3 王女の婚約
「お父さまから聞いたけれど、今日はとうとう近衛を外れるのですってね」
侍女たちを下がらせて、アルマーシェは向かいのソファに珍しくイヴンリッドを座らせた。近衛であるイヴンリッドは、主の部屋においては、扉の側に置いてある肘掛もない、クッションも薄い椅子に座っているのが仕事だ。
本当に今日は異例続きだ。
理由は思い当たらないではないのだが。
「令嬢として出なければならない意味が分かりません。近衛であっても挨拶はしているのですから十分では」
イヴンリッドの言う挨拶とは、相手目を合わせて礼を交わして終わりだ。会話を続けたそうな相手には、仕事中だとすげなく断っている。
「あなたも公爵令嬢なら、挨拶にもなっていないことぐらい分かるでしょう」
「ウィンスレット家と縁を持ちたいだけの相手に興味はないですし。だったら、最初から一生アルマーシェさまにお仕えするつもりだと、意思表示しておいた方がいいじゃないですか」
アルマーシェは肘掛けに肘をついて、こめかみを押さえて、ほうっと嘆息する。
「家もチラついていることは確かでしょうけど、単純にあなたに興味があるから声を掛けて来てるのよ」
「今朝、兄にも言われましたが、いまひとつ信用出来ないんですが」
「あの二人の言うことなんて信用するもんじゃないわ。妹に妙な虫が付かないように、あなたが家目当てだと思い込んでいるのをいいことに、あなた自身と踊りたいと思っている子息たちがどれだけいるのか、それだけあなたに魅力があるんだってことも含めて、黙っているような人たちなんだから」
アルマーシェは思考の追いついていないイヴンリッドにトドメを刺す。
「『舞踏会には出るな』って言われたアレだって、妹可愛さから出た、単なるシスコン発言なんだから」
「アルマーシェさまも、どうして今日に限って」
「わたしはいつも言ってたはずよ。『舞踏会には令嬢として出なさい』って」
「その話ではなくて」
「あの二人のこと?」
「ダンスの申し込みの件」
「言ったわよ。『自分に魅力があるんだって自覚しなさい』って。嘘だと思って聞き流してたんでしょう」
イヴンリッドは頭から舞踏会には令嬢としては出ないと決めつけていたから、耳に入れてこなかったかもしれない。聞いていても嘘八百だと信じて疑いもしなかっただろう。
思えば、国王命令さえ聞きつけなかったのだ。
自分の思い込みの激しさに、イヴンリッドは今更ながらに青くなった。
「アルマーシェさま、ほんとうに申し訳ありませんでした」
イヴンリッドは膝に額がつくほどに頭を落とした。
「え、なに、ちょっと、なんなのいきなり」
「主の言葉を信用しないなど、臣下にあるまじき無礼でした」
「あなたにとってわたしは主ではなかったというわけね。ただの護衛対象? それもつまらないわね」
「アルマーシェさまはわたしの主ですし、命を懸けてお守りしたい大事なお方です」
「最後の一言で十分だわ」
その言葉で決着を付けようと、アルマーシェは言う。
一時は幼心に急な立場関係の変化に戸惑ったりもしたが、イヴンリッドはイヴンリッドのままなのだと分かってきた。
アルマーシェは目上でも目下でも、正しく役目を行っているものを卑下するのは、王女として看過出来ない性格だった。
陰口など聞こえた日には雷を落とす。
黙って見過ごすことなんて出来ない。
成人してもしていない身でもだ。
成人するまでは近衛騎士隊の誰かが交代で、成人してからはイヴンリッドが常に後ろにいた。
近衛がいるからいい気になってと、更に悪評が高まる。
国を貶める言動を慎めとも言う。
イヴンリッドも他の騎士同様、『それはあなたがたの素行の方でしょう』と、ウィンスレット家の血筋らしく、時には自分相手でも容赦はないのだが、そう自分は間違ったことは言ってないと示してくれるのは、じつは嬉しいことだった。
親兄弟は甘やかして言うから意味がないと思っている。
他の近衛騎士も主だからと、こちらを立てるだろう。
