第8話 要塞都市アルゴ(5)貴族の心情
「お見えですよ?」
妻の声に、アラヤは口にしていた酒を置く。何時間と待たされはしたが、もう来たのか、と言うのが正直な感想だった。
溜息をつき、広間の入り口を見る。丁度、釣り目の、如何にも、という風貌の男が大きな扉を潜ったところだった。彼は甲冑こそ身に着けてはいないが、広間に溢れる黒騎士と呼ばれるモノ達同様、黒い軍服に威厳を忍ばせ、アルゴを護る民兵とは別格の、威圧感とも呼べる雰囲気を放っていた。
アラヤは身を正し、別段崩れてはいないが胸元の布を引っ張り、衣服を整える。
周囲のモノ達は構える必要性など全くない、と言うが、彼は黒騎士師団の訪町が決まってから、一時も気を緩めることが出来ずにいた。それは妻が気を揉む程の異常事態だったのだが、彼の心中を察すると仕方のないことだったのかもしれない。
彼、アラヤが都から落ち、アルゴへ流れ着いたのは数十年前。黒騎士によるアルゴ開城騒動から数年経った日の事だった。
彼がまだ都の端に小さな屋敷を持ち、辛うじてその体裁を保っていた時分、中央のモノ達との繋がりは希薄で、豪商以下の地位でしかなかったのは悲しい事実だ。そうなったのは、先々代の祖父が突如頭角を現した現総司祭長を嫌った為だ、と言われている。それでも、その時、その身は確かに貴族であった。
しかし、ある時、彼は身に覚えのない嫌疑をかけられる。疑いは直ぐに晴れたものの、それが城内の調度品窃盗という大変不名誉な罪であったこともあり、貴族は勿論の事、大変繋がりの深かった領民でさえもが、彼は見栄っ張りで、身の丈に不釣り合いな生活を維持する為に今でも盗賊まがいの事を続けているらしい、と後ろ指を指した。あるモノは、罪を逃れたのも、そもそも賄賂を使った不正であった、と訴えた。
屋敷には連日、石やごみが投げ込まれた。彼らは必死に耐え忍んだが、遂には火が投げ込まれる事態にまで発展する。幾人かの貴族が哀れに思って彼らを陰ながら擁護しはしたが、最早焼け石に水。彼の信用は地の底で、ひっそりと息を殺して生活する事すらも許しては貰えなかった。居場所を失った彼は妻を連れ、泣く泣く都を後にする。
冷静になった今ならば、あの時、政権の中枢で権力争いが激化しており、末端ではあったが、アラヤもその波に巻き込まれたのだろう、と推察できた。上手く立ち回れていれば、汚名を返上し、今頃は都で更に裕福な暮らしを望めていたかもしれない。
しかし、彼に政界を渡り歩く様な器用な真似はできなかったし、何より先祖の事を思えばそういった発想さえ浮かばなかったのは当然の事とも言えた。
兎にも角にも、所謂“都”と呼ばれるリトラ国第一領を出る際、貴族の地位を捨てなければならなかったアラヤだが、まだ本国に残る手段は残されていた。それは城壁の外、通称、壁と呼ばれる黒騎士師団を有する領地、第三領へ移住するというものだった。
しかし、アラヤはその選択肢をあっさり捨て、庇護のない過酷な旅路を選択する。それは第三領がニンゲンの住める場所ではない、と知っていたに他ならない。
アルゴの民は知らないのだ。彼らの本性を。
脂汗を流すアラヤの目線の先で、大柄の男は少し視線を動かす。その弁柄が広間全体を見渡し、黒騎士の幾人かと目配せを交わしたのが見えた。客人として迎えられようと、決して警戒は怠らないらしい。
町の若い娘が酒の入った杯を差し出すが、彼は断る。その身のこなしは威厳に溢れ、流石は騎士団を率いる男だ、と思わせた。
しかし、それも所詮は上辺に過ぎないのだろう、とアラヤは思う。皮をはげば、権力者など所詮同じ穴のムジナ。遅れた原因も、女か何かを引っ張り込んでお忙しかったに違いないのだ。
アラヤは考えを巡らせながらも、決して表情は崩さなかった。それは客人のご機嫌を損ねることが決して得策ではない、と理解していた為だが、動揺せず振舞えたのは、そういった人種を事前に知っていたからに他ならない。特に高い位を持つモノ程、色に狂うのだ。
「はぁ……」
町長が静かに溜息を吐くと、傍らで妻レアが不思議そうな顔をした。




