雑談ですが、なにか?
身辺が多少騒がしくなっても仕事を休むわけにはいかない。
最近になって準備を開始した製造業がどうにか軌道に乗りはじめて完爾がやるべきことが増えてきたら話は別なのだろうが、今の時点では、たとえ多少割安な賃金であろうとも妻子を含めて生活費を工面しようとしていた。そういう実績を残しておくことがユエミュレム姫の帰化問題的にも重要なのである。
そんなわけで、完爾は今日も軽く成人男性の体重ほどはある重たい石膏ボードを担ぎ、資材だらけで歩きにくい現場内の通路や階段を行き来するのであった。
完爾の身体能力を持ってすれば、この程度の労働は実はなんともないのであるが、そろそろ夏も盛りになってきていて、汗だけはやたらとかく。また、雨が降れば資材を濡らさないように工夫しながら運ばなければならず、無駄に手間が増えたりする。
単調な仕事にも相応の苦楽はあるものだなあ……と、完爾は思う。
「それにしても脇田さん、動けるなあ」
というのが、そのような苦楽をともにする同僚たちの間での、完爾の評価だった。
最近ではそれが事務所にも伝わっていて、荷物の量が多い現場に優先的に回されているような気配もある。一勤務あたりの賃金も、ほんの少しではあるがあがっている。完爾にしてみれば家にいるよりは多少マシ、程度のあまり愛着のない職場でしかないのだが、完爾自身の思惑とは別に周囲の評価はあがっている形である。いつまでもこの仕事を続けるつもりもないので、なにかあると完爾は簡単に仕事を休む。無断欠勤でないかぎり、つまり、事前に「何日には仕事ができません」と伝えておく限り、そうしても誰にも文句をいわれない仕事であった。
つまり、完爾にとって仕事とは「生活をするためにやむを得ずやっている行為」であってそれ以上でもそれ以下でもなかった。
一方、ユエミュレム姫はといえば、それなりに多忙な日々を過ごしている。
家事や翔太の送迎、日本語や自分が興味を持ったことに関する学習などの日課に、最近ではビデオチャットが加わっている。
佐山研究室の牧村静女史は、准教授なのだそうだ。「准教授」というのがどのような地位なのかはユエミュレム姫にはよくわからなかったが、その大学というところでは牧村女史のような学者や学者の卵がごまんといて競争も激しいらしい。
牧村女史は「ユエミュレム姫の故郷の言語解析」という、クシナダグループが実用的と認めた、すなわち、まともな予算がつきそうな研究に参加する機会が得られたことをかなりの幸運と考えており、熱意も高かった。
雑談がてら、ここ数日は双方の語彙を参照しあう辞書の整備に多くの時間があてられている。
まずは、以前に提出したユエミュレム姫の手記を参考に、意味が特定できた単語の確認と不確定な語彙についての質問が中心となった。
かなり膨大な単語について協議する必要があり、実際の作業としては煩雑でもあったが、「きちんとした辞書を作る」ということについてはユエミュレム姫自身も強い興味を示していたため、あまり苦にはならなかった。
また、ユエミュレム姫からしてみれば、合間に挟まれる雑談からも、多くの知見を得ることができた。
散歩や翔太の送迎の際に会話をする人が増えてきたとはいっても、それらの内容はあくまで日常会話の域をでず、ユエミュレム姫が感じた抽象的な質問や根本的な疑問に答えてくれる人はあまりいない。
その点、牧村女史は逃げずに答えてくれるので、あるいは、自分で即答できない疑問に対していい加減なことをいわず、「次の時までに調べておきます」といって仕切り直し、実際に調べてきた内容を後で教えてくれるので、ユエミュレム姫の信頼は厚かった。
そうした雑談や疑問は、読みかけの源氏物語についてだったりこの間いったショッピングモール内の書店で購入した日本史の参考書を読んで疑問に思ったことについてだったり、日常生活の中で感じたふとした疑問だったりするのだが、どんなジャンルの質問にも、牧村女史は愚直に対応してくれる。
そんな雑談のおりには、
「へぇ。
今度、そういうお仕事を……」
