反省会ですが、なにか?
もちろん、靱野が一度首都圏に放った飛蝗術式をそのまま放置するはずもない。
ある程度増殖したところで、大阪や名古屋、九州や北海道などにも飛蝗術式を転移させ、効率的に日本全土のギミック類を使用不可能にしていく。
飛蝗術式には十日ほどで自壊するタイムスイッチが組み込まれていたが、同時に魔力さえあればどこまでも増殖していく旺盛な繁殖力も内在していた。
対して変身ギミック類は、いかに多く散布されていたといっても、しょせんは有限個であり、勝手に増殖はしてくれない。
ギミック類が存在する限り増殖する飛蝗術式に抗する術は、事実上存在しなかった。
ここ一月の準備期間を経て充分な個体数の飛蝗術式を用意した靱野が、敵の意図を完全に挫いた結果となった。
「なんだって、ここまで勤勉なんですか、あの人は!」
どこかで、「大使」がわめいていた。
「このたった一月で、世界中のアジトを一度に百カ所以上も潰して!
おまけに東京の盤面まで簡単にひっくり返してしまった!
再起不能に追い込まれた組織だって少なくはないっていうのに……」
『情報戦をしかけたつもりが、物量戦に持ち込まれたな』
回線越しに、そんな声が聞こえた。
『やつは、われらよりも魔法の扱いに長け、柔軟な判断力を持っている。
おまけに、何十年も戦い続けてきた相手だ。
その経験と判断力とは、決して侮れるものではない』
「……「博士」。
あなた、この結果を読んでいましたね?」
『読むまでもなく、この結果は見えていた。
「大使」よ。
お前とあの男とでは、その目に見えている風景からして違う。
貴様は、場当たり的に対処する術しかしらない。
あの男は、まっすぐに目標を見据えて動いている。
あの男は……「大使」よ。
お前はおろか、われらすべてを敵とは認識していないだろう』
「敵ではない?
それでは、あの男にとってわれらは、いったい何だというのですか?」
『そうだな。
強いていうのなら……本来の目的へむかう途上に立ちふさがる、障害物……といったところか。
われらがあの男のことを考えているほどには、あの男はわれらの存在を気に留めてはいない。
だから……あの男のことは放置しておくことだな。
敬して遠ざけておけば、われらにとってもさほど有害な存在でもない』
「あの人に、無視し、無視されるようになってしまったら……わたしたちは、いったい何なんですか!」
『あの男の存在の有無に関わらず、われらは風変わりな社会不適合者でしかない』
「あなたには悪人なりの矜持というものがないのですか!」
『生まれ育った文化圏の違いか、自己同一性の根拠を倫理観に求めるほど単純な性格ではなくてな。
それに、厭きるほどに生き続ければ、正邪善悪の区別などたいした問題ではないことに、否応なしに気づかされる』
「ああ。ああ。
あなたは……「博士」。
あなたは、自力でそこまで到達した方でしたね。
……われわれとは違って」
『あるがままが、すべて。
ただそれだけだ』
「それでは……あの男の欲するまま、術式を抜き取られて屍を晒せと!」
『「大使」よ。
なぜお前は、そこまでして今の生にしがみつこうとする?』
「……だから、堂々としていれば問題ないっていったろ?」
例によって、缶ビールを片手に持った千種はそう語る。
「結局は、さ。
風評とか噂とかに左右されるのは、普段から周りとつき合ってない人たちなんだよ。
ちょいと前までとは違って、今やあんたもちゃんとした社長さんやってんだろ?
