第16話 荒れ地(4)
「ひどい、ですね」
少女は顔を青くして、零した。後ろに控えた男も苦い顔をする。
黒い雄羊の小隊は長の命でその場に待機し、巨体を地面に転がした獣を繁々と眺めていた。その脇でアウヴォが鏑矢を放ち、その音で本隊が合流。計画通り、リコスに話を聞く段になったのだが、
「ヒュン、ヒュンッ」
獣は黒羊の群れに完全に怯え、口を開くどころか、耳を下げ、尾を丸めて、目を潤ませ、震えていた。フロミーには彼が酷く哀れに思えて、
「これ以上は無理です」
一緒になって目に涙を浮かべる始末だった。
仕方がないので真っ白な獣は放って置き、巨獣に近づいた訳だが、その有様に誰もが閉口してしまう。
オォオオ……
彼はその大きな目に黒羊を映し、口から生やした複数の触手を動かして辺りを探っていた。彼にしてみれば、小さな黒の群れは異様に映ったかもしれない。誰も彼もが鉄臭く、そのくせ獣の様でもあったのだから当然か。
暫くそうして警戒していたが、どうやら先程群がって来た小さな獣の様に、意地悪はしてこないらしい、と理解した様だった。一先ず安堵し、彼は窮屈そうに下げた首を持ち上げた。
「なんて言ってた?」
黙っていても先へは進まない。ベルンハルトはラバーカを見上げ、立ち竦む少女を見た。
「すごく、怖がっていました……」
首だけでは足りず、フロミーは背中までもを反らせて、彼を見上げる。
「でも、少し安心したみたいです。私たちが何もしないって分かったみたいで」
体躯には不釣り合いの、木の根の様に筋張った細い四肢が、その骨の浮いた胴を支えていたならもっと雄大で、優美であったろう。そしてきっと見上げても足りなかった筈だ。
フロミーは偉大な獣を前に、込み上げる悲しみを堪える。
残念なことに、彼は蹲り、大きな目を虚ろに開くだけ。二、三度足を掻いては見せたが、それ以降は動かなくなった。呼吸する度に血が流れ、共に生気が抜け出る。溢れ出す体液は巨大な彼の身体を赤く濡らし、地面に溜まりを作り、乾いた大地を潤す。
「……」
フロミーは、それでも見上げなければ顔さえ見えない獣に向き直り、強く黒衣の裾を握る。
「あのっ!」
こんなひ弱な自身の声では届かないかもしれない。彼は相手にもしてくれないかもしれない。それでも。
「私はフロミーと申します。あのっ、私達はどうしてこうなってしまったのか、原因を探しています」
精一杯、力の限りに叫んだ。
これ以上、摂理を壊さない為。
これ以上、彼の様な犠牲を出さない為。
そして黒騎士の、群れの役に少しでも立つ為に。
「あのっ、少し……」
目を瞑り叫ぶと、彼は太い首を曲げ、少女を、そして黒騎士を再び見下ろした。
ォオオオ……
彼の低い声は物悲しい。
フロミーはできるだけ考えず、自分の役割に集中する。
「あのっ、ごめんなさい! 私にはあなたを助けられないのっ!」
頬を赤く染め、零れそうになる涙を必死に我慢する。
オォオオ……
「ごめんなさいっ! 私っ、あなたのお友達も知らないのっ!」
ラバーカは大きな目に少女を映して、数回、ゆったりと瞬き、それからまたゆっくりと首を持ち上げた。それが遠くを見つめ、やがて伏せられる。
きっと彼も理解している。
彼自身の運命を。
「ごめんなさい」
フロミーは耐え切れず、涙を流した。
「ごめんなさい、私……」
強く握った拳の内で、黒衣がよれた。流れた涙が頬を伝い、地面に落ち、染みを作った。
「私……」
鼻を真っ赤にして、肩を揺らす少女に歩み寄り、ベルンハルトはその小さな頭を撫でた。
現実は余り辛く苦いから。
少女の痛みが少しでも和らげば、と思う。
ォオ……
