夕餉ですか、なにか?
「2199は良リメイクだなー」
とかいいながらさっそくビールを飲み始めた千種を横目に、だし汁のストックが切れかかっていたので補充しておく。基本的に和食が好きな千種のため、昆布、煮干し、鰹節の三種類を多めに作って常時ストックしているわけだが、ユエミュレム姫もこちらでの料理に興味を示していたので、作り方を教えがてら、である。
「……作り置きがあると、後でいろいろと楽ができるんだわ。
味噌汁なんかもすぐに作れるし」
そんなことをいいながら、できあがった三種類のだし汁の味を試してもらう。
ユエミュレム姫にも、だし汁のうまみは理解できるようで、
「こんな単純な材料で……」
とかいいながら、目を見開いている。
思い返してみると、むこうの料理はよくいえば素朴、悪くいえば雑だったよな、と、完爾は回想する。むしろ、食えるものがあればまだしもまし、といった時期のが長かった。
だし汁の使用例として肉じゃがとわかめの味噌汁を作り、それにぶりの照り焼きといんげんの胡麻和え、きんぴらゴボウを手早く作って夕食の菜とする。
「手際がいいですね」
「慣れだよ。慣れ」
実際、どれも単品ならあまり手が掛からない、単純な料理ばかりだ。多少なりとも手際がよく見えたのだとしたら、作り慣れていて動き遅滞がなく、手順が最適化されているためだろう。
夕食を摂りながら、「明日から本格的にバイトを探しはじめる」旨を千種に伝える。
「うまいこと見つかるかどうかは保証できないけど……」
「肉体労働系なら、贅沢いわなけりゃなんとかなるんじゃないのか?」
千種はそれに賛成とも反対ともいわなかった。
「ただ、そっち系は福利厚生面や昇級で厳しいものがあるからなあ。
あまり長くやっても、メリットはないぞ」
収入を年収で計算して、税金その他の必要経費を差し引いた上で親子三人暮らせる収入が確保できるかどうかで判断しろ、と念を押された。
「正社員じゃないということは、自分の将来に対して誰も保証してくれないということだしな」
当面はともかく、長期的には別の収入源も探しておけ、ということらしい。
ま、体力には自信があるし、どうにでもなるかな……と、完爾は楽観している。
実際、フリーペーパーを見ると、建築や土木、工場などの肉体労働系はそれなりに求人があったし、長期的な展望はまた後で考えることにして、中繋ぎ的にとりあえず稼いでおくのは悪くはないプランに思えた。今のような無収入状態よりははるかにましだ。
「こっちは、あれだ。
昨日はなした義妹ちゃんと暁ちゃんの手続き関係の法律相談、それと、病院の検診関係の予約をやっておく」
法律関係については、千種の大学時代の知人に幾人かのあてがあり、そちらに相談してみるという。
「法律にカンしては専門家に任せるのが一番だと思うけど……検診関係は……」
外出時が問題にならないかな? と、完爾は首を傾げた。
「姫、こっちの交通機関の利用法もわからないだろうし……」
「馬鹿。
お前がついて行くんだよ」
「え? おれが?」
「当たり前だろう。
義妹ちゃん、こっちの言葉、わからないんだろ? どうしたって通訳が必要になるだろう」
「あっ……」
完爾は、小さく叫んだ。
ユエミュレム姫の通訳を務められるのは、今のところ完爾自身しかいないのだった。そのことを、すっかり失念していた。
「じゃあ……その検診関係が一通り終わるまで、おれの体もあけておいた方がいいのか……」
「あるいは、気軽に休める仕事場を選んでおくか、だな」
千種も、うなづく。
「なるべく短期間に、一気に終わらせるように予約するつもりではあるが……」
「あと、おれが日中に仕事にでるようになると、翔汰の送迎とかができなくなるけど……」
「送り出すのは、わたしがする。
帰りは、人に頼む。昨日もいったけど、お前が来る前まではそうしていたんだ」
週末はともかく、千種も平日は夜遅くまで働いている。午前様になることも珍しくはない多忙さだ。以前は延長保育を利用して、夕食から就寝までの世話を有償で知り合いに頼んでいたという。
「いわゆる、シッターさんってやつなのか?」
「知り合いだよ。このアパートに住んでいる奥さん。
