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黒の雄羊  作者: みお
第1章
18/64

第13話  荒れ地(1)

 キィーイー……


 青く抜ける空。雲一つないそこに、高く、高く鳴く鳥の声が木霊する。

 風は草木も少ない赤い土地を撫ぜ、やがてどこか遠く、誰も知らない場所へ砂埃を運ぶのだろう。


 ヴィゴは吹く風に、目深に巻いた頭布から半分も出していない目を眇めた。そして、その耳に届いた声に言われるまま、左を見る。

 それは赤い大地の向こう。黒騎士の群れよりかなり離れた場所で長い首を更に伸ばし、こちらの様子を伺っていた。



「お、ソルアーが出たぞ。気をつけろぉ」



 荒野に彼の、なんとも間延びした声が響いた。



「うぃーす」



 応える黒騎士もゆるい。声を張り上げはしたが、覇気はなかった。


 黒騎士一行はベルンハルト指揮の下、選抜隊を編成し、要塞都市アルゴより北西へ進路を取っていた。その人数はリトラ出国時の三割に満たないが、相手が森の獣と言うこともあり、最小限の人数で、それでいて対自然に強い、狩りの腕が優れたモノが召集されている。

 行軍を率いるのはヴィゴの臣子、アウヴォ。自然を知り、獣の言葉を操る彼は、今回の任務内容を考慮すると、黒羊の群れを率いるのに打ってつけだった。自然を読み、獣の動きを見極め、逸早く危険を察知し、安全を確保する。

 先程の号令も、彼の一鳴きがあってこそ。

 アウヴォの後ろに続くのはヴィゴ下の黒騎士で、その中程に隊長本人、脇にイェオリを従え、背後にベルンハルトとエリゼオが続く。

 更にその後ろ。今回は荷引きも兼ねたバルドメロの隊が控えた。彼らは重量級の軍馬、騎獣を操り、町へ献上する為の資材を運ぶことになっている。動きは遅いが、荷引きの数を減らしている分、彼らが全ての糧秣、飲料、その他生きる為に必要な物資を一手に引き受ける形だ。

 黒羊の生命線とも言える彼らの尻を護るのはミリの隊。今回彼女は二分隊を率いるのみだが、その瞬発力と力を考えれば十二分だった。

 そして進む軍隊を囲み、護衛するのがイェオリ率いる、接近戦に優れた黒騎士達。内に遠距離系のヴィゴ下を抱え、辺りを警戒し、群れの長を守護する。 

 人数こそ少ないが、任務遂行に適した、それでいて命を死守できる布陣で、黒羊達は一路、イルシオンの森を目指す。



「警戒怠るなぁ」

「アイアイ、隊長ぉ」



 行軍は順調そのもの。何の問題もない。ああして時折獣が出るが、アウヴォの観察眼と知識があれば、大抵は避けられる。

 危険が多い外界には相応しいとは思えない、どこかのんびりとした時間の中、



「ソルアー……」



 フロミーは、ヴィゴが指差す先で身を寄せ合う獣を、それはそれは繁々と観察していた。騎獣の主が許すなら、そう広くはないここ、跨った獣の上で本を開いて、彼らの姿を描き留めたい、とも思った。