ラバーカは折り、半身を持ち上げていた前肢から力を抜いた。そうして諦めた様に静かに長い首を下げ、地面に身を横たえる。
オォオオオ……
低く、低く、彼は喉を鳴らす。揺れる地面に、小石が躍る。
「……」
落ちる沈黙。
ベルンハルトは耐え切れず、少女を抱きしめた。
「もういい、フロミー。他を当たろう」
彼が目を伏せると、少女が首を振る。
「いいえ、准将。彼は教えてくれてます。いっぱいの歯を見たって」
「いっぱいの歯?」
「はい。あんなの見たことないって。それに襲われたんだ、って。怖くて逃げてきたら、今度は小さなのがイジメるんだって。そしたら黒いのが助けてくれたって。だから少し休んで森へ帰るって……」
フロミーは上官に抱きしめられたまま泣いた。慌てたアウヴォが彼女の許へ駆け寄る。
「……」
ベルンハルトは下官に少女を任せ、ラバーカを見た。歩み寄りながら手甲から腕を引き抜き、毛もない肌に触れてみる。
彼は一瞬、そこを震わせたが、暴れることはなかった。静かに目を閉じたまま、深く息を吐く。
「……」
少し冷たい身体。湿って見える外見とは違い、意外に硬く平を押し返す。
一体彼は何を見たのか。思うが答えは分からない。
その脇腹は大きく裂かれ、後肢は噛み千切られたのか。乱暴に毟られた様に骨が剥き出して、肉を引き摺っている。
どれ程逃げ回ったのか。
どれ程血を流したのか。
喉元には大きな噛み傷。これが彼の言う“いっぱいの歯”か。
身体中、至る所に作られた噛み傷は、リコスが彼を生きたまま捕食しようとした名残だろう。その様は痛々しく、
「もう十分だろ?」
ミリが口を挟む程であった。
彼女は利己的で、滅多な事では動かない。腰を上げるとすれば金が絡む時か、そこに彼女の闘争心を煽る何かがあった時だけだ。こうして静かで暗い彼女は酷く珍しい。
「私がやるよ」
彼女は騎獣から降り、背に担いだ、己より大きな斧を振り抜いた。
「待ってくださいっ!」
フロミーは叫び、兄の腕から飛び降りる。
「この子は森へ帰るんですっ! 少し……、ほんの少し疲れただけだって……」
苦しい。
それはとても痛く、苦い味。
「准将、どうすんの?」
ミリは括れた腰に手を当て、巨大な斧で肩を叩く。
聞かなくても答えは誰もが知っている。それでも聞くのは彼が群れの意思だから。彼が決めれば誰もが従う。誰もが彼の手足だから。
「ごめんな、フロミー」
ベルンハルトはラバーカを見て、彼の身体をまた撫でた。
「ダメッ! 止めてっ!」
少女が叫ぶ。
顔を真っ青にして、口が裂けんばかりに泣き叫ぶ。
「お願いっ! 止めさせてっ! ダメッ! 彼はまだっ!」
ミリは溜息をついて、斧を引き摺った。武人たる鍛えられた肉体が、脂の乗った浅黒の肌に映える。呼吸をする度に動く彼女の腹は美しく割れ、どこか獣的な色香さえある。
「ダメッ! お兄ちゃんっ! お願いっ、彼はまだ生きたいのっ! 私達が勝手に決めちゃダメッ!」
ミリは彼の首元に立ち、斧を振り上げる。
「ダメッ! 止めてっ! 離してお兄ちゃんっ! あの子がっ!」
「アウヴォ、見せるな」
悲痛な叫びに、ヴィゴの声は低い。
彼の臣子は幼い妹を乱暴に胸に抱き、小さな頭を己の胸に押し当てた。もがく手足を腕に収め、きつく抱きしめる。
「いやっ! 離してっ! ダメッ! ダメッ!」
彼は静かに目を開いた。
ミリは美しいそれから決して目を逸らさない。
それが彼女の流儀。
命を頂くからには己に刻む。
「……」
彼の眼は死神を捕えた。
抵抗はしない。
ただ静かに目を閉じる。
「じゃぁな」
ミリは斧を振り下ろした。
「いやぁああああああっ!」




