第7話 要塞都市アルゴ(4)つぶす
「……で?」
テルセロは無情にも追い詰められていた。それは身体的にも、精神的にも。
「あ、うぅ……。ちゃんと、ちゃんと起こしたんですぅ」
広間の一角。沢山の料理と、沢山の椅子が準備され、招かれた黒騎士達が騒ぐ中。これ以上身を退けない場所へ追いやられ、半分泣きべそをかいているのは、詰め寄る少女が今にも飛び掛かってきそうだったから。彼女の体が己の半分しかなかったとしても、それが猛獣ならば話は別だ。睨まれれば身体も竦む。
「なんでちゃんと連れてこないんじゃっ! それではわざわざ起こしに行った意味がないではないかっ!」
「でもぉ、でもぉっ」
見たくなかったんです、とは、とても言えなかった。
テルセロが少女に追い立てられ、上官の許へ行ったのが半刻前。あの時、起床を確認した筈だった。
しかし、待てど暮らせど、彼らは広間に姿を現さない。最初の内は直ぐに来ますよ、と胸を張っていたテルセロも、やがて苦しく言い訳するだけになる。
周りを囲む黒騎士達にすれば、騒げる時間が増えるだけなので、上官が遅れようが何の文句もなかった。だから仕方がない、と笑って済ませる。彼らにとっては酒を飲み、上手い飯を食い、久しぶりに見る仲間以外の尻を追い回す方が重要だった。
ただ、トゥーレッカだけは別で、怒れる獣の様に毛を逆立て、牙を剥く。傍から見れば愛らしくもある姿だが、矛先を向けられた方は堪らない。
「あぁー。助けてアッシィー」
テルセロは助けを乞い、赤髪の相棒に手を伸ばした。
が、
「アッシは関係ないじゃろっ!」
直ぐに、その手を少女に叩き落とされた。
仕方なく口を引き絞り、潤んだ目を相棒に向ける。
しかし、無言の救難信号を受ける男は憐れむ様な視線を返すだけで、動かない。肩を竦めて、首を振るだけ。巻き込まれるのは勘弁、と言うことらしい。
テルセロは堪らず、
「俺は悪くないぃー!」
叫んだ。
同時だった。
広間がざわつく。
それは決してテルセロの悲痛な叫びに驚いたからではない。現に彼の声は案外と、控えめだった。
「やっとお出ましだぞ、トゥ―リー」
じゃれ合う彼女達に声を掛けたのはイェオリ。彼は相変わらず締まりのない態度で、広間の入り口を指す。トゥーレッカは、やっとか、と泣きべその黒騎士から目を離した。
その隙に、
「ほれ、行け」
イェオリは隅に追いやられたテルセロの尻を叩いた。慌てて逃げる彼の背を見送りながら、笑って、手にした酒瓶を振る。
「あ、こらっ」
気づいた少女が唸るが、気にしない。いつもの事だ。
「ほら、行ってやんねぇと」
イェオリが眠たそうな表情で笑うと、トゥーレッカがこれでもか、と彼を睨んだ。
しかし、少女は口を思いっきり引き絞るだけで、テルセロの時の様に噛みついたりはしなかった。その目は十分に怒りを物語るが、直ぐに矛は治められる。
彼女の目的は別にあるのだ。
イェオリは感情を吐き出せず、むくれる少女を見下ろし笑った。彼女はどこか、昔の彼を思い起こさせる。生意気で、酷く幼かった彼を。
「……」
不意に、黒騎士の胸の内で悪戯心が頭を擡げた。
薄く笑うと、
「な、なんじゃ……」
トゥーレッカが何かを察し、身を退く。
しかしイェオリはそれを許さず、彼女の襟首を引っ掴んで引き寄せた。
「ひっ、ぅあっ!」
悲鳴を上げる彼女を他所に、イェオリは少女を高く持ち上げる。
「やっ、やめんかっ!」
入口に引き付けられていたモノ達は、まるで親子の様にじゃれ合う彼らに気づき、笑った。イェオリは昔、彼に出来なかったことを彼女で発散する。
「おっ、下ろせっ!」
気恥ずかしさに顔を真っ赤に染め、トゥーレッカは怒った。力の限り手足をばたつかせるが、無駄な抵抗に終わる。なんならその姿がはしゃぐ子供の様に見えたのだから、最早恥の上塗りだ。
イェオリは構わず彼女を抱き寄せ、
「連れて行ってやろうか?」
小さな頭に顎を乗せ、喉を鳴らした。感じる愛おしさに、思わず黒と茶の、美しく編まれた髪に唇を落とした。
「やーめーんーかっ!」
トゥーレッカは耳まで真っ赤にして、細い腕で突っ張る。突如暴挙に出た黒騎士と何とか距離を取ろうとしたが、とても敵わない。
「うぅううっ!」
歯を剥き、唸ったが、男は目を細めるだけ。上目に睨む彼女は、イェオリにとっては愛らしい仔でしかなかった。彼は彼女の額にかかった髪を指で掬う。
狭いそこに顔を寄せたところで、
「……」
腕を掴まれた。
見れば、トゥーレッカの臣子が鼻筋に皺を寄せ立っていた。茶色の目に、どこぞの男を思わせる色を乗せ、その心情を物語る。