イヴンリッドの言葉だけはそのままに受け止められるのだ。幼い頃からの付き合いだろうか。友人として居た時にも、近衛という立場にあっても、王女としてではなく、アルマーシェ自身と接してくれているのだと気付いたのはいつ頃だったろう。
年を重ねれば、イヴンリッドが態度を改めざるを得ない状況にあったことも理解出来る。
すべてはそれを謀った父と宰相が悪いのだとも承知している。
それなのに、急に素直にもなれず、結局以前のままイヴンリッドに当たる真似を繰り返してしまう。
それでも笑って受け流して側にいてくれるイヴンリッドに甘えていたのだ。
「まだお側にいても」
「フェルデニウムに慣れるまでは、ね」
成人した者として、アルマーシェは自分の願いを押し付けてはならないと、懸命に感情を押さえ込んで言った。なのに。
「父に確認したら、あちらで結婚相手を見付けても構わないと言ってました」
「……」
アルマーシェは目耳に水で、目をまん丸くして、それから眉をひそめた。
「宰相殿がほんとうに?」
「ええ。わたしもその方がいいかとも思っているんですが。家から離れて考えられるのなら、気も楽ですしね」
「ほんとうにその方があなたにとっていいって、ほんとうに思ってるの? 家のための結婚をって言ってたじゃない」
「国内ではです。でも、父が向こうでも良いと言っているなら、向こうで探すのも悪くはないと思うんです」
「あなたがそう思っているのなら、わたしも…… いえ、いいんだけれど」
『嬉しい』と言いそうになって、焦ってアルマーシェは取り繕う。
正直心は浮かれて飛び跳ねていた。
イヴンリッドが一緒にフェルデニウム王国に根を下ろしてくれるなら、こんなに心強いことはない。
アルマーシェにとってイヴンリッドは、生きるお手本であり目標でもあった。
『才色兼備』という言葉ほどイヴンリッドを形容するのに相応しい言葉はない。
ウィンスレット家の娘として学もあり、礼儀作法も素晴らしい。
その上、小顔で美しく、訓練しているから胸も女性が憧れるほどの見映え良く、腰もくびれているし、お尻も可愛くキュッと上がっている。
女の武器のように見せびらかすような女性ではないから、男性にも女性にも好かれているのだ。
本人が気付いていないだけなのだが。
じつは令嬢の中でも、騎士服のイヴンリッドに熱を上げている一団さえあるのだ。
「今夜はあなたが出席するとなれば、最高に盛り上がりそうね」
イヴンリッドを取り合う子息たちの画が、アルマーシェの脳裏で繰り広げられる。
「今夜は婚約発表のための舞踏会ですよ、アルマーシェさま」
「……わたしはもう決まってるんだもの。つまらないわ」
アルマーシェは途端にげんなりと力を落として、背もたれにしなだれ掛かる。
同盟のための結婚であるから、王子が到着して落ち着いてから、互いの国の要望を渡し、渡された内容に間違いはないか確認して調印する。
それで婚約が正式に決まる。
婚約については、アルマーシェが生まれた時に、フェルデニウム王国にもちょうど五歳になる王子がいたことから、国王の間でゆくゆくはと決めていたことだった。
フェルデニウム王国の王子一行は予定通り、太陽が中心から傾いた頃に城に到着した。
前を守っていた騎馬兵に二十騎余りが通り過ぎ、玄関先に王子の馬が差し掛かったところで、「停止」という騎馬隊隊長の声によって、息もぴったりに停止した。
騎馬隊の馬と違い、豪奢な正装をさせられた馬から、外套をはためかせて主が下り立った。
すぐに着ていた外套と帽子を外すと、ささっと現れた男がそれを恭しく受け取る。
風になびく黒味がかった茶色の髪はサイドを流し、他は後ろで一つに結わえている。瞳の色も髪と同じ色合いだった。
面長な顔立ちは彫りが深く、神経質そうな印象を与える。
背も高く、すらりとしていて、立ち居振る舞いも洗練されていた。
「ようこそおいでくださった。国王のルファス・リグセン・マスカーナだ」
