
透き通る空は淡く青に広がる。
降り注ぐ光は酷く暖かだったし、香る風は濃い緑を運んでくれる。脇を見れば僅かばかりの草を食む軍馬と、色彩豊かな毛皮を輝かせ、じゃれる騎獣が視界に入った。何と牧歌的な光景か。これが任務でなければ地面に転がって、鼻歌交じりに微睡んでいたことだろう。
四半刻ばかりから、森が目を覚ました様な気配を感じたが、別段変わった様子は見られない。彼の上官は索敵のみで直ぐに戻る、と告げていたし、合流後、報告すれば問題はない、と考えていた。
「ふぁぁーあぅ……」
自然と零れた欠伸に身体を伸ばす。
別動隊の帰還までにどれだけの時間があるのか不明だが、これも大事な任務。上官の言いつけ通りに足を見張り、獣を警戒し、今はただ、温かな平穏を享受するだけである。
「っ、は、はっ」
どれ程走ったのか。
イェオリは痛み始めた胸に顔を顰める。
元より持久力を望める身体ではない。その性質上、類稀なる力と瞬発力を生かし、獲物を狩るのが彼のやり方。護衛として敵に立ち向かう能力に長けていても、脱兎のごとく、尾を巻き逃げるのは不得手だ。しかも今回は大きな荷物付き。片手は塞がり、本来守るべきモノさえ後方に引き離す。
幼い彼女を護る事こそが上官の願いだとしても、これでは過去を殺し、彼の許へ舞い戻った意味がない。
―――何をやってるんだ、俺は……。
イェオリは胸中でごちて、項垂れる。とにかく今すべきことは、荷物を置き、取って返して上官の護衛に入る。それだけ。
イェオリは顔面を庇い、腕を突き出す。そしてそのまま勢いを殺さず、
「っ!」
行く手を阻む枝葉を突っ切り、赤い大地へ飛び出した。
「?」
穏やかな時間に蕩けきっていた黒騎士は顔を上げ、森を見る。彼の鋭い聴覚には確かに何かが聞こえたのだが、目に映るのは穏やかな空と、相も変わらず何も居ない赤い大地。そしてそれに突如壁を作る巨大な木々だけだった。
「なんだ?」
彼は少女を抱えて逃げた上官より、僅かばかり北にずれたそこで立ち上がり、手に持っていた草を落として、首を傾げていた。
「はっ」
弾んだ息に、ヴィゴ小さく喘ぐ。
顔を上げれば先を走っていた筈の相方の姿はなく、代わりに木々が口を開け、柔らかな日差しを零していた。彼は構わず駆ける。
とにかく前へ。
「んー?」
馬番は更に首を傾げ、急激にざわつき始めた森に目を凝らした。別段、騒音として鼓膜が揺れる訳ではない。それは肌で感じる類の騒めき。
強いて言えば、空気が震える様に、魔力が騒いでいる。そんな独特な雰囲気。それが実際に触れられる物ならば、熱く感じたかもしれない。
とにかく、森が急激に震えだした事実に、馬番は眉根を寄せた。
その背後で軍馬が、騎獣達が騒ぎ始める。
「おいおい……」
彼は慌てて駆け寄り、
「どうした? 落ち着けって」
暴れる馬体を優しく撫でた。
脇で騎獣が喉を鳴らす。
怯えた軍馬が地面を掻き、尾を振る。
彼らは訓練された獣。町を闊歩するモノ達とは違い、手綱で繋がれることはない。その理性と忠誠心に重きを置き、何があっても直ぐに対応できるように放してある。それが信頼であり、獣も己の意思で主に尽くしている。
そんな彼らが落ち着かず、騒ぐという事は、余程の事態が起こっている証でもあった。
「なんか……」
覚える違和感に落ち着かず、馬番は温かな馬体に身を寄せた。困惑に、自然と眉根が寄る。
「どうしたよ?」
声を上げるのは彼と同じく番を任された黒騎士。
