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黒の雄羊  作者: みお
第1章
30/64

第25話  イルシオンの森(7)

 突如降り始めた雨雫が鎧を叩く。

 それは黒を伝い、羊の頬を、首筋を濡らし、やがて大地へ消え失せる。



「……」



 ヴィゴは稀有な状況に眉を寄せ、首を捻った。

 彼らが暮らす土地は乾いていて、雨は酷く少なかった。しかも時期は概ね決まっているのだから、彼の困惑も当然と言えば当然だったのだが。

 一抹の不安を感じ、ヴィゴは幾分かを失った橙の飾り毛を靡かせながら、脇を走る上官を見た。



「……」



 彼は片手を上げ、空がある筈の上を見つめていた。その様子から、ヴィゴ同様困惑していることは分かる。



―――おい、なんか変だ。



 無言のうちに問えば、エリゼオは己の平を伝う雨雫を見る。

 流れ、溶ける景色に、変わらない天井。

 落ちる雫は鎧で跳ね、空中に舞い、消えた。

 エリゼオはもう一度空を見上げ、



「……」



 次いで並走する黒騎士を見た。そうして手を振る。



―――降ってない。

―――は?



 困惑するヴィゴを置いて、エリゼオは地面を踏み切る。

 風が鳴く。

 次いで鋭い鎌が過ぎ、土塊が跳んだ。

 エリゼオは振り向きもせず、張り出した根に片足で着地。そのまま踏み切って別の根へ。弾む様に飛び、また跳んで。重さを感じさせずに倒木へ降り立つと、迫る気配に首筋が粟立った。

 震える身体を理性で押さえつけ、真上へ跳ねる。

 舞う身体。

 靡く黒銀の毛。



「ウルアッ!」



 その真下をマンディブラの鼻面が過ぎ、屈強な顎が傾いた巨木の幹を砕いた。

 エリゼオは唸り、首を振る獣の頭に手を突き、再び宙へ舞い上がる。

 反射的に頭を上げたマンディブラが上体を捻り、羊を追った。その鼻面が狙いを定め、首が伸びる。

 強力な顎が生む捕食音。

 しかし彼の牙はまたもや羊を逃し、空を噛む。

 黒羊は流れる汗をそのままに、極めて不正咬合な口元に手を突く。そうして足を曲げれば、曲芸師の様に獣の鼻面の上で身体が平衡を保った。



「ルルルル……」



 マンディブラのない目が黒羊を睨む。

 それはたったの数秒。

 エリゼオは弁柄を眇め、突いた平に力を籠める。そうして上げた脚を振り下ろし、



「シッ!」



 獣の後頭部目掛け振り抜いた。

 衝撃音。



「ッ……」



 マンディブラは悲鳴も上げず、口を大きく開き、前のめりに体制を崩す。

 飛び散る唾液。

 流れる縄。

 跳ね上がるのは縄先に結ばれた太い枝。

 エリゼオは勢いを殺さず、そのまま身を捻り、捩れた獣の背に手を突いて更に一回転。腰骨に足を下ろし、器用に浮き出た背骨を伝って歩いて、真中に突き立った短剣に足を振り下ろした。

