第15話 荒れ地(3)
「っ……」
ベルンハルトは思わず息を詰めた。
近づくにつれ、ニンゲン程度の嗅覚でも流石に異臭を感じた。何度嗅いでも慣れることはない。生臭い様な、表現しづらいそれ。
若干の吐き気を感じながら、指を立て、握り、脇を走るイェオリに合図を送る。彼はそれに無言で応え、隊列を離れた。その後ろに数人が続く。
当初、風下からじわり、と距離を詰め、遠距離より様子を伺おうか、とも考えたベルンハルトだが、ここはそもそも草木も乏しい荒れ地で、身を隠す物すらない、と改める。獣の跡をつけたところで、大きな群れと合流されれば黒騎士が襲われる。
しかし、もたついていると臭いに釣られた獣が集まることも考えられた。時間はかけていられない。そこで手っ取り早く暴力に訴えることにした。
危険は伴うが集団で急襲し、獣の一頭でも捕獲して、直接聞く方が状況を早く把握できる。単純ではあったが、個々の能力が特殊だからこそ成せる業。無言のまま身振りで意思を伝えると、多少の揶揄も含みつつイェオリは合意した。
きっと兄貴分は、血の気の多いエリゼオの様だ、と内心で笑ったに違いない。ベルンハルトは苦く笑って、前を見る。
なんにしても、後は計画を実行するのみだった。
上官の指示を受け別動するイェオリは、暫く本隊と並走し、目的の影が大きくなり始めたところで腕を上げた。呼応するのは本隊の先頭を走るアウヴォ。彼らはベルンハルトを支点に、反発し合う様に外へ、外へと距離を取る。後ろに続く黒騎士は先頭より内へ入り、目標物を下から包み込む様な陣形で更に足を速めた。
蹄が地面を叩く。
爪が赤土を巻き上げる。
影が、ベルンハルトの目の中で輪郭を見せる頃。流石に足音に気づいたのか。白い獣達が獲物から、黒羊の群れへと視線を移した。身を屈め、血に濡れた鼻面に皺を寄せ、牙を剥く。
彼らの獲物は片方の後肢を失ったラバーカ。遠方からでもその巨体を見て取れたが、間近に迫るにつれ、ニンゲンのちっぽけさと、自然の雄大さを思い知らされる。
それは見上げる程の巨獣。森の管理人と呼ばれる彼らは、正に巨木そのものだった。にも拘わらず、彼が哀れに見えるのは、後肢から、裂けた脇腹から流れ出る夥しい量の血液のせいか。立つことすら出来ず、地面を這いずり回り、赤い大地に色濃い染みを作り出す。
オォオオオ……
彼が鳴いた。
それは巨大な角笛の様に、低く、低く、空気を揺らし、地面を揺らし、その場にいるモノ達の身体までをも振動させる。
それが開戦の合図だった。
重く空気を叩く振動を、身を縮めることでやり過ごし、黒騎士達は獲物を抜き放った。それは内にベルンハルトを有するエリゼオも同じ。殺す必要はない。但し、動きは封じる必要がある。
退けば追い、向かって来れば、
「グアゥッ!」
応戦する。
重心を下げ、エリゼオは柄を握る拳に力を籠める。
縮まる距離。
「シッ」
エリゼオは奥歯を噛んだ口元から牙を覗かせ、騎獣に飛び掛かって来た獣を掬い上げた。
「ギャンッ!」
彼の長剣に絡められたリコスは腹を割かれ、四肢を幾つか飛ばして、不自然な恰好で跳ね跳んだ。
先ずは一匹。
エリゼオが弁柄を眇めると、宙で僅かばかりにもがいたそれを見逃さず、分厚い鎧を纏った騎獣は主を背に乗せたまま地面を蹴り、凄まじい捕食音を立て、獣に食らいついた。
毛が舞う。
血が飛ぶ。
肢体が軋む。
「グゥウッ」
騎獣は重い音を立てて地面に足を着け、上機嫌で太くしなやかな長い尾を振った。その際、鱗が擦れ、耳障りな音を出したのはご愛嬌だ。
「おい、ロロ……」
対する主は溜息をつく。
目的はと殺でなく、証言者を得る事。折角足止めできても、これでは話どころではない。
「ったく……」
目的の物を手に入れられなかった以上、計画は続行。