 きっと酔ってしまうけれど、彼女にとってそれは二の次だ。



「ソルアーって……」

「うひゃっ!」



 突如かけられた言葉に、フロミーは飛び上がってしまった。それ程、遠くに見える獣に夢中だった。



「あぁ、ごめんな」



 ベルンハルトは腕の内で胸を押さえる少女に、驚かせるつもりはなかった、と謝罪する。



「アレって凶暴だったっけ?」



 背中越しに感じる低い声。

 兄とは違う、少し体温の低い身体に抱かれながら、少女は改めて己がどういう状態にあるのかを再認識する。



「あの、えっと……」

 ―――きっと普通では考えられない。上官の騎獣に乗せて頂けるなんて。



 思えば恥ずかしさが増して、急激に熱くなり始めた顔を咄嗟に覆った。



「ソルアーは……」



 何度か首を振って、フロミーはほっかむりを手で押えながら、同行を許してくれた上官を見上げた。身体を曲げ、顔を覗き込む彼の目に自分の姿を見て、また赤くなる。



「あのっ!」



 特別大きな声が出た。恥ずかしくて汗が噴き出す。きっと上官の目には不審に映っているに違いない。慌てれば慌てる程動悸が増して、とても息苦しくなった。



「あの……」



 上手く言葉が継げず、フロミーは狼狽える。この場に兄が居なくてよかった、と心底思った。こんな姿を見られた日には、なんと言われるか。



「ソルアーは、その……」



 フロミーは群れ長が好きだった。幼心に抱く憧れ、と言った方が正確かもしれない。

 少佐の様に美しく知識が無くても、大尉の様に可愛く明るくなくても、ましてや中尉の様に強くなくても、いつか大人になった時、少しでも近くに居れたら、と思う。

 彼はとにかく柔軟で、思いを汲みとれるヒトだったから。

 今回の件に関しても、誰もが危ない、と反対する中、フロミーの能力を買って同行を許してくれたのはベルンハルトだった。非力なのは自分も同じだ、と笑って、お前たちが居れば問題ない、と仲間を鼓舞する。その姿は輝いて見えた。

 まだ幼くても、彼は一人前の騎士として見てくれる。経た歳月だけはどう足掻いても追いつけないので、掬い上げてくれる彼の存在は、フロミーにとってかなり大きなものだった。

 だから、彼の為なら、とその心内に抱く思いは強い。きっとそれは黒騎士、皆が抱く感情だろうが、負ける気はしていない。



「ふぅ、はぁ」



 フロミーは何度も深呼吸して、上官の役に立たなければ、と気合を入れ直した。同時に、少しでも気を紛らわせようと、遠くに見え隠れする獣に集中する。頭の中から上官の姿を、今の状況を追いやって、考えるのは一つだけ。



「ソルアーは好戦的ではありませんが、縄張りを荒らされることをひどく嫌うんです。大尉のご判断は正しいですよ」



 口籠る事もなく、上手く言えた。

 フロミーは胸を撫で下ろす。



 ―――動物には助けられてばかりだ。



 彼女が密やかに笑むと、



「さすが我が臣子の妹、分かってるな」



 上官の前を行くヴィゴが肩越しに笑った。

 周りを囲む黒騎士達も、間違いない、と品のない笑い声を上げる。彼らはご多分に漏れず、騎士と呼ぶには余りにも物騒な集団であったが、敵意さえなければ気安い。そうしてまた、酷く優しいのだ。

 フロミーは黒騎士達の心遣いに感謝しながら、上官の胸に背を寄せ、鈴の様に喉を鳴らした。



「そっか。んじゃ、食える?」



 ベルンハルトは前肢が異様に長い獣を見ながら、腕の中で揺れる小さな頭を撫でた。領地でも子供とは多く接するので、慣れたものだ。

 ただ、走り回りじゃれ合う彼らと彼女が違うのは、危険な場所へ連れていけ、とせがむ、その意思の強さか。フロミーの度胸と行動力には驚かされ、そして感服するばかりだ。

 そんな上官の思いなどつゆ知らず。

 眉庇を上げた兜の中で光る彼の灰が酷く純粋に見えて、フロミーは、くすくす、と肩を揺らしていた。



「彼らは腐肉を啜るので……」

「あぁ……」



 先の尖った小さな頭はその為か。朽ちる身体に顔を突っ込み、柔らかくなったそれを吸うのだろう。陶器の様に濡れて見える表皮は、身体を清潔に保つ為か。

 雨の少ないこの地方では、水場を探すのも難しい。だから死体から水分を取り、汚れる毛皮を捨てたのかもしれない。そう考えれば、彼らの食生活にも、身体の造りにも納得がいった。

