間 休 内輪(1)
「はぁ……」
俺は、逃げる様に席を立った町長を丁寧に見送った後、直ぐに座りこんだ。
「しんど……」
とにかく体が怠く、重い。体調管理は自己責任なだけあって、誰に文句を言う訳にもいかない。己の過失に溜息が零れ、ただ項垂れる。
「あぁ……」
腿に腕をつき、なんとか身体を支えるが、額がテーブルに着きそうだった。そんな俺を見下ろしながら、ヴィゴが笑う。
「で?」
ヤツが何をせびっているのかなんて、尋ねるまでもない。どうせ俺をやり玉に挙げて、揶揄いたいだけだ。
「別に。普段通りだ」
顔だけ上げて、ヴィゴを見た。ヤツがにやにや、と薄ら笑いを浮かべる姿に、毎回のことながら嫌気が差した。
「はぁ……」
視線を逸らすと、内で船を漕ぎ始めた上官の姿が見えた。どうやら薬は効いているらしい。いい兆候だ。
「にしてはお疲れだな?」
あからさまに揶揄するヴィゴ。
その向かいでイェオリは目を眇める。
―――煽るなよ。
上官の兄とも言える存在のイェオリが、こういった件に関しては過敏に反応するので触れられたくなかった。特に今は無理だ。言い争う気力もない。
俺が項垂れたまま視線を床に落とすと、
「今回は酷かったんだろ?」
俺の鬼門が口を開いた。相変わらず億劫そうに顎を上げはしたが、突っかかっては来ない。珍しいこともあるもんだ。
視線を上げると、ヤツの緑眼が俺を見下ろしていた。やはりその中に怒気はない。
―――雨が降る……。
俺はもう一度項垂れ、床を見る。
―――あぁ、ブーツも汚れたな。
そんなことをぼんやり思った。
「月が綺麗だったもんなぁ」
ヴィゴはイェオリの言葉を受け、相変わらず突拍子もない事を言う。
「狼男かよ」
思わず喉を鳴らすと、
「大して変わんねぇだろ、お前」
なんて軽口を叩かれた。
「俺かよ」
「何? ベルの話だと思ったわけ?」
「流れ的に」
「ははっ、アイツは夢魔だろ」
散々な言われようだ。
俺が溜息を零すと、イェオリが唸る。
「サキュバスじゃないぞ。リリスだ」
「何か違うわけ?」
「彼女は神族だった。魔族じゃない」
「なんだよコイツ、血統まで高貴でいらっしゃるのか?」
ヴィゴはそう言って、酒瓶の尻で俺を指す。元より存在すら信じては居ないのだろうが、コイツの前では神も形無しだ。
「そらすげぇな」
褐色の髪を揺らし、彼はわざとらしく驚いて見せた後、直ぐに口端を緩めた。そんな適当な男を横目に、俺はイェオリを見上げる。
「珍しいな」
「何が?」
「お前、昔の事は話さないだろ? 珍しく酔ったのか?」
揶揄し、口端を上げれば、
「別に楽しい話じゃないからな。聞きたければ話してもいいが、ミンツが居ないところがいい」
イェオリは暗に、お前には話さない、と言う。
「今は眠ってる」
俺が胸の辺りを指すと、
「だから何だ? お前もベルンハルトだろ?」
人格を否定された。
確かに。イェオリにしてみれば長年離れていた、大切な弟様と再会したはいいが、その弟は昔の彼ではなくなっていて、しかもその内に得体の知れない男を飼っていたのだ。その事実を知った時、どれ程落胆しただろうか。それより先に、気味の悪さを感じたかもしれない。
俺がまた項垂れると、
「んだよ。んな辛気くせぇ顔すんなよ」
ヴィゴは目を細め、向かいに座るイェオリに果物の種を投げた。
「やーめーろっ」
イェオリは顔を顰めて、手を振った。
幾つかが俺に当たったが、多分わざとだ。
「汚いな」
俺は何とか身体を起こして、ヴィゴを睨んだ。
が、直ぐに止めた。
と言うよりは、血の気が下がり、視界が歪んで焦点が合わなくなったのだが。
「あぁ……」
俺は呻いて、背もたれに身体を預ける。頭が勝手に揺れて、目が回る。