「……」
それがまた加虐心を煽った。
イェオリは口角を上げ、トゥーレッカを抱いたまま、なぜそんなことをされるのか分からない、と惚けた顔で返す。
「……」
「……」
無言で見つめ合うこと数秒。
「痛い、痛い……」
ぎりぎり、と力を籠められ、イェオリは堪らず身体を捩った。揶揄が過ぎたようだ。
怒れる下官の反逆に、
「ごめ、ごめんて。離す、離すから」
身体を傾けたまま諸手を上げる。
トゥーレッカはふざけた男の足を思い切り蹴飛ばして、直ぐに臣子の背後に逃げ込んだ。
「おっ、遅いぞ、ジオンっ!」
少女は臣子の脚に縋りつき、フーフー、と、イェオリに向けて牙を剥く。
「主の危機には颯爽と駆けつけんかっ!」
「遊んでる、だけか、と、思った」
「アレのどこが遊びじゃっ! 危うく食われるところじゃった!」
「ごめ」
ジオンは己に隠れ叫び続ける主を優しく抱え、護りながら、随分と目上の上官を睨む。その手は憎い男の腕を掴んだまま。
「そろそろ離して……」
彼は大人しく項垂れてはいるが、真正面からぶつかれば負ける筈はない、と分かっているのだ。ジオンはどうにか報復を、と考えるが諦めた。余りにも分が悪い。やるなら得意分野へ持ち込まなくては。
「行こ、中尉」
ジオンは掴んでいたイェオリの腕を離し、己の上官の背を押す。
トゥーレッカは何か言いたそうな顔をしたが、くるり、と踵を返し、彼女なりの大股で入り口を目指し歩き始めた。その途中、何度か振り向いては背の高い黒騎士に歯を剥いたりしたが、それもご愛嬌。子供の様な、小さな彼女の微笑ましい姿にイェオリがまた笑う。
その背後で、
「お前、勇気あんなぁ」
楽しそうな声が上がった。
イェオリは口角を上げ、振り返る。
「可愛いだろ? トゥーレッカ」
「どこが。悪趣味なんだよ」
言葉を受ける男が、彼に良く似合う炎色の目を微かに細めた。大きな椅子に深く腰を下ろし、酒を煽る。脇を臣子に固められたその姿はさながら野盗の頭だ。
そうは思うが口にはしない。
名は騎士でも、黒騎士の誰もが似た様なモノばかりだった。それは自身も然り。
イェオリは自嘲して、目を伏せる。
「何だよ?」
ヴィゴは目の前で困った様に笑う男を見上げ、首を傾げた。
彼は時折こういう微妙な表情を浮かべる。それは悲しい様な、何かを悔いる様な顔。ヴィゴに心を読む能力などはないが、こういう時はなぜだか、彼が酷く痛がっている様に見えた。
「また余計な事考えてんだろ?」
酒瓶から口を離すと、物憂げな騎士の緑眼とぶつかった。
「いや」
イェオリは緩く首を振って、先程まで座っていた椅子に再び腰かけた。
直ぐに、ヴィゴの臣子の手によって、新しい料理と酒が運ばれてくる。それに苦笑いして、目の前に座る男を見る。
「お前とおんなじ。暇なだけ」
椅子に身体を預け、背もたれに腕を広げた。仰け反ると、町の娘の幾人かと目が合う。イェオリは陰鬱な表情をさらり、と隠し、彼女達に笑顔で手を振る。
年若い彼女達は頬を染めたり、黄色い声を上げたりと忙しない。騎士、と言うよりも、町人とは毛色の違う男達が物珍しいのか。彼女達は勿論のことながら、町全体が幾分浮ついている様に見えた。
娘の一人が気恥ずかしさを隠しながら、おずおず、と黒騎士に手を振り返す。イェオリは優しく微笑んで、それに応える。
「可愛いねぇ」
これで寒い夜は遠のいた。
イェオリが喉を鳴らすと、ヴィゴが鼻を鳴らす。
「お前、いつか刺されるぞ」
「本望だ」
「くだらねぇ」
「いんだよ、どうせ暇つぶしだ」
これが本音だから質が悪い。
ヴィゴは微かに肩を竦めて、静かに溜息を零す。
「女は後にしろよ。先ずは大事な弟様にご挨拶差し上げないと」
その言葉に、イェオリは顔を上げ、顰め面を作った。そこに先程女性に向けた面影など、一つもない。
「誰が弟様だよ。他の男に懐いたヤツなんか知らん」
「何だよ、焼きもちか? 可愛いとこあるなぁ」
「煩い」
「怒るなって。遅れた理由、根掘り葉掘り聞き出すだけだって」
「めんどくせぇ」
「お前、何の為に何時間も待ったんだ、っての」
「物色」
「色情魔」
大きな黒目に笑みを湛え、ヴィゴは酒を呷った。
イェオリは眉間に皺を寄せたままだったが、その表情はどこか穏やかに見える。
「付き合えよ。退屈凌ぎにゃもってこいだ」
広間は騒めきで満ちる。
遠くで娘が笑い、食器が鳴った。掻き鳴らされる音楽はどこか儚く、静かに響き、アルゴに再び昔の活気を呼び起こす。
じゃれ合う男達の脇で、間一髪、救われたテルセロは赤髪の相棒を蹴飛ばしたが、誰も彼らを見てはいなかった。