 僅かばかりの抵抗。

 剣尖が弾力のある肉に埋もれ、引き裂ける様な、濡れた音が響く。続いて固い物を削る感覚が裏を伝い、背筋を撫ぜ上げる。



「ギアォッ!」



 マンディブラは背を逸らせ、跳ね回った。口端に泡を溜め、舌を出し、必死に喉を開く。通る空気が悲鳴を上げ、血液を鳴らす。

 エリゼオは丸くなる背に生えた毛を掴み、腰を落として、背肉に食い込み僅かばかりに顔を覗かせる柄を蹴り飛ばした。



「ッ!」



 骨を噛み硬く突き立っていた短刀は組織を、血管を裂き、埋もっていた刃を外気に晒す。濡れたそれは木漏れ日に輝き、赤黒に映える。



「ッ! ッ!」



 獣は最早悲鳴さえ上げず、のたうった。

 エリゼオは弾き飛ばされる前にそこで踏み切って、地面に降りる。



「ルアッ! ウルルッ!」



 降る雨の音に混じって、獣の血雫が枯葉を汚す。

 ヴィゴは舞う縄を、歪に折れた枝を避け、追撃に出ようと拳を握った。狙うのは柔らかに舞う鬣の下。

 しかし、



「……」



 直ぐに思い直して身を退く。枯葉を踏み、流れる巨体を追えば、その目の前でマンディブラは倒れて小さく呻いた。

 緩い風に揺れる鬣。

 微かに動く四肢は痙攣し、鋭い爪が擦れて鳴った。



「はっ」



 エリゼオはきつく噛んだ奥歯を離し、数回顎を動かして嚙合わせる。違和感に頭を振り、何もしなかった下官に歩み寄れば、



「痛そう」



 彼が喉を鳴らして返す。

 ヴィゴが憐みの視線を投げる相手は、脳天に打撃を受け崩れ落ちた獣。ではなく、片足を僅かに引き摺った雄羊だった。

 彼の視線を怪訝に思い、エリゼオは首を傾げる。



「なんだ?」

「走れんのか、ソレ?」



 ヴィゴが指せば、黒騎士が歩を進める。そうして足首を回し、その場で飛んで、肩を竦めた。



「何とかなる」



 相変わらず抑揚のない声で返す、歳若い上官の左足。向う脛の辺りには幾つもの太い針が深々と突き立っていた。

 それは獣の灰毛。咄嗟に逆立てたらしい毛束は刃となり、易々と脛あてを貫き、肉を穿ち、雄羊の脚に食い込んだ。長い幾つかは脹脛を抜け、針先を分厚い革から覗かせている。

 伝い、流れ、滴る鮮血は赤く、落ちた葉に幾つも雫を落として筋を引く。



「退いてよかったわ、俺」



 ヴィゴはエリゼオの足を繁々と見ながら、己の掌を擦り身震いする。



「あの鬣殴ってたら、俺のかわいい拳ちゃん。今頃ズタズタのボロボロだったな」

「代わりにゾフィーヤが優しくしてくれただろ」

「待て、待て。フィアはいつでも優しいぞ」

「……」

「なんだよ?」

「真顔で惚気るの止めろ」

「はぁ? お前、愛するモノにはいかなる時にでも真剣であれ、だぞ」

「なんだ、その浅い見解。格言の積りか?」

「バカ、ちげぇよ。心構えだよ、心構え。そんなんだから枯れてんだよ、お前」

「……」

「ちょ、黙るの止めろ。今、想像した」

「何を?」

「言わせんな、アホ」



 ヴィゴはそう背丈の変わらない上官の肩を叩き、唸った。



「いてぇよ」

「なんだよ、これぐらい。足の方が重傷だろ?」

「痛くないとは言ってない」

「あぁ……」



 兜の下で顔を顰めたヴィゴに、エリゼオは鼻を鳴らした。



「そんな怪我して、ベルは大丈夫なわけ?」

「……」

「あぁ。可愛そうなベルンハルトちゃん」

「後で確り謝っておく」

「許す前に気を失うぞ、きっと」

「それは困るな」



 肩を竦めたヴィゴに、エリゼオが口角を上げると、鎧を伝った雫が唇を撫でた。



「……」



 黒い雄羊は空を見上げ、平を掲げて落ちる雫を掬う。



「コレ雨じゃねぇの?」



 首を傾げるヴィゴは、上を向いた男の手の内を覗き見た。



「どうやら違うらしい」



 エリゼオは溜まらずに消えて行く雫を見ながら喉を鳴らし、また空を、そして聳え立ち、肥えた土地を覆う至大の木々を見上げる。



「さすがはイルシオンと呼ばれるだけはある」

「なんだよ。んじゃコレ、幻惑の一種か?」

「の、様だな」



 肩を竦める男は濡れもしない身体を振り、飾り毛を震わせる。



「ここの木々はそれぞれが術者らしい」

「なんだソレ。気味わりぃな」