「相当絞られたな」
イェオリが種を叩き落としながら、喉を鳴らす。
「やだえっち」
はしゃぐヴィゴに、また溜息が零れた。
出来るなら直ぐにでも部屋に戻りたい。今なら秒で落ちる自信がある。それが出来ずにいるのは、このまま立ち上がると醜態を晒しそうだったからに他ならない。倒れようもんなら、ヴィゴに指を刺されて笑われる。それだけならまだしも、ヤツの事だ。延々と酒の肴にしかねない。
欲望と絶望の間で、俺は後悔を口にする。
「相当疲れてたんだろ。無理させた」
正直、そういう表現が正しいのかは分からない。それは医師から俺が彼で、彼が俺だと聞いてから続く違和感で、俺自身が困惑するのだから、他者からすれば相当おかしな状況だとは思うのだが。
とにかく、今回の軍行で状況判断を誤った自覚はある。強行軍で隊が潰れなかったのは本当に幸運だった。
「何だよ、また寝てなかったのか?」
顔を顰めるヴィゴに、俺はまた眉根を寄せる羽目になった。
「分からない」
俺が眠れば上官が眠るとは限らない。それは正に今、上官は眠っているが、俺が起きている状態にあることからも分かる。ただ、この異常な疲労感と、乾く様な飢えは、明らかな異変の表れに違いなかった。
「まぁ、あれじゃ無理だろうな」
弱る俺の脇で、イェオリが肩を竦める。
元より神経質な上官が、野晒しの状態で気を休められる筈もない。分かっていた事だが、ヤツの言葉が胸に来る。
「……」
眩暈に、吐き気までする。
「飯は?」
「いつも通り」
食べていない、と言うまでもない。
ヴィゴは酒を呷り、今度はイェオリが少し顔を顰めた。
「吸えてないんだろ?」
何が、と言わないところがイェオリらしい。俺は目を眇めて、ヤツの緑眼を見る。
「俺は准将じゃないからな」
その目がどれ程物言うのか理解していないらしい。イェオリの緑に怒りが滲むのを見ながら、俺の血圧も上昇し始める。
軋んだ空気を察したのか、
「エリゼオちゃんは吐き出すばっかじゃなくて、しっかり食べる練習もしまちょうね」
ヴィゴが茶けた。
「言われなくても出来るならやってる」
怒りに理性が飛びそうだった。
誰も彼もが俺の中に上官を求める。口にせずとも、彼らの目が俺は邪魔者だ、と言って憚らない。
―――では俺は?
思うと同時に、目の前に置かれた背の低いテーブルを蹴飛ばしていた。けたたましい音と共に、並べられた料理が床を汚す。
「お前……」
鼻筋に皺を寄せるイェオリに、俺も眉根を寄せる。
そんな目で見るな。
ウルサイ。
うるさい。
「煩い!」
俺は吼えて、今度は腰かけていた木椅子を投げ飛ばした。それは身を縮めた黒騎士の頭上を過ぎ、別のテーブルを吹き飛ばす。
「そんなに大事ならお前が護ればよかっただろ!」
分からない。
なぜだか目頭が酷く熱かった。
「イェオリ止めろ!」
ヴィゴが叫ぶ。
同時に、
「っ」
俺は床に押し倒され、強かに後頭部を打ち付ける。
一瞬。
それは本当に一瞬だった様に思う。
圧しかかられた俺は抵抗もできないまま、軍衣の襟を取られる。
「野良犬風情が吼えるなっ!」
イェオリは牙を剥き、交差させた腕に力を込めた。引き絞られる布地は悲鳴を上げ、
「っ、あっ……」
俺も息苦しさに悶えた。
「はっ、な……せぇっ」
肩口を膝で押え込まれ、上がらなくなった腕でヤツの大腿部に爪を立てた。力を籠め、身を捩るが逃れられない。
「止めろ、イェオリ」
ヴィゴがヤツの肩を叩いたが、一向に力は弱まらなかった。
そんなに憎いのか。
緑眼に映った上官が顔を顰める。その目元から雫が流れ、頬を伝い、髪を、そして耳を濡らした。
「おい、殺す気かっ」
そこで俺の意識は飛んだ。




