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黒の雄羊  作者: みお
第1章
31/64

第26話  赤い大地

「お日様はやっぱあったけぇなぁ……」



 黒騎士一個小隊が入森した場所で待機する馬番は、適当に身を寄せ、それなりに寛ぐ軍馬の脇でのんびりと空を眺めていた。

 流れる雲。

 透き通る空は淡く青に広がる。

 降り注ぐ光は酷く暖かだったし、香る風は濃い緑を運んでくれる。脇を見れば僅かばかりの草を食む軍馬と、色彩豊かな毛皮を輝かせ、じゃれる騎獣が視界に入った。何と牧歌的な光景か。これが任務でなければ地面に転がって、鼻歌交じりに微睡んでいたことだろう。

 四半刻ばかりから、森が目を覚ました様な気配を感じたが、別段変わった様子は見られない。彼の上官は索敵のみで直ぐに戻る、と告げていたし、合流後、報告すれば問題はない、と考えていた。



「ふぁぁーあぅ……」



 自然と零れた欠伸に身体を伸ばす。

 別動隊の帰還までにどれだけの時間があるのか不明だが、これも大事な任務。上官の言いつけ通りに足を見張り、獣を警戒し、今はただ、温かな平穏を享受するだけである。



「っ、は、はっ」



 どれ程走ったのか。

 イェオリは痛み始めた胸に顔を顰める。

 元より持久力を望める身体ではない。その性質上、類稀なる力と瞬発力を生かし、獲物を狩るのが彼のやり方。護衛として敵に立ち向かう能力に長けていても、脱兎のごとく、尾を巻き逃げるのは不得手だ。しかも今回は大きな荷物付き。片手は塞がり、本来守るべきモノさえ後方に引き離す。

 幼い彼女を護る事こそが上官の願いだとしても、これでは過去を殺し、彼の許へ舞い戻った意味がない。



―――何をやってるんだ、俺は……。



 イェオリは胸中でごちて、項垂れる。とにかく今すべきことは、荷物を置き、取って返して上官の護衛に入る。それだけ。

 イェオリは顔面を庇い、腕を突き出す。そしてそのまま勢いを殺さず、



「っ!」



 行く手を阻む枝葉を突っ切り、赤い大地へ飛び出した。



「?」



 穏やかな時間に蕩けきっていた黒騎士は顔を上げ、森を見る。彼の鋭い聴覚には確かに何かが聞こえたのだが、目に映るのは穏やかな空と、相も変わらず何も居ない赤い大地。そしてそれに突如壁を作る巨大な木々だけだった。



「なんだ?」



 彼は少女を抱えて逃げた上官より、僅かばかり北にずれたそこで立ち上がり、手に持っていた草を落として、首を傾げていた。



「はっ」



 弾んだ息に、ヴィゴ小さく喘ぐ。

 顔を上げれば先を走っていた筈の相方の姿はなく、代わりに木々が口を開け、柔らかな日差しを零していた。彼は構わず駆ける。

 とにかく前へ。



「んー?」



 馬番は更に首を傾げ、急激にざわつき始めた森に目を凝らした。別段、騒音として鼓膜が揺れる訳ではない。それは肌で感じる類の騒めき。

 強いて言えば、空気が震える様に、魔力が騒いでいる。そんな独特な雰囲気。それが実際に触れられる物ならば、熱く感じたかもしれない。

 とにかく、森が急激に震えだした事実に、馬番は眉根を寄せた。

 その背後で軍馬が、騎獣達が騒ぎ始める。



「おいおい……」



 彼は慌てて駆け寄り、



「どうした? 落ち着けって」



 暴れる馬体を優しく撫でた。

 脇で騎獣が喉を鳴らす。

 怯えた軍馬が地面を掻き、尾を振る。

 彼らは訓練された獣。町を闊歩するモノ達とは違い、手綱で繋がれることはない。その理性と忠誠心に重きを置き、何があっても直ぐに対応できるように放してある。それが信頼であり、獣も己の意思で主に尽くしている。

