第23話 イルシオンの森(5)
イェオリが跳ぶ。
「ひっ!」
フロミーは突如感じる浮遊感に、上官の身体に縋りついたまま悲鳴を上げた。
彼は宙を舞って、音もなく倒木に足を着けるとまた走り出す。そして地面を踏み切り、長い跳躍。獣の様に前肢を伸ばし、
「っ、とっ」
腕から着地すると、今度は転がる岩から飛び降りた。
ベルンハルトが跳ぶ。
舞う黒銀の飾り毛。
エリゼオが跳ぶ。
黒銀の長い捻じれた角が木漏れ日に輝く。
「よっ」
上官が地面に手を突くと、
「……」
エリゼオが足を着け、衝撃を逃がす為に身を屈める。
ヴィゴが跳ぶ。
橙の飾り毛が流れ、
「ルアッ!」
真後ろに迫ったマンディブラが爪を剥き、それを掴もうと前肢を広げた。
伸び上がる巨体。
ヴィゴは身を縮め、地面に転がる。
間一髪。
獣の前肢が空を切る。
「っ、ぶねぇっ!」
黒羊は兜を押さえ、また地面を蹴る。先を行く仲間に続き、倒木を蹴って、地面を蹴って、
「とっ」
平衡を失いながらもなんとか岩へ足を着けた。
マンディブラは大きく裂けた口を目一杯開き、地面を掻き、跳んで、何度も空を噛む。その度に歯が鳴って、黒羊達は罠にかかる鼠の気持ちを思い知らされる。
「クソッ! はえぇなっ!」
ヴィゴは地面に手を突き、身体を撓らせながら歯噛みする。
仲間の唸り声に、イェオリが腕を上げ、反応する。それに彼が橙を眇めると、相方は走りながら器用に手を振り、指を曲げ、
―――逃げるより戦った方が早くないか?
振り向きもせず言うので、
「バカ言えっ! こっちの荷は重いんだよっ!」
ヴィゴはその背に叫んだ。
「ルウゥウウウウッ!」
一時は突き放した筈の巨体は、雄羊の尾に噛り付いたまま離れない。
彼は痛みを与える羊より、巧みに素早く動く羊より、逃げ惑う雄羊をどうにか捕えてやろう、と考えていた。奴等は他に比べて足が遅いし、何より空を跳ね回る他のモノを操っているらしかったから。やっと見つけた安息の地を護る為には、先ずは数を減らさなくては、と害獣を追い立てる。
「フーッ! フーッ!」
身を揺すり、岩を、木々を跳ね飛ばし、倒木を突き破って地面を引っ掻く。眼前を鬱陶しく跳ね回る黒羊目掛け嚙みかかり、歯を打ち鳴らし追い回せば、目前の小さな獣が平衡を失う。
絶対に逃がすものか。
「……」
アウヴォは猛り頭を振って全てを吹き飛ばす獣を見下ろし、木々の間を飛んでいた。仲間を引き連れ、枝を蹴る。垂れる蔓を掴み、反動で飛んで、次の枝へ。葉を落とし、苔を削ぎ、次を掴んで器用に一回転。翻った身体を木漏れ日に輝かせ、また先の巨木へ。
眼下でマンディブラが岩を噛む。それは呆気ないほど簡単に砕け、下を走る群れを否応なしに追い立てた。
「……」
決して心中穏やかではいられない。
許されるなら直ぐにでも飛び出して、上官を護り、獣を捻じ伏せたい。それでもその衝動を押さえるのは、彼らの上官がそれを良し、とはしないから。頭が思う通りに動くのが手足の仕事。決して乱してはいけない。それが重大な誤りに繋がる、と理解している。
その為、上空を行く四分隊は心を殺し、大人しく眼下を行く上官を、獣を追っていた。
「……」
暫くそのまま口を閉じて走り続けていると、地上を走る上官が指を振った。その行く先には巨木が倒れ、頭上より日が差し込む少し開けた場所があった。アウヴォは彼の意思を読み、漸く与えられた令に肌を粟立たせる。
「……」
興奮に震える身体を押さえ、枝を踏み切り、足を着いたところで指を立て、折り、また立てる。後方に続く黒騎士の一人はそれに従い、速度を上げ、命を出す上官を追い抜いた。そうして獣をも追い抜き、腰の短刀を引き抜く。鈍く光る刃に緑を乗せ、彼は両足で踏み切った。
舞い、落ちる黒羊。
走るマンディブラ。
丁度重なるところで、
「ギャワッ!」
獣が悲鳴を上げた。
ヴィゴが頭を下げる。
その上をマンディブラの鋭い爪が引き裂き、風が鳴った。
「ルォオオオッ!」
