第22話 イルシオンの森(4)
弦が引き絞られる。
それは歯嚙みする様な音を立て、開放の時を今か、今かと待ちわびる。
頬を撫でる風のニオイは濃い緑。
それは森によく似合う橙を撫で、掬い、靡かせる。
騒めくのは森の木々。
それは巨体を震わせ、葉を落とし、生命の音色乏しいそこに色を付ける。
地面を駆けるのは黒い雄羊。
彼らは思い思いの飾り毛をたなびかせ、揺らし、弾ませ木々の間を縫う。
羊を追うのは赤黒の猛獣。
彼はその巨体に似合わぬ速度で地面を蹴り、木々を薙ぎ倒し、土を抉り、落ち葉を巻き上げ、長い尾を撓らせる。
「……」
アウヴォは陣取った巨樹の上で矢を番えたまま、上官を追い回すマンディブラに狙いを定めていた。
眼下で撓る巨体。
地面を噛む四肢。
「……ッ」
アウヴォは短く吸い、止める。
指を立て、剣尻の切っ先で狙うのは獣の脇。
獣が張り出した根を蹴り、飛び上がる。
伸びる後肢。
靡く鬣。
風を切る鼻面。
「シッ」
アウヴォは隙を逃さず、矢を放つ。
撓る黒色の箆。
矢尻が風を切る。
そうして突き立つ鈍い音。
「ギャウッ!」
マンディブラは肺に感じた鋭い痛みに叫び、身を捻った。平衡を失った巨体は至大な高木にぶち当たり、幹を揺する。
落ちる枝。
舞い散る緑葉。
アウヴォは目を眇め、矢筈を探り、素早く次を番える。高く離れた位置からのたうつ獣を見下ろし、放てば、その切っ先は返しを光らせ、主の狙い通り首筋に突き立った。
「ギャッ!」
マンディブラは再び感じる痛みに宙を掻き、地面に転がった身体を何度も捩じった。気管を伝い溢れ出る血液に喘ぎ、息苦しさで舌を出す。
「グゥッ、クヒュッ……」
呼吸を繰り返すと変な音がした。
溢れ出る体液に身体が震える。それは怒りか、恐怖か。最初の一撃の痛みなど遠の昔に忘れた。今、彼を苦しめるのは首元に突き立った異物。
「ウルルルッ」
熱い、あつい、アツい。
滴るそれは筋を伝い、硬い毛皮を濡らし、地面に染みを落とす。
憎い、にくい、ニクい。
マンディブラは激しく脈打つ血潮に身を震わせ、立ち上がり、見えもしない外敵を睨み上げた。
標的は鉄臭い獣。
あの意地悪な二足歩行の獣と同じ、彼を追い回し、痛みを与える外敵。
空気が軋む。
放たれる殺気。
「ク……」
アウヴォは思わず鳴いて、身を退いた。
瞬間、
「ルアッ!」
飛び上がった巨体が引いた眼前を過ぎる。黒羊は無意識に抵抗する身体から力を抜き、反らせたまま枝を蹴る。
マンディブラは複数の鎌を持つ平を振り抜き、先程まで黒騎士の居た枝を払い、次いで巨木を削った。
舞飛ぶ木片。
アウヴォは後ろに跳んだ身体を宙で捻り、垂れ下がる蔦に手を伸ばす。
掛かる指先。
「ッ」
しかし片手では身体を支えられず、滑り落ちる。自然に下になる頭を嫌がって、宙で長い脚を振り抜く。反動で後ろへ身体が回り、足から地面へ。
「っ、グッ」
走る衝撃を更に後方へ回転することで殺し、落ち葉を巻き上げながらなんとか踏み止まった。息つく暇もなく両足で跳ね上がれば、
「ッ!」
地面が鳴る。
舞飛ぶ土塊を片腕で防ぎ、後ろ手に地面を突いて、器用に身を翻す。視界に入る己の足と橙の飾り毛の間に獣の鼻面を見て、更に後方へ。
「ウゥウウッ!」
マンディブラは俊敏に動き回る羊に唸り、前肢を振り抜く。指先に付いた鎌が鈍く光り空を切ると、それで地面を掻いてもう片方を振り上げる。
下草を刈り、地面を叩いて、落ち葉を巻き上げ、転がる岩を砕いた。
「ホレ、行け! 行け!」
猛獣の気を引く優秀な臣子を横目に、ヴィゴがベルンハルトの尻を叩く。
「はっ、はっ」
その声に、先頭を走るイェオリは少女を抱えた状態で振り返り、獣と遅れる上官の距離を確認した。彼はフロミーの護衛ではなく、黒羊の頭を護る為に居るのだから、当然と言えば当然だったのだが。