 そんな彼らが落ち着かず、騒ぐという事は、余程の事態が起こっている証でもあった。



「なんか……」



 覚える違和感に落ち着かず、馬番は温かな馬体に身を寄せた。困惑に、自然と眉根が寄る。



「どうしたよ?」



 声を上げるのは彼と同じく番を任された黒騎士。

 彼は仲間を伴って、騒ぎ始めた獣を撫でた。そして怯える同僚をその視界に捉える。



「何が起こってる?」



 彼がこの場にいる誰より洞察力に優れていると知っている。その能力は上官が信頼を置く程。意志決定する立場になくとも、彼は常に先導者で有り得た。



「……」



 馬番は答えられない。

 理由が分からない。

 言い知れぬ不安に息を詰める。



「なんだろ? なんか……」



 足元から這い上がる何かが背筋を撫ぜる。それは腰骨を伝い、首筋へ。

 馬番は本能が告げる警告に身を退く。

 すると、



「おわっ」



 彼が身を寄せていた軍馬が主の脇に鼻面を埋めた。そして首を上げ、早く乗れ、と急かす。



「これ、ヤバいよ……」



 その眼前で森が揺れる。

 軍馬は嘶き、何頭かは身を翻した。



「あっ! ちょっと待てっ!」



 黒騎士が叫ぶ。

 同時だった。



「っあ!」



 雄羊が角を振り、森から飛び出す。



「え? 大尉?」

「中佐?」



 黒騎士の誰か漏らす。

 間を置かず、森が揺れる。

 今度は視覚に捉えられる形で、本当に揺れた。

 何かがぶつかる様な重い音。

 続くのは生木の悲鳴。



「退けっ!」



 ヴィゴが叫ぶ。



「え?」

「なに?」



 馬守は呆気にとられ反応できない。

 その中にあって、鋭敏な馬番だけは己の軍馬の背に居た。



「退けっ!」



 叫び、走る雄羊。

 その背後から、



「ウルウウウウウウアッ!」



 巨大な獣が飛び出してきた。

 それは赤黒の体躯を日光に艶めかせ、鋭い鬣を輝かせる。

 舞飛ぶ木片。

 舞い散る緑。

 そして降り注ぐ枝葉。

 驚いた軍馬が駆ける。

 馬体を撓らせ、蹄を鳴らし、蜘蛛の子を散らす様に惑う。



「ウルルルルッ!」



 マンディブラは突如増えた熱源に戸惑い、その場で足踏みした。その後ろから、遅れてもう一頭が顔を出す。



「大尉!」



 軍馬に騎乗した馬番は上官を見た。

 反射的に彼を捉えた橙が、馬番の眼前で細められる。



―――行け。



 慣れ親しんだ声は聴けなかった。

 上官は無言のままに、ただ手を振る。

 次の瞬間には、



「走ってっ、アノ!」



 馬番は愛馬の腹を蹴っていた。

 彼女は主に従い左で蹴り、右を上げた。次いで右で蹴り、後肢を上げると一気に速度を上げる。

 溶ける景色。

 流れる鬣。

 鼓膜を揺らしたのは惑う嘶き。

 馬番は後ろ髪を引かれる様に、馬上で振り返る。その目に映ったのは前肢で大地を抉る獣。

 舞飛ぶ土塊。

 そして吹き飛ばされた仲間の姿だった。



「ギギギギ……」



 アウヴォは樹上を駆け、急に喪失する足場の上で何とか踏み止まった。そしてそこで吹き飛ぶ仲間を、上官を見た。

