8 公爵令嬢はしごかれ体質?
イヴンリッドは焦ったように目を走らせた。
厚手のカーテンから溢れる陽射しはすでに明るい。
寝過ごした!
いつも感じる早朝の気配ではないことを肌が感じ取ったのはいいが、それならもっと早く感づいて欲しかったと、自分の肌に文句を言う。
急いでクローゼットを開ける。
そこには目当てのものはなく、煌びやかな正装用のものが掛かっていることに愕然とする。
昨日調印式の終わった足で実家に帰って来たことをようやく思い出した。
そして、いつも人も起きない早朝から訓練しているから、シャツとズボンという軽装で城に戻っても、見られることはないだろうと軽い気持ちでいた。もちろん城門を守っている衛兵には見られるが同僚のようなものだから気兼ねはない。
余裕綽々で構えていたのが仇になった。
まさか、自分が寝過ごすなど、ほんのちょっとも考えなかった。
どうするんだ、これ。
正装で戻れば、この時間人目を引くのは明らかだ。
マントを来ても、怪しいと見られる。
手の打ちようがない。
イヴンリッドは思わず髪を掻き毟りそうになって、髪に触れたところで思い留まる。
髪を乱したら余計に時間を取られる。
そう、もう悩んでいる時間さえないのだと気付く。
仕方がない。
予定通りに軽装に着替える。
髪はいつも自分で結っているので、あっと言う間に仕上がる。
あとはもう顔を洗うだけでいいにしよう。
昨夜も侍女たちが念入りに舞踏会用の化粧を落とした後、これまた念入りに肌を整えてくれた。一日ぐらい大丈夫だろう。
イヴンリッドは近衛騎士に任命されてから、初めての大遅刻に動転していて、どのみち遅刻に変わりはないのだから、化粧をするぐらいの時間遅れても大差がないことに思い至っていない。
アルマーシェ付きの騎士としては、たとえ一分一秒だろうと、主の側にいないなど考えられないようだ。
それにしても、仕事にのめり過ぎて、自分を二の次にし過ぎていることに気付いて、その考えを改めようと決意したことも、この思い掛けない大事件の前にすっかり頭から抜け落ちている始末だ。
儀礼でも必ず帯びている二本の剣を腰に、部屋を飛び出すと、その慌てっぷりに驚いた顔の侍女と出くわす。
「おはようございます。すぐにご朝食の用意をして来ます」
「時間がないからいい」
イヴンリッドの慌てっぷりが移って、急いで階段に走ろうとする侍女を止めると、彼女は首を捻りながら振り返った。
「今日は一日お屋敷にいらっしゃるとお聞きしておりましたが、ご予定がございましたか」
「え、ちょっと待って、確認」
イヴンリッドは父の執務室に足を向けようとして思い留まる。
「お父さまはもう出掛けられた……わよね?」
「はい」
お礼を言って、イヴンリッドは敷地内にもう一棟あるこじんまりとした離れに、家族と滞在している兄に事情を聞こうと玄関に向かう。
「おはようございます。イヴンリッドさま」
階段を下りたところで、執事のガニャックに出会った。
柔和な顔立ちでいつもにこにこしている。叱りつけているときすら、笑顔を絶やさないのだが、目が怪しい光を放っていていて、とても恐ろしい。使用人だけでなく、主家族にすらその武器を行使する強者だ。
そういう人物でなければ、ウィンストール家の執事は勤まらないだろう。
少し出っ張っているお腹は愛嬌があるが、そこになにが蓄えられているのか、その贅肉が自分たちと同じ色、同じ素材で出来ているとは誰一人として思ったことがいない。そう、絶対色は真っ黒クロに違いない。全員一致の見解だ。
「お父さまから、わたしの今日の予定を聞いている?」
「はい」当然ですと、ガニャックは頷く。
「本日は屋敷で休ませると聞いております。ご朝食はいかがなされますか。時間が時間ですので、スープのような軽いものになさいますか?」
もう二時間もすれば昼食の時間と聞けば、不要と返す。
母たちがいるというサロンに足を向ける。
「なに、その格好は」
扉を開ければ、案の定の反応が返って来た。
「今日、休みになっていることを知らなかったから、泡食って登城しようとしたのよ」
イヴンリッドは事情を説明する。
「帰りの馬車に乗り込むやぐてっと倒れるから、お父さまにお願いしたのよ」
「お母さまでしたか」
イヴンリッドは余計に疲れた気がした。それならそうと、一言声を掛けて欲しかった。
「お姉さま。今日は予定もないのでしょう」
「まあ、そうね。一緒に部屋の片付け手伝ってくれる?」
「なんでそうなるのよー」
むくれるローゼリッテで心を癒して、イヴンリッドはようやく妹の横に座る。
「昨日はどうだったの?」
「それはあなたの方よ。驚いたわ。イシュトが本当はあんな綺麗な髪の色をしていたなんて。それに正装させたら、あんなに男前になるんだもの。お父さまもあの子たちも、あなたに近付けなかったわけよね」
「お母さまも屋敷に出入りしてたのは知ってたのね」
「わたしだって詳しくは知らないわよ。今朝になってやっと、お父さまとシュワルツに問い質して聞いたのだもの」