ベルンハルトを内に有する雄羊が彼を睨む。
黒の兜から覗く弁柄が、早く先へ行け、と言うので、仕方なく頭を下げ、速度を上げる。上官の望みは自身の命ではなく、未来ある幼子の命か。
地面を蹴り、小さな岩を越え、転がる巨木の上を跳ねて、また地面を蹴る。行く手に立ち塞がる巨木を前にしても速度は落とさず、樹表を蹴り、手を伸ばして上へ。苔で滑る鉄靴を突き立て、片腕で身体を持ち上げ、反動で飛び上がり、両足で着地。そのまま前転した後、また地面を蹴る。
森の狩人の如く、のびやかに森を駆けるイェオリに、フロミーは必死に縋り付いた。
「よっ」
ベルンハルトは先を行く黒羊を追い、倒木が伸ばす枝を掴む。そうしてそれと地面の間に滑り込み、坂を滑走。勢いよく立ち上がって、苔生した岩に手を突き、大きく脚を開いてそれを飛び抜く。次の瞬間には彼はエリゼオで、潜った枝葉を払い、岩に手を突き飛んで地面を転がり、突き出した根に飛び乗って、跳ねていた。次いで片足で別の根に着地し、また別の根へ。軽快に跳ねて、宙で身を捻り、兄の背後に着ける。
―――行け、行け!
彼らの脇を走るヴィゴは時折後ろを振り返り、状況を確認しながら、頭上を飛び回る黒騎士に指示を出した。
本来なら今頃、身を隠しながら来た道を取って返している筈だった。偵察が任であったのだから、戦力は明らかに乏しい。皆が出来れば穏便に、と思っていたのは間違いない。獣を見つけた後、罠でも張って、ゆるり、と待てば、それで終わり。怪我人もなく万々歳。
しかし、描いた脚本は呆気なく破棄され、早くも命の危機に晒されている。先の読めない任務ばかりであるから、それは毎度の事ではあったが、流石にうんざりもする。
もう十二分に森を荒らし回っているし、もう十二分に血をばら撒きもした。餌の消えた森でこれだけ騒げば、息を潜める獣は勿論、道中に出くわした類の、巨大な猛獣に遭遇しかねない。
とにかく、何としても上官を森から出し、体制を立て直さなければ、とヴィゴは舌を打つ。
キィー……チッ、チッ
その耳に、間が良いのか、悪いのか。臣子の声が飛び込んで来た。
「クソッ!」
ヴィゴは歯噛みして、左後方を睨む。
暗く澱んだ木々の向こう。それは六本の足を幹に突き立て、棘の生えた長い尾を引き摺っていた。
「あぁ! やっぱこうなった!」
ヴィゴは叫んで、指を吹く。今度は己の部下にではなく、前を行く仲間達へ向けた合図だった。受けるイェオリが、エリゼオが顔を上げ、彼を見る。遅れてベルンハルトの灰目が瞬いた。
ヴィゴは息を弾ませながら、後方を指す。
それは疎らに毛の生えた青白い身体を揺すり、予想を超えた速度で迫り来る。
「ひぃっ」
ベルンハルトは気味の悪いその姿に小さく悲鳴を上げ、前方に覆い被さる枝を乱暴に払った。現れた窪地を飛び越え、足を着くと同時に前へ転がり、また跳ね上がる。宙で足を掻き、手を掻いて倒木に足を着き、勢いをそのままに手を突いて朽ちた幹の上を走り、後ろ脚で飛んで、獣の様に地面に手を突いて転がった。
次の瞬間にはエリゼオで、しゃがんだ身体を獣のごとき脚力で押し上げて、立ち塞がる岩へ飛び移る。垂直に跳んでは岩肌を掴み、跳んでは掴んで、なだらかな天辺まで登ると、今度は端に手を掛け、鉄靴で岩を削り、地面に足を下ろす。
「来るぞっ!」
叫ぶヴィゴの声が木霊した。
それは岩を器用に這い上がり、赤い目に黒羊達を映した。首のない頭が不自然に傾く。
「シー……チチチチ……」
裂けた口から洩れる息は枯れて、地を這い、足を伝って、耳石を震わせる。それが節足を上げると、軋んで耳障りな音を立てた。