 舞う黒銀に、尾を引いた橙が嫌に鮮やかだった様に思う。

 敬愛する彼はなされるがまま。人形の様に地面に落ち、跳ねて転がり、動かなくなる。



「グググ」



 一気に粟立つ背筋。 

 腹の底から湧き上がる感情に、アウヴォは矢筈を探る。そうして複数の矢を番え、引き絞り、思うままに解き放った。

 狙うのはたっぷり矢をくれた獣ではなく、より大きな体躯の獣。

 大切なモノを傷つける害獣。



「ウルルルルルッ!」



 猛獣と同じ音で喉を鳴らすと、アウヴォの後ろから次々に黒騎士が姿を現し、矢を番えた。

 もう遠慮はいらない。それの周囲に上官はいないのだから。流れる矢に巻き込まれるのは惑う軍馬と、赤い大地で跳ね回る猛獣だけ。



「クアッ!」



 鳴いたアウヴォに従い、狩人達は解き放ち、暴れ回る獣へ矢の雨を降らせた。



「はっ、はっ、はっ」



 イェオリは少女を抱いたまま、上がった息に喘いでいた。

 しかし、決して警戒は怠らない。その耳は周囲の音を聞き逃すまいと研ぎ澄まされ、鼻はあらゆるモノのニオイを探り続ける。



「……」



 熱くなった身体を冷やすのは乾いた風。

 匂い立つ血臭いは流れ、先程までけたたましく吼えていた小さな獣も、何時の間にか口を噤んでいた。



「……」



 訪れる静寂。

 騒めくのは森の木々だけ。

 後方でヴィゴが、エリゼオが時間を稼いでくれていた筈だがその気配もない。逸れたのか。それとも引き剥がしてくれたのか。



「っ、はっ」



 イェオリはしばし詰めていた息を吐き、少女を抱えたままその場に座り込んだ。一時的だったとしても、緊迫した状態から解放された喜びは大きい。集中力が途切れ、一気に身体が弛緩する。

 


「はっ、はっ、はっ」



 目を瞑れば身体が震える程心臓が脈打ち、流れる汗が頬を、首筋を伝って、しとどに濡れた背筋を撫で、落ちた。



「フ、ロミー……、悪い、少し、どい、て、くれ……」



 イェオリは震える少女の身体を自身の上から押しのけて、後ろ手を突き、顎を上げた。



「はー……っ、はー……っ」



 沈子の外れた肺は大きく膨らみ、気管は空気を求めて大きく開く。



「っ、うぅっ」



 フロミーは、震えの止まらない身体を掻き抱き、嗚咽を漏らし続けていた。目を瞑った脳裏に響く短い悲鳴。それに乗る重い音と、引き裂ける肉の色。飛び散った鮮血はこれまで見たどの色より鮮やかで、網膜に焼きついたそれはきっと消えることはない。



「うぅう……」



 少女が呻くと、

 


「ふーっ」



 深く息を吐いたイェオリが彼女を見た。



「こい」



 イェオリが手招けば、泣きじゃくる少女は素直に身を寄せて来た。それを確りと抱き留めながら、背筋を伸ばすと、自然と肺が空気で満たされた。無意識のうちに足首を握り、何度か深呼吸を繰り返す。

 次々溢れ出る汗に覚える不快感。それは鎧下を肌に張り付かせ、控えめに身体を拘束する。引き攣る様な、濡れた感触を嫌がって首元に手を掛けるが、鎧が伸びる筈もなく、内に篭った熱で身体を蒸す他なかった。