 長い吻から時折覗く、それに見合った長さの青い舌を見ながら、ベルンハルトは顔を顰める。



「臭そうな」



 鎧の様な、上品な色合いの外皮はいい素材になりそうだな、とも思ったが、先ずは目的を果たすか、と改める。



「道中リコスの痕跡探すんだっけ?」



 臣子を内に見て、ベルンハルトがまた喉を鳴らした。

 フロミーはその横顔を盗み見る。残念なことにその多くは兜に隠れ見えなかったが、端正な面立ちを、何より鼻歌でも歌い出しかねない上機嫌さを感じられ、それだけで幸せだった。



「えぇ。平原は広いですから。取り敢えず道すがら、ここら一帯がどうなっているのかを探りましょう」



 エリゼオは淡々と口を開いた。その弁柄に遠くを映し、赤みを増す。

 いつも仲が良いものだから。彼らのやり取りがとても不自然に見えて、フロミーは首を傾げる。困惑を隠せずにいると、



「我慢しなくていいぞ」



 頭上から声が降って来た。

 少女は反射的にベルンハルトを見上げる。ぶつかったその目はいつもの優しい灰色だった。



「あの……?」



 上官が何を言いたいのか理解できず、少女は戸惑う。



「書くだろ?」



 鞄を指され、合点がいった。



「いいんですか?」

「遠慮しなくていいよ」



 細められた目に、フロミーの心臓はまた高鳴る。



「ありがとうございます」



 もしかしたら落ち着かない様子を見て、好奇心を押さえている、と思われたのかもしれない。

 フロミーはまた赤くなる。



 ―――早く大人になりたいのに。



 羞恥心を誤魔化し、カバンを漁る少女の脇で、



「イェオリ」



 エリゼオが口を開いた。



「あん?」



 ぼんやり空を眺めていた彼は、不満そうに鼻を鳴らした。騎獣の背の上で一旦大きく身体を伸ばして、振り向きもせず欠伸を噛む始末。



「……」



 エリゼオはその様子に眉を顰め、また遠くへ目をやった。別段、部下の態度に怒るでもなく、ただ、ただ遠くを見る。



「なんだ?」



 訝ったのはヴィゴ。

 彼は不自然な空気を感じ取り、眉を顰める。



「お前ら、こんなとこでまたやらかすなよ」



 それが昨晩の乱闘騒ぎを指している事は、一瞬で理解できた。彼らと肩を並べ、隊列を作る黒騎士達は皆、気まずそうな表情を浮かべ、視線を彷徨わせる。

 しかし、微妙な空気を察することが出来ないベルンハルトは、



「そう言えばイェオリ。エリに謝ってないだろ」



 前を行く兄貴分の背中を見ながら、唇を尖らせる。



「俺が何を謝るんだ?」

「エリ、イジメただろ。昨日、大変だったんだぞ」



 上官の言葉に、その場に居た誰もが、大変だったのはこちらです、と思ったが、勿論口にしたりはしない。軍馬に揺られるまま、ただ前を見る。



「な? エリ?」

「……」



 ベルンハルトは首を傾げるが、受けるエリゼオは応えない。

 ヴィゴは騎上で振り返り、



「いや、ベル。あれは謝るとか、謝らないの問題じゃねぇから」



 珍しく苦い顔で返す。



「え? 喧嘩したんじゃないの?」



 再び首を傾げるベルンハルトに、



「……」

「……」



 話題の渦中にある二人は黙ったままだった。



「おい、なんだよ、エリゼオ。お前話してねぇのかよ」



 ヴィゴは目を眇め、口元を歪める。その橙が酷く責めるので、エリゼオは華麗に視線を外し、



「覚えてない、からな」



 珍しく、歯切れの悪い答えを返した。



