第24話 イルシオンの森(6)
「くそ……」
イェオリは茫然と立ち尽くしたまま、喉を鳴らした。その緑目が見上げるのは赤黒の獣。それは灰色の棘を纏い、耳まで裂けた口から涎を垂らす。
その距離二馬身程度。
下手をすると獣の鼻息さえ届く近さ。
「ウルルルルル……」
彼女が物騒な爪を鳴らせば、岩が鳴って、地面が柔らかな肉の様に裂けた。後方を追って来ていた筈の獣と見紛う風貌でありながら、倍はありそうな四肢は太く、肉厚な胴はやはり巨大で、股座にぶら下げていた立派な物はない。代わりに膨れた脇腹に複数の突起があって、獣が身重であることを主張した。どう考えても先程の獣とは別の個体。
そしてそれらが示すのは。
「番かよ……」
それは走ったせいか。
それとも恐怖によるものか。
背筋を流れる汗に首筋を粟立てて、イェオリは生唾を飲んだ。
「勘弁してくれ……」
口を開かず唸れば、
「ウルルルル……」
マンディブラが一歩、大きく踏み出した。
彼女の夫を最初に目撃した時と同じ。獣が地面を踏みしめると、積もった枯葉が鳴って、落ちた枝がボキリ、と乾いた悲鳴を上げた。
「キャンッ、キャンッ、キャンッ」
震える少女の腕の中、幼獣が黒羊の代わりに吼える。
凍る空気。
硬直する群れ。
「ルルル……」
確かに、目のない獣が幼い獣をその目で捕えた。
マンディブラの滑らかな鼻筋に皺が寄る。力を込めた前肢が地面を掴む。
沈む身体。
軋む筋肉。
解き放つ、寸前で、
「っ」
黒羊の背後でけたたましい音が鳴り響いた。
その場に居た誰もが頭を庇い、反射的に身を屈める。
「ルルル……」
彼女は一瞬下げた耳を立ち上げ、鼻面を持ち上げる。そして辺りを確認する様に鼻を鳴らし、怒らせていた身体を若干弛緩させた。
注意は完全に黒羊から、森へ。
それが合図となる。
「退けっ!」
怒号に乗って、黒羊の群れは一斉に踵を返した。
「ゥルル……」
マンディブラは突如走り出した黒く小さな影に戸惑い、何度か首を傾げ、耳を立てた。状況確認に数秒。
しかし思案の時間はいらなかった。
「ルアッ!」
彼女は吼え、身体を撓らせる。
それは逃げるモノを追え、と叫ぶ本能か。
それとも愛するモノのニオイを感じたせいか。
マンディブラは解き放たれた弓の様に風を切り、惑う黒羊の群れに襲い掛かる。
「ウルウアッ!」
鼓膜を突く咆哮。
けたたましく吠えたてる幼獣の声。
続いて誰かが息を詰める音が、微かだが、それでもはっきりと黒羊の群れに届いた。
「っ」
イェオリが地面を踏み切る。
その首筋を鋭い風が薙ぎ、
「ガッ、ぐぁっ」
圧し潰され、強制的に空気が気管を突き抜けた音が鼓膜を撫でた。
「いやーっ!」
雄羊の胸の内で、フロミーが悲鳴を上げる。
彼女の声に乗るのはひしゃげる鎧の音。
尾を飾るのは、内臓が体外に排出された音色。
「キャンッ、キャンッ、キャンッ」
幼い獣だけが吼え続ける。
けたたましいそれを聞きながら、イェオリは己の後方で身代わりになった黒騎士を思い、内心で舌を打った。外を目指すことばかりに気を取られ、発見が遅れたのは確かだ。風向きさえ考えていればもっと早くに対処できていた。
しかし、気づいた時には眼前に鼻面が見え、足を止めた時には獣の間合いだった。
これは完全なる失態。
己の責任だ、とイェオリは奥歯を噛む。
これでまた上官を危険に晒す羽目になる。彼の身に危害を及ぼすのは好戦的なエリゼオだったか。否、能力の劣る己だったか。その場、その場で判断を迫られる局面で、答えなどない。それでも。
「クソッ」
イェオリは舌を打つ。
「キャンッ、キャンッ」
ひりつく空気。
恐怖が落ち、誰もが息をできないでいる。
その中にあって、脳裏に過るのは部下でも、腕の中で震える少女でもなく、遠くで奮闘しているであろう彼の死。
その昔、ベルンハルトは大切な家族だった。
しかし、守れなかった。
指の間から零れ落ちた彼は奇跡的に戻ったが、もうあの時の彼ではなくなっていた。それはとても歪な存在。困惑しなかったと言えば嘘になる。それでも彼は彼を残し、自身を忘れてはいなかった。笑んだ彼を再び抱き締めることが出来た時、本当に神は居るのだ、と思った。
彼はいつしか上官になった。友を得、家族を得、今では重すぎる程の命を支える屋台骨。それが今また、眼前でへし折られようとしている。それだけはどうあっても避けねばならない。
背後には殺気を振り撒く猛獣。
腕の中にはまだ幼い命が二つ。
その周りを囲むのは大切な仲間で、家族。
「……」
イェオリが唇を噛む。
命は決して平等ではない。大小に関わらず、必ず重さがある。それは誰もが無意識に量るもの。
彼は目を伏せ、眉根を寄せた。
それは一瞬。
そうして緑眼を開き、
「ピュイッ!」
口笛を吹いた。
令を受けた黒騎士は何も言わない。誰一人反抗などしない。
間近で仲間が圧し潰され、獣の爪を汚すだけの存在になっても。
自身がそれに続くことになろうとも。
そこに躊躇いは一切ない。
一斉に獲物を抜き、身を翻す。
黄藤の飾り毛が流れた。
彼らの手にした刃が光り、緑を明るくする。
「ヒーゥー……」
誰かが唇を吹いた。
それは長く、物悲しい音色。
イェオリは硬く目を瞑る。
鼓膜を叩く金属音。
上がる悲鳴。
咆哮するのは猛獣か。もしかすると黒銀を纏った羊だったかもしれない。
少しでも削らなければ。遠くで、少女の為に足止めを買って出た大切なモノを護る為に。
「うぅ……」
幼い少女が嗚咽を漏らす。
「あぁああああああっ!」
心の内で吼える彼の代わりに叫んで、涙を流し、黒い鎧を濡らして。
森が震える。
命を吸って。
森が鳴く。
獣の喉を借りて。
森が泣く。
儚い命を思って。
森が。