子どもが独立して体は空いているし、保母さんの経験もあるっていうからお願いしてたんだ」
今は義妹ちゃんがいるから、保育園からの帰路だけ、面倒を見てもらえばいい……と、千種はつけ加える。
「ご近所さんね」
「うちの店子でもある」
二階建て、3LDKの区画が六世帯分。そのうち一区画を所有者である千種自身が占有している形だ。両親の遺産と保険金、それに千種自身の貯金と離婚時の慰謝料のほとんどをつぎ込んで建てたアパートだったが、間取り的に見ても完全にファミリー向けの物件であり、あまり問題行動を起こす住人はいない。また、空き室が出てもすぐに次の契約者が出てきて埋まってしまう。
相場から見てとりわけ賃料が安いというわけでもないのだが、造営がしっかりしている分、近隣の同じランクの賃貸物件よりもよく見えるのかも知れない。
完爾自身が見知った顔を思い浮かべてみても、住人の人たちは落ち着いた感じの常識人が多いように思えた。
「じゃあ、安心か」
「安心、安心。
完爾よりもよほど危なげない」
「そっちはそれでいいとして……あとは、姫の方か……」
「子どもじゃないんだし、暁ちゃんの世話もあるし、いくらなんでも留守番するくらいはできるだろう? 翔汰だって、早い時間には帰ってくるんだし」
「大丈夫は、大丈夫なんだろうけどな」
「なにもあんたがそんなに心配しなくても。
あっ。
それから、義妹ちゃんのことを姫とか呼んでるなよ、人前で。
痛いから」
「お、おう。
習慣でそう呼んでたけど……まあ、確かに……いわれてみれば……恥ずかしいなあ……。
姫は、姫なんだけど……」
「そういうことではなくて、今の日本の文化で自分の嫁さんをお姫様呼ばわりはどうかと思うよ。
たとえ事実であったとしても」
「カンジ、姉君はなんといっていますか?」
自分のことが話題になっていることを敏感にも察したユエミュレム姫が、はなしの内容を完爾に訊ねた。
完爾がざっと説明すると、
「そうですね。
わたくしの身分も、あくまでむこうだけでのことなのですから……」
といって、完爾に対して自分を名前で呼ぶように要請してきた。
「……ユエミュレム……だと長いから、ユエ、でいいか?」
「はい、それで。
愛称ですね。わたくし、愛称で呼ばれるのははじめてです」
「壁ドンしたくなる気持ちとはこういうことをいうか……」
離婚歴のある千種が、憮然とした表情でつぶやいた。
ユエミュレム姫はもちろんのこと、完爾にもその言葉の真意は図りかねた。
夕食後、完爾は履歴書を書き、ユエミュレム姫は千種と一緒に暁を風呂に入れていた。翔汰は今日買ってもらったばかりのおもちゃをいじっている。
暁の世話も、本当ならもっとおれが負担しなければならないのだろうな……とは思うものの、暁はなぜか完爾が近寄ると盛大に泣き出すことが多い。どうしても、現状ではユエミュレム姫に任せきりになってしまいがちなのであった。
それ以外にも、完爾自身にもまだまだ自分が父親であるとの自覚ができていないという面も、多分にあるのだが……。
協力して洗い終えた暁をベビーベッドに戻すと、千種はそのまま昨日のようにユエミュレム姫と風呂にはいるといい、今日はその上翔汰も誘った。
「なんならお前もいっしょにはいるか?」
などと完爾も誘われたものだが、もちろんお断りした。
明らかに冗談だと思ったし、ここの風呂場は確かに広めではあるけど大人三人と子ども一人が同時に入れるほど豪華ではない。それ以前に、この年齢になってまで自分の姉と混浴する趣味は完爾にはなかった。
三人があがってから入れ替わりに完爾が入浴し、風呂からあがるとパジャマ姿のユエミュレム姫と翔汰がいっしょになって声を出して絵本を読んでいた。確かに、今日、文字をおぼえはじめたユエミュレム姫にしてみれば、子どもむけの絵本はいい教材なのかも知れない。
それより、昨日よりは翔汰とユエミュレム姫の親密さが増しているような気がして、完爾も心から安堵した。もともと翔汰はあまり人見知りするような子どもでもないのだが、言葉の問題もあり、昨日の時点ではユエミュレム姫に対して少し距離を持って接しているように見えた。その距離が少し縮まったように見えるのは、完爾にしてみれば安心できる材料なのだった。