彼は仲間を伴って、騒ぎ始めた獣を撫でた。そして怯える同僚をその視界に捉える。
「何が起こってる?」
彼がこの場にいる誰より洞察力に優れていると知っている。その能力は上官が信頼を置く程。意志決定する立場になくとも、彼は常に先導者で有り得た。
「……」
馬番は答えられない。
理由が分からない。
言い知れぬ不安に息を詰める。
「なんだろ? なんか……」
足元から這い上がる何かが背筋を撫ぜる。それは腰骨を伝い、首筋へ。
馬番は本能が告げる警告に身を退く。
すると、
「おわっ」
彼が身を寄せていた軍馬が主の脇に鼻面を埋めた。そして首を上げ、早く乗れ、と急かす。
「これ、ヤバいよ……」
その眼前で森が揺れる。
軍馬は嘶き、何頭かは身を翻した。
「あっ! ちょっと待てっ!」
黒騎士が叫ぶ。
同時だった。
「っあ!」
雄羊が角を振り、森から飛び出す。
「え? 大尉?」
「中佐?」
黒騎士の誰か漏らす。
間を置かず、森が揺れる。
今度は視覚に捉えられる形で、本当に揺れた。
何かがぶつかる様な重い音。
続くのは生木の悲鳴。
「退けっ!」
ヴィゴが叫ぶ。
「え?」
「なに?」
馬守は呆気にとられ反応できない。
その中にあって、鋭敏な馬番だけは己の軍馬の背に居た。
「退けっ!」
叫び、走る雄羊。
その背後から、
「ウルウウウウウウアッ!」
巨大な獣が飛び出してきた。
それは赤黒の体躯を日光に艶めかせ、鋭い鬣を輝かせる。
舞飛ぶ木片。
舞い散る緑。
そして降り注ぐ枝葉。
驚いた軍馬が駆ける。
馬体を撓らせ、蹄を鳴らし、蜘蛛の子を散らす様に惑う。
「ウルルルルッ!」
マンディブラは突如増えた熱源に戸惑い、その場で足踏みした。その後ろから、遅れてもう一頭が顔を出す。
「大尉!」
軍馬に騎乗した馬番は上官を見た。
反射的に彼を捉えた橙が、馬番の眼前で細められる。
―――行け。
慣れ親しんだ声は聴けなかった。
上官は無言のままに、ただ手を振る。
次の瞬間には、
「走ってっ、アノ!」
馬番は愛馬の腹を蹴っていた。
彼女は主に従い左で蹴り、右を上げた。次いで右で蹴り、後肢を上げると一気に速度を上げる。
溶ける景色。
流れる鬣。
鼓膜を揺らしたのは惑う嘶き。
馬番は後ろ髪を引かれる様に、馬上で振り返る。その目に映ったのは前肢で大地を抉る獣。
舞飛ぶ土塊。
そして吹き飛ばされた仲間の姿だった。
「ギギギギ……」
アウヴォは樹上を駆け、急に喪失する足場の上で何とか踏み止まった。そしてそこで吹き飛ぶ仲間を、上官を見た。
舞う黒銀に、尾を引いた橙が嫌に鮮やかだった様に思う。
敬愛する彼はなされるがまま。人形の様に地面に落ち、跳ねて転がり、動かなくなる。
「グググ」
一気に粟立つ背筋。
腹の底から湧き上がる感情に、アウヴォは矢筈を探る。そうして複数の矢を番え、引き絞り、思うままに解き放った。
狙うのはたっぷり矢をくれた獣ではなく、より大きな体躯の獣。
大切なモノを傷つける害獣。
「ウルルルルルッ!」
猛獣と同じ音で喉を鳴らすと、アウヴォの後ろから次々に黒騎士が姿を現し、矢を番えた。
もう遠慮はいらない。それの周囲に上官はいないのだから。流れる矢に巻き込まれるのは惑う軍馬と、赤い大地で跳ね回る猛獣だけ。
「クアッ!」
鳴いたアウヴォに従い、狩人達は解き放ち、暴れ回る獣へ矢の雨を降らせた。
「はっ、はっ、はっ」
イェオリは少女を抱いたまま、上がった息に喘いでいた。