「ここまで惑わされずに済んでよかった」

「待て、待て。んじゃ、ご機嫌を損ねたらマズイんじゃないのか?」

「だろうな」

「んじゃ、ダメだろ。大分吹っ飛ばしたぞ」



 ヴィゴは獣に繋がった縄を指し、その先で哀れにもへし折れた枝葉を引き摺る緑を見た。



「森を構成する偉大なる木々よ。罰するならコイツだけにしてくれ」

「おい、マジ待て。俺は悪くねぇ」



 エリゼオは珍しく喉を鳴らして笑い、ヴィゴは唸った。その横で、弱々しくもがいていたマンディブラも、擦れた唸り声を上げた。



「あ……」

「まずいな」

「もぉ、ホントなんなの」

「遊び過ぎた」



 溜息をつく黒羊の目の前で、マンディブラは重い身体を何とか持ち上げる。そうして震える足によろめきながら、



「ウルルルル……」



 牙を剥いて見せた。

 それは、こんなところでは終わらせない、と言う意思表示。



「しつこい男は嫌われるぞ」

「配慮する」

「お前に言ってねぇよ」



 じゃれて、二頭はまた走り出した。

 小さな群れが通ったであろう獣道を抜け、踏みつけた下草の上を進む。足跡を追い、空気を嗅ぎ、気配を探り、迫り来る獣の咆哮を聞けば、



「は?」



 ヴィゴが声を上げた。

 その橙の中の黒が、仲間を見る。



「アイツ等まだこんなとこ居たのかっ?」



 零すと、エリゼオが溜息で返す。

 時間を稼ぐ為に別れた筈だ。

 しかし、これでは意味がない。

 労力を、耐えた痛みを泡にされ、二頭の雄羊は項垂れる。



「……」



 溜息交じりに顔を上げると、彼らは森の外を目指すのではなく、こちらに向かって走ってきているのだ、と気づいた。



「おいっ、アホ! 逆だよ、逆っ!」



 ヴィゴは思わず叫び、必死に手を振るが、彼は一向に進路を変えない。それどころか、



―――逃げろ!



 と、無言のうちに叫ぶ。



―――変だ。



 エリゼオはめん甲を指し、眉庇を叩いて向かい来る黒騎士の後ろを指差す。

 困惑する騎士の眼前で揺れる森。

 落ちる雨雫が強さを増す。

 獣が吼えた。それは空気を震わせ、羊の鼓膜を乱暴に叩く。



「は?」



 ヴィゴは混乱した頭のまま、反射的に振り返った。

 背後には正気を取り戻したマンディブラ。獣は黒羊の尾に食らいついたまま、離れる様子はない。



「なんだ?」



 困惑する耳に、また咆哮が聞こえた。

 それは確かに、はっきりと。

 前方から。



「マジかよっ!」



 ヴィゴが吼えると、



「行け!」



 エリゼオが腕を振り、叫んだ。そうして速度を上げ、一直線に少女の許へと駆けた。ヴィゴは内心で舌を打ち、彼には続かず、左へ折れる。



「クソッ!」



 数を減らした群れに、エリゼオが舌を打つ。

 流れる風。

 乗るのは嗅ぎ慣れた臭い。戦場の香り。

 落ちる雨雫。

 それは森が見せる幻想か。若しくは吸った命を利用した謀略か。



「急げ!」



 森の意思など読み取れる筈もなく、エリゼオは唸り、息を切らすイェオリの腕を掴む。



「こっちだ!」



 行く先でヴィゴが腕を振れば、エリゼオはイェオリの腕を引っ張って、乾いた地面を蹴った。彼らはまた一塊になって走る。削り取られた命を無駄にしない為に。



「ウルルルルルッ」



 後ろには首から、足から縄を垂らしたマンディブラ。

 更にその後方。

 茂る木々が揺れ、



「ルアアアッ!」



 遅れてもう一頭の獣が姿を見せた。

 彼女は身を翻し、傷ついた小さなマンディブラの脇を過ぎ、身を屈め、



「ルアッ!」



 飛び上がって前肢を広げた。

 猛獣のそれは空を裂き、容易く木々を削る。

 狙うのは血の臭いのする羊。



「チッ」



 エリゼオは舌を打ち、木の根に手を突いて飛び越える。襲い来る巨大な鉤爪を掻い潜り、走る群れから逸れて巨木へ。



「ルアッ!」



 飛び掛かるマンディブラ。

 エリゼオは幹に半身を添わせ、その場で地面を蹴り、身を捻る。回る視界で獣の鼻面が巨木を噛んだ様を確認し、更に足を振り上げて後方へ。着地と同時に身を屈め、幹を抉る巨体の下を潜り、また地面を蹴る。



