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黒の雄羊  作者: みお
第1章
29/64

第24話  イルシオンの森(6)

「くそ……」



 イェオリは茫然と立ち尽くしたまま、喉を鳴らした。その緑目が見上げるのは赤黒の獣。それは灰色の棘を纏い、耳まで裂けた口から涎を垂らす。

 その距離二馬身程度。

 下手をすると獣の鼻息さえ届く近さ。

 


「ウルルルルル……」



 彼女が物騒な爪を鳴らせば、岩が鳴って、地面が柔らかな肉の様に裂けた。後方を追って来ていた筈の獣と見紛う風貌でありながら、倍はありそうな四肢は太く、肉厚な胴はやはり巨大で、股座にぶら下げていた立派な物はない。代わりに膨れた脇腹に複数の突起があって、獣が身重であることを主張した。どう考えても先程の獣とは別の個体。

 そしてそれらが示すのは。



「番かよ……」



 それは走ったせいか。

 それとも恐怖によるものか。

 背筋を流れる汗に首筋を粟立てて、イェオリは生唾を飲んだ。



「勘弁してくれ……」



 口を開かず唸れば、



「ウルルルル……」



 マンディブラが一歩、大きく踏み出した。

 彼女の夫を最初に目撃した時と同じ。獣が地面を踏みしめると、積もった枯葉が鳴って、落ちた枝がボキリ、と乾いた悲鳴を上げた。



「キャンッ、キャンッ、キャンッ」



 震える少女の腕の中、幼獣が黒羊の代わりに吼える。

 凍る空気。

 硬直する群れ。



「ルルル……」



 確かに、目のない獣が幼い獣をその目で捕えた。

 マンディブラの滑らかな鼻筋に皺が寄る。力を込めた前肢が地面を掴む。

 沈む身体。

 軋む筋肉。

 解き放つ、寸前で、



「っ」



 黒羊の背後でけたたましい音が鳴り響いた。

 その場に居た誰もが頭を庇い、反射的に身を屈める。



「ルルル……」



 彼女は一瞬下げた耳を立ち上げ、鼻面を持ち上げる。そして辺りを確認する様に鼻を鳴らし、怒らせていた身体を若干弛緩させた。

 注意は完全に黒羊から、森へ。

 それが合図となる。



「退けっ!」



 怒号に乗って、黒羊の群れは一斉に踵を返した。



「ゥルル……」



 マンディブラは突如走り出した黒く小さな影に戸惑い、何度か首を傾げ、耳を立てた。状況確認に数秒。

 しかし思案の時間はいらなかった。



「ルアッ!」



 彼女は吼え、身体を撓らせる。

 それは逃げるモノを追え、と叫ぶ本能か。

 それとも愛するモノのニオイを感じたせいか。

 マンディブラは解き放たれた弓の様に風を切り、惑う黒羊の群れに襲い掛かる。



「ウルウアッ!」



 鼓膜を突く咆哮。

 けたたましく吠えたてる幼獣の声。

 続いて誰かが息を詰める音が、微かだが、それでもはっきりと黒羊の群れに届いた。



「っ」



 イェオリが地面を踏み切る。

 その首筋を鋭い風が薙ぎ、



「ガッ、ぐぁっ」



 圧し潰され、強制的に空気が気管を突き抜けた音が鼓膜を撫でた。



「いやーっ!」



 雄羊の胸の内で、フロミーが悲鳴を上げる。

 彼女の声に乗るのはひしゃげる鎧の音。

 尾を飾るのは、内臓が体外に排出された音色。



「キャンッ、キャンッ、キャンッ」



 幼い獣だけが吼え続ける。

 けたたましいそれを聞きながら、イェオリは己の後方で身代わりになった黒騎士を思い、内心で舌を打った。外を目指すことばかりに気を取られ、発見が遅れたのは確かだ。風向きさえ考えていればもっと早くに対処できていた。

 しかし、気づいた時には眼前に鼻面が見え、足を止めた時には獣の間合いだった。

 これは完全なる失態。

 己の責任だ、とイェオリは奥歯を噛む。

 これでまた上官を危険に晒す羽目になる。彼の身に危害を及ぼすのは好戦的なエリゼオだったか。否、能力の劣る己だったか。その場、その場で判断を迫られる局面で、答えなどない。それでも。

 


「クソッ」



 イェオリは舌を打つ。



「キャンッ、キャンッ」



 ひりつく空気。

 恐怖が落ち、誰もが息をできないでいる。

 その中にあって、脳裏に過るのは部下でも、腕の中で震える少女でもなく、遠くで奮闘しているであろう彼の死。

 その昔、ベルンハルトは大切な家族だった。

 しかし、守れなかった。

 指の間から零れ落ちた彼は奇跡的に戻ったが、もうあの時の彼ではなくなっていた。それはとても歪な存在。困惑しなかったと言えば嘘になる。それでも彼は彼を残し、自身を忘れてはいなかった。笑んだ彼を再び抱き締めることが出来た時、本当に神は居るのだ、と思った。

 彼はいつしか上官になった。友を得、家族を得、今では重すぎる程の命を支える屋台骨。それが今また、眼前でへし折られようとしている。それだけはどうあっても避けねばならない。

 背後には殺気を振り撒く猛獣。

 腕の中にはまだ幼い命が二つ。

 その周りを囲むのは大切な仲間で、家族。



「……」



 イェオリが唇を噛む。

 命は決して平等ではない。大小に関わらず、必ず重さがある。それは誰もが無意識に量るもの。

 彼は目を伏せ、眉根を寄せた。

 それは一瞬。

 そうして緑眼を開き、



「ピュイッ!」



 口笛を吹いた。

 令を受けた黒騎士は何も言わない。誰一人反抗などしない。

 間近で仲間が圧し潰され、獣の爪を汚すだけの存在になっても。

 自身がそれに続くことになろうとも。

 そこに躊躇いは一切ない。

 一斉に獲物を抜き、身を翻す。

 黄藤の飾り毛が流れた。

 彼らの手にした刃が光り、緑を明るくする。



「ヒーゥー……」



 誰かが唇を吹いた。

 それは長く、物悲しい音色。

 イェオリは硬く目を瞑る。

 鼓膜を叩く金属音。

 上がる悲鳴。

 咆哮するのは猛獣か。もしかすると黒銀を纏った羊だったかもしれない。

 少しでも削らなければ。遠くで、少女の為に足止めを買って出た大切なモノを護る為に。



「うぅ……」



 幼い少女が嗚咽を漏らす。



「あぁああああああっ!」



 心の内で吼える彼の代わりに叫んで、涙を流し、黒い鎧を濡らして。


 森が震える。

 命を吸って。

 森が鳴く。

 獣の喉を借りて。

 森が泣く。

 儚い命を思って。


 森が。



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