「おい、嘘だろ……」



 ヴィゴは手綱を離し、騎獣の尻に手を突く。



「そんなんだから狼男だってんだよ」

「煩い」



 歳若の上官の目から弁柄が消え、彼が雲隠れするつもりだ、と言うことは直ぐに分かった。



「おい、ベル。狂犬の首輪はどこに置いて来たんだ。確り手綱握っとけ、って言ってあっただろ」



 まるで密談でもする様に、ヴィゴが声を潜めるので、



「こう見えて、エリはロロより気難しいんだぞ。ヴィゴ調教できる?」

「……いや、無理だな」

「だろっ? ホント、コワイんだから」

「それじゃ、別の手を考えるか」

「うん」



 ベルンハルトも、こそこそ、と声を落とした。

 じゃれる二人に、



「おい、聞こえてるぞ」



 エリゼオはうんざりした顔で溜息をつく。

 それを待っていました、とばかりに、



「聞こえる様に言ってんだよ、アホ」



 ヴィゴは橙の中の黒を日の光に小さくしながら、嫌味ったらしく鼻筋に皺を寄せた。灰を弁柄に染めた目を見据えれば、エリゼオがまた視線を外す。



「お前に自制心、とか言う言葉があったら、ああはならなかったんだよ」

「……」

「確かに、先に手を出したのはこっちのアホなわけだが」



 ヴィゴは手を突いたままの態勢で、チラリ、と脇を行く相方を見やり、



「にしても、誰が招かれた城の広間をぶっ壊すよ。明らかやりすぎだろ」

「えっ!」



 平静を装う歳若の上官を見た。

 ヴィゴの言葉に驚愕し、声を上げるのはベルンハルト。何度も目を瞬かせ、動揺を隠せない。



「可愛そうに。ベルちゃんは何にも聞かされてないのね。実はココに居るアホ二人は、取っ組み合いの、殴り合いの、決闘と言う名の、ちっぽけな誇りを賭けた死闘の末、アルゴの要塞を完膚なきまでに伸したのよ」

「えぇっ!」

「それはもう酷かったのよっ! あたし怖かったっ!」



 ヴィゴはそう言うと、目元を覆って、涙をぬぐう様な仕草を見せる。それがどことなく、都の貴族の様に見えるから不思議だ。

 周りを囲んだ黒騎士達は、茶ける上官に思わず吹き出しそうになった。

 しかし、そこは騎士。上官達の真面目な話しを邪魔する訳にはいかない。口元を押さえ、必死に我慢する。あるモノは誤魔化す様に咳払いしたが、明らかに不自然で、更に笑いを誘う羽目になった。笑ってはいけない時程、くだらないことで口元が緩むものだ。黒騎士達は眉を寄せ、肩を震わせて、何とか耐えるしかなかった。



「可愛そうに。ベルちゃんは見てなかったものね。コイツ等ときたらっ! 獣よっ! 獣っ!」

「だからみんな、あんなによそよそしかったのかっ!」



 ベルンハルトは今朝の、出立前の空気を思い出して拳を握った。

 隊列を組み、町を出る際、礼に則り町長に挨拶したのだが、あの夜、和やかに挨拶を交わしたはずの彼も、優しい顔をしたレアでさえ、目を合わせてはくれなかった。きっと見苦しいところを見せてしまったから、気を悪くしたんだな、程度にしか思ってはいなかったが、手を握った彼らの顔がやたらと青かったのはそのせいか。

 確かに震えていたし、汗も流していた。さすがにあの雰囲気はおかしい、と彼でも気づいた。まさか原因が位持ちの組打ちで、しかも彼らの大切な城を傷つけたことにあるなんて。

 ベルンハルトは白い顔を青くする。

 きっと彼らは酷く驚いたに違いない。ニンゲンではなく雑じりの、しかも騎士の位持ちが理性もなく暴れ回ったのだ。戦いから遠い文民には刺激が強すぎた筈だ。ヴィゴははっきりと言わなかったが、多分、城の損害は想像より酷い。