 忌まわしくも大切な鎧をなおざりに叩き、イェオリは項垂れる。



「……」



 眩む頭に浮かぶのは捨てた部下の命。

 あの場で少女を捨て、剣を抜けばまた違う道が待っていたかもしれない。

 その時、上官は助かったか。

 その時、獣は倒せたか。

 その時、部下は生き残ったか。

 その時、少女は。



「……」



 整った呼吸とは別のところで、血潮が逆巻く。

 もしかしたらヴィゴの言う通り、別の獣が出たかもしれない。

 もしかしたら騒ぎに気付いたシンの魔女が出たかもしれない。

 もしかしたら。

 全ては仮定で、結局考えても分からない。問いの答えは最早ないのだから。



「っ、しょ」



 イェオリは膝に手を突き、立ち上がる。

 彼に縋りついた少女は鎧に掛かった腕に引きずられ、立ち上がりかけたが、途中で力尽き、ずるずる、と再び地面に座り込んだ。

 糸の切れた人形の様に項垂れる少女に溜息をつき、



「うら、立て」



 イェオリは乱暴に彼女の襟首を掴んだ。

 フロミーは抵抗もせず、なされるがまま。獣の様に首根っこを摘ままれて、上目に何倍も年の違う上官を上目に見た。



「……」



 金茶の目に滲む悔恨。

 イェオリは溜息を零す。



「このまんまここで後悔してても、またそれに後悔する羽目になるぞ」



 肩を竦めれば、少女は項垂れる。



「起こった事は変えられない。今はできることをやるだけ、だろ?」



 そう口にして、イェオリは苦く笑った。

 幼い少女を言い含めている積りでいて、結局は自身に言い聞かせているのか。そう気づいた為だったのだが。

 少女は眇められた緑眼にまた心を痛めた。



「あ……」



 フロミーは視線を彷徨わせ、無意識に胸を押さえる。

 大きく育った鉛玉が酷く重い。

 内臓を押し上げる吐き気に目頭が熱くなる。



「ごめんなさい。私が……」

「止めろ、フロミー。言い出したらきりがないだろう。考えるのも止めだ。案外動いた方が何とかなる」



 開いた手で少女の頭を撫でながら、イェオリはまた苦く笑った。そして彼女を再び抱え上げた。

 鎧越しに感じる僅かな震え。

 鎧越しに感じる悲痛。

 願うのは、彼女が曲がらず、ただ幸せに育つ事。

 少女の顔を覗き込めば、滲んだ金が揺れ、また涙が溢れ零れ落ちた。それは止まらず、幼い頃の彼を思い起こさせる。



「あぁ……」



 結局、イェオリがどう足掻こうと、心中で葛藤して見せようと、あの場で少女を捨て置くことはできなかった。それが結論で、事実。



「手の掛かる……」



 心根の優しい大きな雄羊は静かに零して、フロミーを強く抱きしめた。

 応える少女は、彼の胸の内に納まる程度の身体を僅かばかりに震わせ、躊躇いがちに黒騎士の首に細腕を回す。

 傍から見れば親子の様に映っただろうか。

 湧き上がる庇護欲に自嘲し、イェオリは小さな背を叩き、優しく何度も頭を撫でた。

 彼女が純粋な血統なら。

 彼女が国の中央に座する貴族の娘なら。

 胸中を苦く汚す思いを押し込め、彼は目を腫らす少女の顔を覗き込む。



「さて、フロミー。子ども扱いはここまでだ。そろそろ優秀なコロヴァニエーリ上曹殿に戻ってくれるか?」



 イェオリが揶揄する様に問えば、少女は鼻を啜る。そうして何度か目を擦り、赤い鼻を、頬を更に赤くして、大きな羊の緑眼を見つめ返した。



「は、はいぃ。わっ、わたし、は、だ、だいっ、じょうぶです!」



 深く息を吐き、鼻を鳴らした少女に、イェオリは静かに唇を噛む。また楽になろうとする頭が、悲劇を吐き出させようと躍起になっては喚き散らしていた。

 しかし彼は口を開かず、思いを飲み込んで、ただ彼女の頭を優しく撫でる。



「ヴィゴとエリゼオが作ってくれた時間だ。奴等も気にかかるが、今のうちに解決策を案出したい」



 イェオリがいつもは見せない顔を覗かせる。

 フロミーは真剣な緑眼に何度も頷き、



「まず、先程分かった、ことは……。マンディブラと言うっ、獣は、目がなく、体温で物を見ている、と言うこと、です」



 情報共有から得られることもある、と考えて、とにかく気づいたことを口にした。



「体温?」

「はい。こう、口の周りに穴が、開いていたのっ、気づかれましたか? あれで、物を見るんです」



 フロミーは時折鼻を啜り、不規則に喉を鳴らして、自身の口周辺を指差しながら上官へ説明する。



「あぁ、だから目がないのに“見えてる”か」

「はい。獣の、幾つかにはっ、ああして……。ああして、熱感知器官でっ、物を見るモ、モノが居るん、です。きっとっ、目がない分、耳も鼻もいい、筈ですっ」



 腕の中で不規則に喉を鳴らし続ける少女を見下ろしながら、



「あぁ……」



 イェオリは静かに零す。

 たどたどしい言葉で浮かんだのは、変り者の中でも突出した存在。日向で丸くなる己の臣子の姿。



「うちのハンナと同じか」



 フロミーは唸る上官の言葉に、酷く厚着をした同僚の姿を浮かべた。



「はい、そうだと、思います」

「そうなると、弱点も似てくる可能性はあるな」

「はい」

「そうか。それなら何とかなりそうだ」



 イェオリは何とか見えだした光に口角を上げた。




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