しかし、決して警戒は怠らない。その耳は周囲の音を聞き逃すまいと研ぎ澄まされ、鼻はあらゆるモノのニオイを探り続ける。
「……」
熱くなった身体を冷やすのは乾いた風。
匂い立つ血臭いは流れ、先程までけたたましく吼えていた小さな獣も、何時の間にか口を噤んでいた。
「……」
訪れる静寂。
騒めくのは森の木々だけ。
後方でヴィゴが、エリゼオが時間を稼いでくれていた筈だがその気配もない。逸れたのか。それとも引き剥がしてくれたのか。
「っ、はっ」
イェオリはしばし詰めていた息を吐き、少女を抱えたままその場に座り込んだ。一時的だったとしても、緊迫した状態から解放された喜びは大きい。集中力が途切れ、一気に身体が弛緩する。
「はっ、はっ、はっ」
目を瞑れば身体が震える程心臓が脈打ち、流れる汗が頬を、首筋を伝って、しとどに濡れた背筋を撫で、落ちた。
「フ、ロミー……、悪い、少し、どい、て、くれ……」
イェオリは震える少女の身体を自身の上から押しのけて、後ろ手を突き、顎を上げた。
「はー……っ、はー……っ」
沈子の外れた肺は大きく膨らみ、気管は空気を求めて大きく開く。
「っ、うぅっ」
フロミーは、震えの止まらない身体を掻き抱き、嗚咽を漏らし続けていた。目を瞑った脳裏に響く短い悲鳴。それに乗る重い音と、引き裂ける肉の色。飛び散った鮮血はこれまで見たどの色より鮮やかで、網膜に焼きついたそれはきっと消えることはない。
「うぅう……」
少女が呻くと、
「ふーっ」
深く息を吐いたイェオリが彼女を見た。
「こい」
イェオリが手招けば、泣きじゃくる少女は素直に身を寄せて来た。それを確りと抱き留めながら、背筋を伸ばすと、自然と肺が空気で満たされた。無意識のうちに足首を握り、何度か深呼吸を繰り返す。
次々溢れ出る汗に覚える不快感。それは鎧下を肌に張り付かせ、控えめに身体を拘束する。引き攣る様な、濡れた感触を嫌がって首元に手を掛けるが、鎧が伸びる筈もなく、内に篭った熱で身体を蒸す他なかった。
忌まわしくも大切な鎧をなおざりに叩き、イェオリは項垂れる。
「……」
眩む頭に浮かぶのは捨てた部下の命。
あの場で少女を捨て、剣を抜けばまた違う道が待っていたかもしれない。
その時、上官は助かったか。
その時、獣は倒せたか。
その時、部下は生き残ったか。
その時、少女は。
「……」
整った呼吸とは別のところで、血潮が逆巻く。
もしかしたらヴィゴの言う通り、別の獣が出たかもしれない。
もしかしたら騒ぎに気付いたシンの魔女が出たかもしれない。
もしかしたら。
全ては仮定で、結局考えても分からない。問いの答えは最早ないのだから。
「っ、しょ」
イェオリは膝に手を突き、立ち上がる。
彼に縋りついた少女は鎧に掛かった腕に引きずられ、立ち上がりかけたが、途中で力尽き、ずるずる、と再び地面に座り込んだ。
糸の切れた人形の様に項垂れる少女に溜息をつき、
「うら、立て」
イェオリは乱暴に彼女の襟首を掴んだ。
フロミーは抵抗もせず、なされるがまま。獣の様に首根っこを摘ままれて、上目に何倍も年の違う上官を上目に見た。
「……」
金茶の目に滲む悔恨。
イェオリは溜息を零す。
「このまんまここで後悔してても、またそれに後悔する羽目になるぞ」
肩を竦めれば、少女は項垂れる。
「起こった事は変えられない。今はできることをやるだけ、だろ?」
そう口にして、イェオリは苦く笑った。
幼い少女を言い含めている積りでいて、結局は自身に言い聞かせているのか。そう気づいた為だったのだが。