毎日顔あわせていっしょに仕事して、給料も貰っている相手がちょっとおかしなことをやって週刊誌あたりに煽られても、それでいきなり問題になるってことはないんだよ、うん。
別に、痴漢とか婦女暴行とか、そんな恥ずかしい犯罪をしでかしたわけではないんだし」
「……魔法を使うのよりも婦女暴行のが上なのかよ」
「恥ずかしさでいえば、はるかにな。
超能力とか霊能力が使えるって自称している人は昔からいたし、今後も出てくるだろうけど、ただそれだけで世間で白眼視されることはないと思うんだよな。
物珍しさで寄ってくる人は多いだろうけど。
そんな人たちにも日常生活ってものはあるはずで、普段はよき隣人だったり家族だったりするわけだよ。
その隣人や家族にしてみれば、多少おかしな能力があるからって、それだけでその人の評価が変わるか? っていうと……決して、そんなことはないだろう。
結局は、普段の行いや他人とのつき合い方になるんじゃないのか?」
完爾の姉である千種は、こちらに帰還してきたときから一貫して完爾のよきアドバイザーであった。
かなり奇妙な自分の経験についても真剣に耳を傾けてくれ、適宜必要な助言や手助けをしてくれた。
千種の存在がなかったら、あるいは千種の性格が今とは違うものだったら、今の完爾もまったく別の存在となっていただろう。
「結局、地道に、真面目に普通の生活を続けていく人が一番強いんだよ」
千種は、そう結論する。
暁は、寝返りを打てるようになっていた。
そろそろ、離乳食の準備もはじめるという。
「おれたちがバタバタしている間にも、こいつはどんどん大きくなるもんだなあ」
「ええ。
育つのが、今のこの子の仕事ですもの」
完爾とユエミュレム姫は、暁の寝顔を見ながらそんな会話をしていた。
「地道に、真面目に普通の生活を、か」
先ほど千種にいわれたことを、反芻する。
「一年前には、そんなことは夢にも考えられなかったなあ」
「一年前……というと、決戦直前くらいの時期ですね?」
「ああ。
あの頃は戦いのことしか、考えていなかった。
たまに、ぽっかりと空いた時間に、これが終わったら、おれ、どうするんだろうな……とか、思ってはいたけど。
あの頃のおれには……今の状況なんか、想像もできなかったな」
「カンジは……戦いが終わったら、どうするつもりだったのですか?」
「そうだな。
わからなかったけど……どこか、ずっと遠い場所にいきたかった。
おれのことなんか誰も知らないような、そんな場所に」
「それで……」
「ああ。
気がついたら、こっちに戻っていた。
確かに、おれが知らない場所だし、誰もおれのことなんか気にしなかったよ。
十八年も経てば、なにもかもが変わっている」
「カンジは、今、幸せですか?」
「んー……多分、な」
「多分、ですか?」
「正直、いまだに実感がないんだ。
おれに、奥さんや子どもがいることだとかが……」
みずからの存在を公表した靱野は、その場限りで放免されるということもなく、引き続き、日本政府との各種取り決めについての会談を行うはめになった。別世界からの渡来者ということで、特に魔法をはじめとするこちらの世界には存在しない知識体系の扱いについて、協議しておく必要があったのだ。
靱野の活動範囲はおおよそ全世界に及んでいたわけだが、特に日本政府を最初の交渉相手に選んだ理由は、ユエミュレム姫と交渉した前歴があるためだった。米国ならびにその他の国々も靱野と交渉を持ちたがったり、実際に日本政府との交渉の場にアドバイザーやオブザーバーなどの名目で人員を送ってきたりした。
しかし、靱野が、
「魔法をはじめとした他の世界の知識をこちらに供給する予定はない」
という基本姿勢を鮮明にすると、引き続き交渉を続けようとする国はほぼ日本だけとなった。
各国は単身でいくつもの犯罪組織を壊滅させてきた靱野の戦闘能力を過剰気味に評価しており、一方で、短期的に利益を受けることができないと判明すると、根気よく交渉を続けるモチベーションを保てなくなったのだ。
「ああいう危ないやつの扱いは、しばらくは日本に任せておこう」
というわけである。
一方で、別世界の知識の供給以外のことについては、靱野はかなり柔軟に対応した。
例えば、例のギミック類もかなりの数海外に流出していたのだが、それについての情報を与えられれば、世界中どこへでも出向いていって「始末」をし続けた。
この一件以降、靱野は、世界各国との警察や軍部との公的なパイプを持つことになった。