「ウルルルッ!」



 縄を引き摺るマンディブラは怒り狂う彼女の身体を華麗に飛び越え、何とか逃げ果せた黒羊を追う。跳ね回る枝を振り回し、木々を引き倒し、狙うのは小さな獣の頭。

 エリゼオは落ちた速度を上げ、駆ける。そうして巨大な岩の上を滑り、越えて地面へ。

 遅れをとっていた大きなマンディブラも、その歩幅を生かし、あっさりと間を詰める。岩を引っ掻き、跳べば、前を走っていた筈の羊が後ろになった。彼女は惑う羊の前で足を突き、惰性で前方へ投げ出される下肢を捻った。尾を振ると、それは木々を薙ぎながら身体を素早く反転させる。

 エリゼオは仕方なくその場を飛び退いて、幾重にも重なった牙を寸で躱し、そのまま後方へ手を突いて回転。また地面を蹴って群れを追う。



「っ……」



 傷を負った左が酷く痛んで平衡を失うが、一瞬、踏鞴を踏んだだけで持ち直せた。



「ウルルルル……」



 翻弄されるマンディブラは怒りに身体を震わせ、鼻面を醜く歪ませる。

 雄羊は背後に感じる殺気に笑って、目の前に現れた巨木へ向かって力の限り駆けた。

 迫る鼻息。

 重い足音。

 跳ね上がる木々。

 エリゼオが跳ぶ。その足で樹表を引っ掻き、身体を持ち上げ、次いで痛む足を掛け、更に上へ伸び上がる。

 迫る鼻面。



「っ」



 それは鎧を削るが、届かず。

 エリゼオは更に幹を蹴り、飛び上がって、今度は両足で踏み切った。

 舞う身体。

 マンディブラは黒の羊を追うことも、止まることもできず、巨木に頭から激突する。

 それを見ていた傷だらけの獣は牙を剥き、彼女の後ろで踏み切って飛び上がった。長い爪が迫り、不揃いの牙の奥で喉が開いた。その内で糸を引く涎は長く伸び、獣の身体を濡らして弾ける。



「く、そっ」



 エリゼオは脇腹に迫る鼻面に身を捩るが、間に合わない。覚悟を決め、眉根を寄せれば、



「シッ!」



 間一髪。

 重い衝撃を受けた獣の身体が横へぶれた。

 何とか牙は回避するが、



「ぐっ!」



 よろめき、身体を捩ったマンディブラの頭が羊の胸を無遠慮に叩いた。

 衝撃を真面に受け、



「っ」



 地面に叩き付けられた。

 毬玉の様に弾み、放り出された足が惰性で振れ、反動で地面を転がる。濁流で翻弄される木の葉の様に足掻く事すらままならず、エリゼオは獣同様、巨木の幹に強かに身体を打ち付けた。



「っ、あ……」



 衝撃に喘ぐ。

 潰れた胸に空気が入らず、



「ヒー……ッ」



 気管が悲鳴を上げた。



「立てっ!」



 耳元で叫ぶ男の声に、エリゼオは眩んだ頭を振る。



「もうすぐ森を出られるっ!」



 何度か瞬いたが焦点が合わず、身体が言うことを聞かない。意志とは反対に傾く自身に腕も突けず、頭から倒れ込む。



「こんなとこでへばんじゃねぇよっ!」



 叫んで、ヴィゴは正体を無くした雄羊の襟首を掴み、乱暴に引き摺り立たせた。そうして脇に身体を捻入れ、そのまま引き摺る様に走り出す。

 混濁する意識の中、エリゼオは痛む足を引き摺り、片足だけで必死に地面を蹴った。



「っ……そ……」



 歪む視界に身体が傾き、重力に逆らえない。支えられずふらつく頭が酷く重くて、首が痛む。項垂れれば引き寄せられ、半ば抱えられた。



「っ、は……」



 流れる汗が滴って、兜の内側を濡らす。弁柄を眇めれば地面が歪んで、吐き気がする。



「見えた!」



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