「だからお前、出てこなかったのか……」



 昨夜から今朝にかけて、何があっても傍に居てくれる筈のエリゼオの姿が見えなかった原因に当たり、ベルンハルトは唇を尖らせ、頬を膨らませた。

 杞憂した時間を返して欲しい、と思う反面、どこか安心したのは黙っておく。



「あの……、エリゼオ様も疲れてらっしゃったんですよ。ね?」



 上官達の会話に口を挟むのは不躾かな、とも思ったが、黙っておくのも苦しかった。幼いながらも、フロミーは気を遣って、口を開く。

 必死に庇ってくれる彼女にエリゼオは答えず、代わりに灰目に怒りを滲ませた上官が応える。



「甘やかしちゃダメだって、フロミー。もぉっ! おかしいと思ったんだよっ!」



 彼があまりにも大きな声を出したので、腕の中で震える少女は無言で何度も頷き、騎獣は嫌がる様に首を振った。



「で? 城の補修とかどうすんのっ?」



 怒るベルンハルトに、



「それもあって隊を別けたんだろ」



 ヴィゴが面倒そうに答える。



「あぁっ! だからテルセロやアッシを置いて来たのか!」



 いつも傍を付いて離れない臣子の顔を浮かべ、ベルンハルトがまた唸る。

 黒騎士を統括する立場にあるベルンハルトやエリゼオには、個別に指揮する隊はない。その為、なんにでも直ぐに対応できるモノが二人、別に付く形をとっていた。それは長、直属の騎士。長の意思を隊へ伝え、あらゆる指示を素早くこなすモノ達。

 そう言えば聞こえはいいが、実質、上官の雑務をこなすのが彼らの主な仕事であった。



「可哀想にな。アイツ等はコイツ等のケツ拭きだよ」



 笑うヴィゴに、イェオリも鼻を鳴らす。



「お前は笑うな」

「へぇ、へぇ」



 相方に小突かれ、イェオリは口端を緩めたまま肩を竦めた。



「んじゃ、アルゴは……」

「取り敢えず問題ないだろ。居残り組は城の修復に当たりつつ、町民のご機嫌も取ってくれるってさ」

「そか」

「その間に、血の気の多いアホ共は確り任務をこなして挽回しないとな」



 橙に見つめられた灰目の奥に赤が滲むが、エリゼオは何も言わなかった。



「がっ、がんばりますっ!」



 代わりに幼い少女が拳を握り、周囲に笑いを誘った。

 黒騎士の一団は温かな日の下、辺りを警戒しながら北上を続ける。軍馬は時折尾を振って、騎獣はだらだら、と歩くのに飽いたのか、地面を掻いては身を揺する。



「ん?」



 風向きの変わった荒野で、イェオリが眉根を寄せた。



「なに?」

「んー?」



 ベルンハルトにせっつかれたが、風を嗅ぐイェオリには答えがない。

 何度か鼻を擦り、



「あぁー、分からん」



 彼は投げた。そして先程、生意気な上官が己の名を呼んだことを思い出す。挑発にも乗らず、黙ったまま遠くを見る男に覚えた違和感の正体はこれだったらしい。イェオリは疑問の答えに至り、