「それでお姉さまはどうなの?」
「どうって、そういう人ではないわよ。従兄弟なんだし」
体ごと姉に向いて、きらきらと目を輝かせるローゼリッテに、イヴンリッドはあっけらかんとして答える。
「あら。聞いていないの。イシュトの家族が亡くって、サムケット伯爵家が引き取ったそうなのよ。だから、わたしたちとは形式上縁続きでも、血は繋がってないのよ」
「それは聞いてるけど……え、そのつもりだったの?」
イヴンリッドは目を丸くする。
「そのつもりがあったから会わせたんじゃないの?」
「お父さまは縁談はすべて断わっているって」
「お父さまのお考えを知らなかったシュワルツが計画してたことよ。アズウェルも知らなかったようで、すごい剣幕で怒ってたわ」
そう言えば、シュワルツが昨日の朝の訓練の際、なにか深刻な顔で父に確かめないといけないとかなんとか言っていたのを、イヴンリッドは思い出した。
「お父さまの反応は?」
「お父さまはあなたが自由に決めればいいと言っていたんでしょう。計画したのはシュワルツでも、特になにも怒ったり、反対したりしていなかったから、あなたたち次第ってことなんじゃないの?」
「初めて会ったにしてはすっごく楽しそうだったじゃない」
ませたことを口にするローゼリッテに、イヴンリッドはぎょっとした目を向ける。
「あんなに怖がってたのに……ねえ」
母にまで言われて、イヴンリッドはすぐさま登城したくなった。
だがしかし、登城すればアズウェルが仕事もほっぽり出して会いに、いや、問い詰めに来るのは必至。アルマーシェもきっと根掘り葉掘り聞くだろう。アルマーシェだけではない。彼女付きの二人の侍女もだ。
逃げ場がない。
イヴンリッドはたらりと頬に汗を垂らす。
「向こうも踊り慣れていないと言うし、間違えたらお互いさまだって言ってくれたから、安心していただけで」
「それでも続けて二曲踊ったでしょう。他の方は一曲でお断りしていたのに」
いつから、何処から観察してたんですか、とイヴンリッドは叫びそうになったところを、ぐっと堪える。
「最初がスローな曲だったから間違えようがないじゃない。ほら、わたし、ダンスなんて誘われないと思ってたから、練習なんてしてなかったのよ。つまり、二年間練習しないままだったわけ。だから間違えたらお互いさまって言ってくれる相手に、練習って言うか、ステップを確認させてってお願いしたのよ。向こうはわたしがお祖父さまやお祖母さまにしこたましごかれてた姿見てるから、お兄さまたちに手解きして貰うぐらいの感覚で頼んだだけで。だからそういう風に全然接してなかったし、向こうだってそんな様子は全くなかったのよ」
母と妹はほんのちょっとの期待さえ打ち砕かれて、げんなりと肩を落とすのだった。
イヴンリッドに脈がないことは見ていれば明らかだったのだ。
気に入った相手に肩肘張らず接するなどという芸当はイヴンリッドには出来ないのだから。
表情や動作に必ず動揺が表れるはずだとつついてみても、そのような気配は本人の言うように全く見えない。
「お父さまには明日からこちらで過ごさせるように頼んでおいたわ」
娘から期待した反応は得られないと分かると、ジュディエーヌはさっさと話題を切り替えた。
「承諾なさったのですか」
「もちろんよ。わたしだってやるときにはやるのよ」
今まで異議の一つも言わなかった人間が、突如として反旗を翻したら、あの父をも恐れさせたに違いない。
それともこれは母の計算だろうか。
だとすれば恐るべしと、イヴンリッドは密かに敵に回したくない人間の頂点に据えるのだった。
「今日はもう登城することはないのだから着替えて来なさい」
母には逆らうべからずと、イヴンリッドはすぐに部屋に戻ることにした。
外に出てもいいようなワンピースに着替え、侍女の手を借りて化粧と髪型を整えて貰う。
耳と首にも当然のように飾りをつけられた。
「半年振りだわね」
イヴンリッドはスカートの裾を片手で摘んでひらひらと振る。
限られた事情でもない限り、娘らしい格好をしたことがないイヴンリッドは、いつもこうして鏡の中の自分を不思議そうに見つめて、同じ台詞を吐くので、侍女たちはくすりと苦笑する。
「フェルデニムには侍女として行かれるとか」
「そうなのよ」
イヴンリッドはくるりと椅子ごと、侍女を振り返る。
「私もアルマーシェさまにお化粧やら髪型を整えて差し上げなくてはならないのよね」
向こうでは侍女服が日常になるのだと気付いて、イヴンリッドは頭を抱えた。
今まで人に淹れたこともないお茶をアルマーシェに出さなければならい。それだけではない。アルマーシェの元に来た客人にもだ。
剣でさえ未だに兄たちに敵わないというのに、果たしてたったひと月で身につくのか。
イヴンリッドは遠くへ目を飛ばした。
その目には今度は日々母にしごかれる自分の姿があった。
人生最後に残るのは『根性』だけだろうとしみじみと思い、イヴンリッドは一人黄昏た。
ありがとうございました