エリゼオは渋々と騎獣の腹を突き、ラバーカの巨体を過ぎて、回り込んだ位置につけた。それに黒騎士も続き、これで目標を取り囲むことになる。
「お前が口を出さなければ、もう終わってたんだぞ」
「グゥ」
リコスを包囲し、逃げ出さない様に目を光らせ唸る主に、彼は喉を鳴らして答えた。
しかしそれは、何を怒られているか分からない、と言った風で、骨の浮いた胸を何度か膨らませた後、長く太い首を擡げて主をしっかり確認し、
「グッ、ギュ……」
耳元まで裂けた大きな口で、獲物となったリコスを圧し潰した。破れた皮から血が溢れ、残った四肢が痙攣する。だらしなく垂れた舌と尾を伝い、血液はやがて血溜まりを作った。
「お前、分かってやってるだろ?」
「グゥ?」
「今度からお前のことはイェオリと呼んでやる」
「グゥッ」
何が嬉しいのか。彼は一際大きく鳴いて、背骨の砕けたリコスを振り回した。飛び散る血で主の鎧を汚し、一頻り弄んだ後、その身体に見合った立派な前肢で踏みつけ、引き千切り、証言者だったモノを悠々と腹に収めた。
「はぁ……。お前は自由でいいな、イェオリ」
エリゼオがリコス捕獲を断念した頃、黒騎士達は弓を引いていた。
「チッ」
そのどれか一本がリコスに当たれば、と思ったが、獣もやるもので、右へ、左へと華麗に避ける。
狩人は基本、罠を仕掛けるか、獲物の隙を突いて狙いを定めるものだ。向かい合った状態で動かれては手も足も出ない。
こうなると、狩りに長けるモノではなく、弓矢の名手が必要だ。
「あぁっ!」
リコスはまるで揶揄する様に跳ね回り、尾を振っては、身を翻す。矢を番え、狙いを定め、解き放つ頃にはもうそこに姿はない。
幾人かもそれを狙ったが、一つも当たらなかった。
虚しく、矢が地面に突き立つ。
「クソッ!」
黒騎士は悪態をつき、腰に収めた矢に手をかけた。次を番えようと腕を上げた時、
「グアゥッ!」
隙を見逃さず、リコスが背に生やした赤の長羽を美しく靡かせ、大きく飛び上がった。鋭い爪のついた細腕を広げ、耳元まで裂けた口は大きく開かれる。
「くっ、そ……」
黒騎士は目前に迫る獣に、反射的に腕を突き出した。
「ガゥッ!」
「うあっ!」
咆哮と悲鳴が同時に起こり、次いで金属がぶつかる音。
舞い上がる砂埃。
「ぐっ!」
黒騎士は軍馬から落ち、息を詰めた。
黒羊の腕を噛んだリコスは、その硬い感触を嫌がる。直ぐに口を離し、地面に押さえつけたそれの首を狙う。
が、牙が通らず、こちらも断念。
「グゥウウ……」
歯が立たなければ手立てはない。
黒羊を見下ろし睨んでいたが、
「離れろっ!」
他の黒羊が弓を振って襲ってきたので、直ぐにその身体から飛び退いて、一直線に包囲網から抜け出した。
「クゥ、ククク……」
アウヴォはそれを見逃さない。
黒騎士の上に陣取った獣が飛び退く瞬間には矢を番えていた。次いで引き絞る。狙いは勿論、真白な獣。それが地面を蹴り、跳躍する。跳ね跳ぶ土塊。
「……」
アウヴォは騎上で身を捩り、それを追う。
揺れる赤の羽。
舞う長い尾。
上体が真後ろを向く手前、
「ギャインッ!」
獣の前肢を射抜いた。
解き放たれた矢に穿たれた獣は前のめりで転がる。巻き上がる砂埃。
アウヴォは続けて矢を番え、素早く正面に向き直る。狙うのはラバーカの影で震える獣の尾。
放てば、
「キャインッ!」
長い尾を地面に縫い取られ、獣はその場で狂った様に跳ね回った。必死に逃れようと身を捩り、地面を掻き、矢の木軸を齧る。
「めんどくせぇな」
イェオリは今にも逃げ出しそうなそれを見て、騎獣から降りた。狼狽える黒騎士達を制し、鉄を伸ばしただけの様な格好の剣は抜かず、鞘のまま。
腰紐を解いて構え、
「ウアウッ!」