「キモイ、キモイ、キモイ!」
ベルンハルトは顔を歪ませ、震えあがる。竦んだ身体は動かず、冷や汗が流れる。
「准将!」
エリゼオは叫び、素早く身体の支配権を得ると、背を向けて逃げるより、ことを構える方を選んだ。
「クソッ」
ヴィゴは舌を打って、足を止め、地面に手を突いて後方へと走る。そうしてベルンハルトの腕を掴み、エリゼオに叫ぶ。
「抜くな! コイツの血は獣を呼ぶぞ!」
吼えて、柄に手を掛けたまま固まった上官の肩に手を掛けた。それを引くのではなく、支点にして身体を持ち上げ、彼の肩に足を着き、
「ぃよっ!」
思いっきり踏み切った。
流れる橙の飾り毛。
それは飛んだ黒羊を追い、足のない下半身で上半身を持ち上げた。胸の内に蠢く六つ足。鋭く長いそれが肉を求めて空を掻き、落ち来る黒騎士を待ち構える。
ヴィゴは構わず、伸ばされた節足を掻い潜り、
「うらっ!」
天を仰いだそれの顔面に拳を振り下ろした。
何かが割れる。
響く鈍い音。
「ギュッ」
それの口から体液が飛ぶ。
同時にぶれた上半身が傾く。
逃がさず、続いて左。
「ギャッ!」
それは間の抜けた声を上げ、地面に叩き付けられた。
「お前は寝てろ、青虫」
唸り、ヴィゴが地面に足を着く寸前。
チリチリチリチリ……
草木が燃える様な音を立て、それは地面に突っ伏した状態で下半身を持ち上げた。
「わぁお……」
短い棘足が蠢き、反り上がった尾の先に付いた口が涎を引く。
振り下ろされる肢体。
大きく開かれた穴から滑る粘膜が垣間見える。
ヴィゴは漸く地面に片膝をついたところでそれを見上げた。
間に合わない。
「……ヤバ」
脳裏に半身を無くした自身が見える。
音を立てて下がる血。
自然と開く瞳孔が、迫り来る死をやけにゆっくりと見せつける。
「早いな」
「ぐっ!」
締まる首元。
ヴィゴは咄嗟に襟首を掻く。爪が鎧を叩いて、高い音色を奏でる。
同時に浮く身体。
「うおっ!」
叫びを残し、ヴィゴは後ろへと飛ばされた。
彼は投げ出された身体を捻り、後ろに転がって、地面を掻き、何とか勢いを殺すが、
「ぐっ!」
間に合わず、苔生した幹に強かに背中をぶつける羽目になった。
「案外お前も死にたがりか」
「て、めっ……」
詰まった息を吐き、ヴィゴが咳き込む。
「手加減しろっ、アホッ!」
涙目で大きな背中を見上げれば、歳若の黒騎士は黒銀の鬣を風に靡かせていた。
「ヒトを足蹴にした罰だ」
エリゼオは黒騎士と同時に投げ飛ばした虫を見ながら、首を鳴らした。その視線の先で、それは尖った節足を僅かに震わせ、肢体を痙攣させている。
別段、剣を抜かなくとも足止めする術は持ち合わせている、という証明だったのだが、
「ったく……」
零せば、巨体がへし折った木々がそれの上へ落ちた。
潰れる様な音。
きっと体液が漏れ出たのだろう。刺す様な臭いが鼻を突く。
「……」
エリゼオは腕を組み、一時思案する様な風を見せた。
しかし、それが動かなくなったことをよし、としたのか、踵を返す。
「中途半端なことやってると食われるぞ、阿呆」
転がった下官の脇を過ぎる途中、彼に冷たい視線を向け、わざとらしく溜息を零す事も忘れない。
「おまっ」
ヴィゴは口を開閉させ、過ぎ行く黒羊を見送る。
「ヤるなって言ったよなっ! お前、今、無かったことにしただろっ!」
エリゼオは男に応えず、兜の下で口角を持ち上げ、目を瞬かせる上官へと身体を譲った。
「どっちがアホだっ! アホ!」
ヴィゴは吼えながらも口端を緩め、地面を掻いて立ち上がる。そして助かった命に安堵の溜息を零し、助けてくれた歳若の上官に静かに感謝する。
「これだから過保護は困んだよ……」
そうしてまた、黒羊の群れは走った。
目指すのは森の外。