「国王陛下自らのお出迎え痛み入ります。フェルデニウム王国第二王子クストディオ・アルム・フェルデニウムです。父の代理として同盟の調印に参りました」
ルファス国王の差し出した手をしっかりとクストディオが握り返した。
国王が迎えるように体を開くと、クストディオは玄関に並んだ貴人たちに、胸に手を当て一礼をした。
「丁重なお出迎え感謝致します。この日を無事に迎えられ喜ばしく思っております」
それに対して、マスカーナ王国王妃を始めとした王族と、近衛騎士隊の主だった面々が一斉に返礼する。
「皆の紹介はまた後ほどにしよう。ひとまずは部屋でお休みください」
「お心遣い有難く頂戴しますが、もし予定に変更がないようでしたら、みなさまをお待たせするのは忍びないので、このままで如何でしょうか」
「こちらは一向に構いませんが、一仕事終えてからの方が休めますな」
ルファス国王は頷いて、クストディオを城内にある神殿へと案内した。
都市にある教会に比べれば小ぶりな建物だが、王城にあるだけあって、石造りの外装や内装には細かい装飾が施されている。
教会内部の部屋に入る扉も厚みのある艶やかな木製の扉。中に入ると床は白い大理石が敷き詰められ、左右に等間隔に並ぶ椅子も扉と同じ材質の物が使われているようだった。
マスカーナ王国の王族と側仕えの近衛騎士が入って右手側の椅子に、クストディオについて来た外交官と近衛隊らしき騎士数名が左手側に就いた。
ルファス国王とクストディオが正面の、数段高くなった床に置かれた調印式用に用意された長方形の机に、参列者に向くような形で立った。
「それではフェルデニウム王国とマスカーナ王国の同盟のための調印式を始めます」
開会を宣言したのはマスカーナ王国宰相パトリスだった。
その言葉を合図に、パトリスがクストディオにビロード張りの証書を渡し、ルファス国王にはフェルデニウム王国の外交官が同じ色の証書を恭しく差し出した。
ルファス国王とクストディオが証書に書かれた条項の内容をもう一度確認する。
それはアルマーシェが十六歳の誕生日を迎える一年前から、両国間で何度も外交官を行き来させて調整して来た内容だ。
この土壇場になって内容が書き換えられている可能性も無きにしも非ずで、サインしてから気付いたのでは遅いから、間違いがないか慎重を期しているのだ。
その様子を参列者たちは息を呑んで見守った。
空気がピンと張り詰め、唾を飲み込む音さえ聞こえそうだった。
どのぐらいの間があっただろうか。
両者が顔を見合わせた。
互いに頷くのを見て、一気に空気が和らいだ。
証書にサインが成され、ルファス国王とクストディオの手で証書の交換が行われた。
最後に握手を交わして、同盟の締結が終了した。
「アルマーシェ」
段を下りて来たルファス国王に呼ばれて、端の位置に座っていたアルマーシェが立ち上がり、父の側に歩み寄った。そしてイヴンリッドも呼ばれて、慌てて主の後ろに従う。
「先にも紹介したがアルマーシェだ。どうか、同盟と共に、永きに渡って大切にして貰いたい」
「もちろんです」
クストディオはアルマーシェの前で跪くと彼女の手を取り、その甲に口付けをした。
「よろしくお願いします」
「それから、娘にはこの者を侍女として付き添わせる」
「イヴンリッド・ウィンスレットです。どうぞお見知りおきください」
イヴンリッドは騎士としての礼で挨拶する。
「ウィンスレット……?」
「我が宰相の娘だ」
「そうでしたか。アルマーシェどのも心強い味方が側にいれば、安心して我が元にいらしてください」
「有難うございます」
こうしてルファス国王はしれっとした顔で、イヴンリッドを『侍女』として同行させることを了承させたのだった。近衛騎士の服装であれば、ただの『侍女』としての立場だけでないこと、ウィンスレット家の娘であれば、令嬢としても教養や作法も劣らないことを同時に示唆したのだ。
イヴンリッドも、参列者の中にいるアズウェルも、そしてクストディオもまた、心中で『古狸』とルファス国王を評した。
ありがとうございました