狙いを自身へと定め、飛びついて来たリコスを思いっきり殴り飛ばした。それは悲鳴も上げず、空中で回って、地面に落ちる。強硬手段に出た時から、こうするのが手っ取り早い、と思っていた。口を出さなかったのは、面倒だから。手を出さずに済むならそれに越したことはない。
それが彼のやり方。
ただ、時間を掛ければ掛ける程、面倒事になるのも理解している。
気を散らした黒い羊の隙を突き、
「ウアウッ!」
身を屈め威嚇していたリコスが身を翻した。
イェオリは鋭く光る爪を軽く躱し、脇を過ぎ行く獣の尾を鷲掴んだ。そのまま前方へと投げ出し、地面に叩き付ける。動かなくなったそれを横目で確認し、続けて尻込みする獣を返す刀で跳ね飛ばして、最後に縫い留められ、暴れる獣の頭を、
「キャンッ!」
軽く叩いた。
跳ね回っていたリコスは恐怖に震え、大人しく身を縮める。
「よし」
イェオリは剣を肩に担ぎ、満足そうに頷いた。
これで心配事も消える。
「ほら、早く呼びに行けよ」
何を、とは言わない。ただ巨体を囲んだ黒騎士の外を指差し、明後日に叫ぶ。
そうして、
「こいつが居れば十分だろ?」
怯えて縮こまったリコスを見下ろしながら、イェオリの手際の良さに呆ける下官に向け言い放った。
「クゥ、クゥ」
彼の早業を脇で見ていたアウヴォは頷きながら、騎獣を回頭させ、先程足を撃った獣を追う為に彼の腹を蹴る。
「ヒィンッ、ヒン……」
それには直ぐに追いついた。
赤土で毛皮を汚し、足を引き摺りながら、必死に地面を掻く様は哀れだ。アウヴォは必死に足掻くリコスを見ながら矢を番えた。
このまま逃がしても、手傷を負ったままでは生きていけない。かと言って治療して逃がせば、黒騎士にそうした様に、またニンゲンを襲うかもしれない。かかわった以上、始末をつけるのが流儀だ。
「……」
一度深く息を吐き、伏せた目を開ける。そうして目一杯引き絞り、放った。
「グッ!」
奪うのは一瞬。
風を切って進んだ矢は、リコスの後頭部に吸い込まれ、筈を僅かに揺らして、やがて止まった。
「クウ……」
アウヴォは口から矢を生やし、倒れた獣の許まで行くと、それの首を弦と弓の間に引っ掛ける。そのまま引き摺り上げて、慣れた手つきで騎獣の尻に乗せると、また群れの許へと戻った。
「よっこいせ」
イェオリは鼻から血を流し、身体を弛緩させたリコスの首根っこを掴む。
ぶよぶよ、と柔らかな感触は、皮の下に血が溜まっている証拠。一切加減しなかったので、恐らく頭蓋骨が割れたのだろう。
「ジネヴラ」
イェオリが呼ぶと、落ち着きなく脚を踏み鳴らしていた彼の騎獣が頭を上げた。
「ほれ。いい子に出来たご褒美だ」
手にしたリコスを振る。
それに誘われる様に、
「グーグー」
青白の光を纏った彼女は、イェオリの許へと駆け寄って来た。彼女が歩を進める度に鉄格子を思わせる鬣が揺れて、蛇頭をつけた尾が彼女の意思とは別に蠢く。その姿は実に美しく、それでいて荒々しさを感じさせた。
「ほれ」
ジネヴラは先ず主の手の甲に鼻を寄せ、次いでそれがぶら下げた小さな獣の身体を嗅いだ。一頻り鼻を鳴らすと、主の顔を上目に見る。
「ん、持ってけ。食うなら他所でやれよ。エグイから」
「グー」
ジネヴラはリコスを咥え、意気揚々と群れを離れた。その背を見送りながら、イェオリは背後に近づいて来た気配に口角を上げる。
「使えねぇな、お前」
振り返れば、剣呑な雰囲気を纏った男と目が合った。
「……」
「……」
エリゼオは視線を外し、
「イェオリが悪い」
そう言って、どうにも馬の合わない下官の横を過ぎる。
「はぁ? 俺の何が悪いんだよっ!」
子供の様に名を呼ばれたことにも驚いたが、それ以上に謂れのない苦情に腹が立った。思わず噛みつくと、上官の騎獣が長い尾でその首を撫ぜた。
「おい、待てっ!」
吼えるイェオリに応えるのは、
「グゥ」
黒鳶色を赤に汚した、彼の名を頂いた騎獣だけだった。