「犬コロの鼻にはかなわねぇなぁ」



 またわざとらしく彼を煽った。

 受けるエリゼオはやはり答えず、遠くを見たまま。



「なによ?」



 首を傾げるのはベルンハルト。



「臭いが……」



 臣子はそこで言葉を切り、無言のまま風を嗅いで、



「准将、血臭がします」



 唸った。

 上官の言葉に黒羊達が騒めく。今の群れに、彼以上に鼻の利くモノは居ないので確かめようはないが。



「あっちか?」

「はい……」



 臣子の視線を追い、ベルンハルトは北を見た。

 一時思案して、



「フロミー、顔隠しときな」



 少女の頭でふわふわ、と揺れる薄絹を乱暴に引き下げた。



「はいっ、准将っ!」



 フロミーは慌てて、取り出しかけた本とペンを鞄へと押し込み、確り留め金を掛け、上官に言われた通りに、少佐が持たせてくれた絹で顔を覆った。

 それを確認し、



「ヴィゴ、進路を変える」



 ベルンハルトが顎を上げる。



「あいよ」



 令された臣子は指を咥え、それを吹く。

 高く、長く、短く、長く。

 そうして腕を上げると、



 ピィーイー……



 先を行く彼の臣子が応えた。

 群れはその首を大きく右へ。



「皆っ、眉庇を下ろせっ! 走るぞっ!」



 そうして尻に鞭が入る。

 軍馬は嘶き、騎獣は吠えた。

 次いで上がる砂煙。

 続くのは地響きか。

 大きく空を飛ぶ様に。

 町で荷を引く馬とは違う。その大きな体躯と纏った筋肉を引き絞り、軍馬は主に従い地面を蹴る。乾いた大地を抉って、砂埃を巻き上げ、艶やかな毛皮を太陽に輝かせ、矢の様に鼻面で風を切った。靡く鬣に、流れる尾が空を泳ぎ、その太い首が上下する度に速度を増す。

 その速さときたら。



「っ、ぅうっ」



 フロミーは耳元で煩く鳴る風に身を縮め、上官の回してくれた腕に必死にしがみついた。流れて行く景色は溶けるようで、絹越しでも目を開けていられない。

 加えて、彼女の跨る騎獣は軍馬と違い、その背が弓の様に撓る。彼らの身体に合わせた座面の小さな鞍は、地面とぶつかる衝撃を殺すこともなく直接身体に伝え、その度に肩から掛けた大きな鞄は跳ねまわったし、何より身体が弾き飛ばされそうだった。



「うきゃっ!」



 それを何度も繰り返すうち、今度は背骨に衝撃が走る。



 ―――身体っ、千切れちゃうっ!



 町を出る前、フロミーは乗せて頂くことになった“彼”に挨拶をした。

 一人では危ない、と付き添ってくれたのは馬番のトピアス。彼は少し緊張しながら、少女を“彼”に紹介してくれた。フロミー自身、様々な動物と言葉を交わしてきたから、平気だと思った。だから手を伸ばしたのだが、トピアスに身体を突き飛ばされていなければ、今、この場には存在していない。

 唖然と座りこむ少女に、“彼”は首回りの鱗を逆立て、鳴らし、前に迫り出した鋭い歯を何度も打った。走るには不便そうな脚に付いた鋭い爪で地面を掻いて、首に回された鎖を酷く嫌がる。何度も頭を振り、後肢で鎖を蹴っては吼え立てた。

 聞けばこうして外へ出しているのは珍しいとか。

 “彼”は大尉が准将の為に招いた獣。もしかしたらこの大陸には居ないのかもしれない。

 大尉は凡人には理解できない力で魔力を編み、簡素な指輪に言の葉を刻む。そうして“彼”は小さな鉄の輪に繋がれ、上官のモノになった。

 “彼”が必要な時は指輪を撫でる。

 フロミー自身はそんな光景を目にしたこともないので、想像すら及ばないが、機会があれば頼んでみよう、と目論んでいる。

 とにかく、難しい理屈は後にして。上官の魔力が大尉の言の葉を紡いで、門が開かれる、と言うこと。そうして“彼”はこちらの世界へ招かれる。

 今回はフロミーが同乗するので、いつもは身に着けない鞍を、それこそ無理やりに掛けられる羽目になった。安息の地から呼び出され、鎖で自由を奪われる苦痛はどれほどのものだろう。“彼”にしてみれば、踏んだり蹴ったり。人語は話さないが、きっと“彼”は理解した。

 この見慣れない小さなヤツが原因だ、と。

 フロミーは何度も頭を下げ、どうか安全に運んでください、と懇願した。

 しかし、



「きゃっ!」



 結果はこれだ。

 尾骶骨を思いっきり強打し、涙が溢れる。



「ひぃい……」



 激しく揺さぶられるまま、フロミーは下唇を噛んで耐える他なかった。



 ―――別の子に乗せて貰えばよかったっ!



 素敵な時間になる。そう目論んだ己の淡い思いを呪いながら。


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