「ええ。
最初はこんな携帯のストラップからはじめて、アクセサリーとかにも手を広げていく予定なのですが……」
そんなことをいいながら、ユエミュレム姫は試作品のストラップを指先でびよーんと広げて見せる。メッシュ状になった部分は伸縮性があり、伸びやすい。その割に、固定化の魔法の作用によって、元のサイズに戻ろうとする力も強い。
「それ、ユエさんが魔法で作ったもんですか?」
ユエミュレム姫自身の要望で、牧村女史は「ユエ」という略称を使用している。
「そうです。
こうして……」
ユエミュレム姫が握っていたボールペンの軸が、一瞬にして細長くなり、螺旋を描きながら上の方へと延びていく。
「……変形をさせて」
と、いい終わった時には、そのボールペンは元の形状に戻っていた。
「……はぁー……」
初めてリアルタイムで魔法が使用される様子を見た牧村女史は、長い吐息をついた。
むろん、それなりの感銘は受けているのだが、なにぶん唐突だったのでモニター越しに行使された魔法について、どのような感慨を持つべきなのか、自身の中ですぐには整理できない。
牧村女史は、クシナダグループに所属したり嘱託していたりする研究者ではなかったので、以前に完爾が行った公開魔法実験のデータも見たことがなかった。
「それが、魔法かぁ……」
結局でてきたのは、そんなごく素朴な驚きの声であった。
「わたくしのいた世界では普通に使われている術なのですが、こちらでは珍しいみたいですね」
「珍しいというか、ほとんどできる人はいないんじゃないかなぁ……」
「カンジは魔法を使用できますが?」
「いや、元勇者とモブをいっしょにしちゃあ駄目でしょう」
「モブ……ですか?」
「その他大勢、わき役、通行人A……で、わかりますか?」
「ああ。
なんとなく。
ですけれど、そんなモブしかいないのにこれだけ快適な環境を構築したことは大変に素晴らしいことと思いますが」
どうやらユエミュレム姫は、「モブ」という語句を「一般人」ないしは「魔法を使えない人々」であると解釈したようだ。
「現代社会が素晴らしい、という部分には同意しますが……どうも、ユエさんは、モブという単語の意味を間違って理解しているように思います」
それから、牧村女史による俗語解説がしばらく続く。
二人の会話は、おおむねこんな感じだった。
今日の仕事が終わり、会社へ給料を取りに行くという同僚たちと別れた直後に、狙い澄ましたように橋田管理部長から電話がかかってきた。
昨日の件かな、と思いつつ、完爾は通行の邪魔にならないように道の端に寄ってから、電話にでる。
「ああ、どうも。
門脇ですが?」
『どうもお世話になっております。
クシナダグループの橋田です。今、お電話よろしいでしょうか?』
「はい、どうぞ。出先なんで、手短にお願いします」
『ええ。
では、早速本題にはいりますが、例のこそ泥の件に関する続報です。
背後関係は引き続き洗っているところなのですが、数日前からうちのサーバーにアタックした形跡がありました。
それと、うちの研究員に対して買収を試みるような動きもあったようですな。
応じた者はいなかったようですが』
「あー……やはり。
国内ですか? 国外ですか?」
『今の時点では、両方の線で探っております』
「でも、うちの住所なんかは漏れていたってことですよね?」
『その点は、申し訳ないとしか……』
「いえ、別に責めているわけでもないんですが。
どこから漏れたのかなあ、って……」
『グループ内にはかなり厳しい箝口令が行き届いておりますし、考えられるとすれば、もっと上……になりますか』
「もっと上……ですか?」
『はい。
グループ内部の情報操作にはかなり気を配っておりますし、実際に研究に携わる者は、外部の雑音にはあまり惑わされません。
ですが、一歩外に出てしまうと……』
「グループの外……と、いいますと?」
『官公庁関係になりますなあ。
いいにくいことですが、そちらからも相応の資金援助をしていただいておりますので、まったく情報をあげないわけにもいかず……』