マンディブラは黒騎士を背に乗せ、跳ね回る。後肢を振り上げ、背を丸め、前肢で地面を蹴って身を捻る。そのままわざと身体を木に打ち付け、また捻り、大きく伸び上がれば、
「っ、あっ!」
獣の上に落ちた黒騎士は、突き立った短刀の柄を必死に掴んでいたが、呆気なく跳ね飛ばされた。
「ルアアアッ!」
マンディブラは怒り、吼え、吹き飛ばした騎士ではなく、目の前を駆ける黒羊に飛び掛かった。
「しつこいっ、なっ」
ヴィゴは間近に迫る気配に身体を翻す。間を置かず、地面を抉る獣の前肢が視界に入った。木漏れ日に巨体が陰る。それを確認し、彼は足を止める。
突如、逃げることを諦めた黒羊に対応できなかった。マンディブラは前肢を踏ん張り、それでも止まれず後肢を広げた。下がった下肢に尾が引き摺られ、地面を掘って、草木を派手に巻き上げる。
マンディブラが足を止めたのは目的地点。乱立する木々が少し途切れた広場。
巨体を眼前に捉え、ヴィゴは拳を握り、地面を踏みしめる。
「シッ!」
肉を叩く重い音。
突き出した右は空いた脇腹に入り、獣の巨体を揺らがせる。
「シッ!」
続いて追撃した左が臣子の打ち込んだ矢を的確に突き、更に深くに押し込んだ。
同時に聞こえる不快音。
「ギアッ!」
鋭い鏃に肺を抉られ、マンディブラは身を捩った。前肢を揚げ、右で跳ね、
「ウルルルルル……」
口から血を流しながら、喉を鳴らす。それは水没する様に、液体に空気を漏らし、不自然な悲鳴となった。零れる日の光が、赤黒の体液を輝かせ、滑らかな体表を濡れた様に見せる。
頭上で待機するアウヴォはマンディブラの隙を見逃さない。素早く後方の黒騎士に向け、腕を振る。令を受けた黒騎士達は上官を追い越し、腰袋から縄を引き摺り出す。そうしてそれを頭上で振り回し、
「ルゥ……」
獣が首を上げたところで、投げ掛けた。
二つは首へ。一つは上げた左の前肢に。
それぞれの先を握った黒騎士は後方へ飛ぶ。その足を別の騎士が握り、共に地面へ向けて落下する。縄が枝を擦り、悲鳴を上げ引き絞られて、
「ルアッ!」
マンディブラは首と足に重石をぶら下げられ、堪らず大きく仰け反った。
「よっ」
黒騎士の足を握った騎士達はそれぞれに着地し、獣の脇を抜けて、上官を追い越し巨木へ足を掛ける。そのまま上へ飛び、樹表に爪を立て、身体を持ち上げ、更に上へ。そうして枝を掴むと、重い鎧など関係ない、と言わんばかりに振舞って、身体を木々の上へと持ち上げた。
「っ、しょっ」
縄を握った黒騎士は足を振り、反動を利用して枝にそれを巻き付けて行く。短くなる毎に速度が上がり、手が滑ったが、そこは経験が物を言う。巧みに身を捻り、あと少しを残したところで手を離し、器用に枝の上に降り立った。
眩む目に頭を振り、離した縄端を手繰って、巻き付けた部分に通して硬く縛る。
そこまで来ると、
「ルオオォオオ……」
獣は後肢で立ち、悲しい声を上げた。
「よしっ!」
拘束された獣の姿を確認し、ヴィゴは掌を打って、また走り出す。巨木の上に陣取る黒騎士も上官に倣い、足に力を込めた。
ところで、
「ルアアアアアアアッ!」
マンディブラは怒りに吼え、締まる首を力の限りに振るい始めた。
撓る枝、撓む木々。
圧倒的な力の前に、巨木は軋んで葉を落とした。
縄は引かれ、締まるが切れはしない。擦れ、樹皮を削り、耳障りな音を立てるばかり。それでも足掻き、もがき、身を揺すり、更に引けば、生木が先に音を上げた。
「うわっ!」
「あっ!」
それは悲鳴を上げ、派手にへし折れる。足場にしていた黒騎士の幾人かは受け身も取れず、地面へ叩き付けられた。
マンディブラは構わず地面を掴み、怒りのままに身体を震わせる。縄を結ばれた枝が獣の力で跳ね上がり、地面の上で踊り狂った。
「あぁ、マズイ……」
ヴィゴは流石に青ざめ、速度を上げた。
張り出した根を蹴り、跳んで地面に足を着ける。先に垂れる枝を掴み、撓るそれを利用し飛び上がって岩に着地し、また飛ぶ。覆い被さる木々に突っ込み、咄嗟に腕で顔面を護る。ぶつかる枝葉に鎧が鳴って、飾り毛が切れた。一瞬首が引かれて、堪らず目を眇める。