少女は眇められた緑眼にまた心を痛めた。
「あ……」
フロミーは視線を彷徨わせ、無意識に胸を押さえる。
大きく育った鉛玉が酷く重い。
内臓を押し上げる吐き気に目頭が熱くなる。
「ごめんなさい。私が……」
「止めろ、フロミー。言い出したらきりがないだろう。考えるのも止めだ。案外動いた方が何とかなる」
開いた手で少女の頭を撫でながら、イェオリはまた苦く笑った。そして彼女を再び抱え上げた。
鎧越しに感じる僅かな震え。
鎧越しに感じる悲痛。
願うのは、彼女が曲がらず、ただ幸せに育つ事。
少女の顔を覗き込めば、滲んだ金が揺れ、また涙が溢れ零れ落ちた。それは止まらず、幼い頃の彼を思い起こさせる。
「あぁ……」
結局、イェオリがどう足掻こうと、心中で葛藤して見せようと、あの場で少女を捨て置くことはできなかった。それが結論で、事実。
「手の掛かる……」
心根の優しい大きな雄羊は静かに零して、フロミーを強く抱きしめた。
応える少女は、彼の胸の内に納まる程度の身体を僅かばかりに震わせ、躊躇いがちに黒騎士の首に細腕を回す。
傍から見れば親子の様に映っただろうか。
湧き上がる庇護欲に自嘲し、イェオリは小さな背を叩き、優しく何度も頭を撫でた。
彼女が純粋な血統なら。
彼女が国の中央に座する貴族の娘なら。
胸中を苦く汚す思いを押し込め、彼は目を腫らす少女の顔を覗き込む。
「さて、フロミー。子ども扱いはここまでだ。そろそろ優秀なコロヴァニエーリ上曹殿に戻ってくれるか?」
イェオリが揶揄する様に問えば、少女は鼻を啜る。そうして何度か目を擦り、赤い鼻を、頬を更に赤くして、大きな羊の緑眼を見つめ返した。
「は、はいぃ。わっ、わたし、は、だ、だいっ、じょうぶです!」
深く息を吐き、鼻を鳴らした少女に、イェオリは静かに唇を噛む。また楽になろうとする頭が、悲劇を吐き出させようと躍起になっては喚き散らしていた。
しかし彼は口を開かず、思いを飲み込んで、ただ彼女の頭を優しく撫でる。
「ヴィゴとエリゼオが作ってくれた時間だ。奴等も気にかかるが、今のうちに解決策を案出したい」
イェオリがいつもは見せない顔を覗かせる。
フロミーは真剣な緑眼に何度も頷き、
「まず、先程分かった、ことは……。マンディブラと言うっ、獣は、目がなく、体温で物を見ている、と言うこと、です」
情報共有から得られることもある、と考えて、とにかく気づいたことを口にした。
「体温?」
「はい。こう、口の周りに穴が、開いていたのっ、気づかれましたか? あれで、物を見るんです」
フロミーは時折鼻を啜り、不規則に喉を鳴らして、自身の口周辺を指差しながら上官へ説明する。
「あぁ、だから目がないのに“見えてる”か」
「はい。獣の、幾つかにはっ、ああして……。ああして、熱感知器官でっ、物を見るモ、モノが居るん、です。きっとっ、目がない分、耳も鼻もいい、筈ですっ」
腕の中で不規則に喉を鳴らし続ける少女を見下ろしながら、
「あぁ……」
イェオリは静かに零す。
たどたどしい言葉で浮かんだのは、変り者の中でも突出した存在。日向で丸くなる己の臣子の姿。
「うちのハンナと同じか」
フロミーは唸る上官の言葉に、酷く厚着をした同僚の姿を浮かべた。
「はい、そうだと、思います」
「そうなると、弱点も似てくる可能性はあるな」
「はい」
「そうか。それなら何とかなりそうだ」
イェオリは何とか見えだした光に口角を上げた。