エリゼオは後方を走る黒騎士を確認し、
「ピュイッ」
短く唇を噛んだ。
振り返るのは少女を抱えたイェオリ。
エリゼオは彼に向けて顎を上げる。
イェオリは首を逸らし、至極嫌そうな態度で返した。
しかし、エリゼオは構わず足を緩め、後方へ下がる。
「ピーィッ」
今度はイェオリが唇を噛み、吹く。
それまで広がっていた彼の下官が間を詰め、走るイェオリを囲んだ。小さな群れは固まって、逸れた羊はそのままに先を急ぐ。
「ルアアアッ!」
マンディブラは走った。
首に、脚に縄をつけられたまま、太い枝を引き摺り、跳ね飛ばし、荒れ狂って森を飛び回る。首を振り、地面を掻き、標的を見定め、距離を詰め、
「ウアアアッ!」
飛び掛かっては空を噛んだ。
間近で鳴る歯に首を窄め、ヴィゴは駆けた。走って、走って、それでも距離は開かず、息を切らす。エリゼオは呼吸を乱した下官に溜息を零し、追いついて来た彼と並走した。
ヴィゴは上官を抱える身で囮役を買って出た、歳若の騎士に非難めいた視線を送ったが、直ぐに止めた。きっと彼が来なければ、遅かれ早かれ、己の居場所はあの獣の胃袋の中だった。それは確かだ。
無言で腕を上げれば、若い羊は生意気に顎を上げる。ヴィゴは兜の下で笑って、軽く腕を突き出した。エリゼオはそれに応え、彼の後ろへ入る。一時そうして走り、十二分に獣が尻に喰いついたところで突如、足を止めた。
「ルアッ!」
構わず突っ込んできた獣を横に跳ぶことで躱し、空を噛んだ隙に後方へ。
マンディブラは増えた黒羊に戸惑いながらも、腕を振り、誘う黒銀の尾を追って身を翻す。前肢に後肢を合わせ飛べば、目の前で羊が消えた。
「ルゥウ……」
戸惑い、辺りを窺うと、木と木の間から黒銀の羊の尾が覗く。
マンディブラはそれを追って鼻面を隙間に突っ込む。そのまま強引に頭を捻じ込んで、熱くなった身体を木々の間から引き摺り出したが、もうそこに黒い姿はなく。
「ウルル」
太い尾を振ると背後で、
「ピィッ」
黒羊が鳴いた。
慌てて振り返り、巨木を回ってそれに飛び掛かかろうとした。
が、
「ルアッ!」
意図せず首を引かれ、堪らず悲鳴を上げた。締まる首に前肢を掻き、身を翻して身体を揺する。エリゼオは巨木の間で跳ね回る枝葉を見ながら、息を切らし合流したヴィゴに肩を竦めた。
「これで一先ず時間は稼げそうか?」
「んや、多分無理だな、コレ」
引かれ、跳ね回る縄に、巨木の間に引っ掛かった太い枝は悲鳴を上げていた。獣が力を籠める度にそれは軋んで、縄を支点に撓っては、不気味な音を立てる。
「あぁ……。大人しくお留守番はできないヤツだな、ありゃ」
「ったく……。躾のなってない獣だ」
零して二頭はまた走り出した。
彼らに倣い、木々の上に陣取る黒騎士達もまた枝を蹴る。そうしてまた枝を蹴り、獣を後に残した。
「ルルル!」
マンディブラは己を拘束する長い縄に牙を剥き、それを噛んで何度も首を振る。退けど、歯を鳴らそうと一向に自由にならず、怒りだけが身体を支配する。
「ウルルルッ!」
彼が跳ね回る度に緑が赤く色付く。枯葉はやがて赤黒に染まり、下草が濡れる。
「ルルルルル……」
マンディブラは舌を出し、荒く息を吐いた。呼吸する度に胸が痛み、立ち止まっていると自然と身体が傾いた。経験した事のない感覚に、急激に体温が下がる。彼は言い知れぬ恐怖を感じ、己を離さない巨木に身を寄せる。そうして頭で幹を叩いた。
巨木が揺れる。
マンディブラはもう一度頭で樹を揺らす。
もう一度。
もう一度。
そしてもう一度。
「ルアアアッ!」
猛った獣は裂けた口を大きく開き、吼え、傷ついた身体で巨木にぶち当たった。
空気が揺れる。
静かな森を低音が駆け抜け、それは先を行く黒羊の群れの鼓膜を易々と引っ掻いた。
「あぁ……、悪い子だ」
項垂れたヴィゴに、エリゼオは何度目かも分からない溜息を零した。




