初任給ですが、なにか?
間際弁護士や千種の助力により、完爾やユエミュレム姫を取り巻く状況は急速に改善されていた。
日本国籍を持つ完爾の実子であるため、暁の国籍は容易に取得することができた。
無国籍者であるユエミュレム姫については、五年以上の住居実績を作らねば国籍の取得は難しいそうだが、そのかわり、「暁の母親」であるという事実は将来的に有利に働く……と、間際弁護士は見ている。
千種は、完爾を責任者とする会社を立ち上げて、登記した。
最終的には、「門脇プランニング」という具体的な業務内容がすぐには推察できない名称に設定したが、そもそも肝心の業務内容が今の時点では固まっていない。
今のところ、クシナダグループから入金されてくるそれなりの現金の受け皿として機能している。
同じ金額でも、法人の利益として扱った方が税務上、有利にになることが多いのだった。それに、健康保健の問題もある。
「門脇プランニング」という法人が立ち上がったことで、完爾はそれまで使用していた国民保険を社会保険に切り換えることが可能となった。ユエミュレム姫にも社員となって貰って、暁は完爾の扶養家族としてそれぞれに保険証を発行して貰う。
これで、ユエミュレム姫や暁についても、最低限の保証と身分証明書が確保できたことになる。
また、完爾とユエミュレム姫は、会社から毎月決まった金額の収入を得ることになった。
完爾はともかく、ユエミュレム姫はこれまで完爾や千種から小遣いを貰うしか収入の道がなかったわけだから、大きな進歩といえる。すでに振り込み用にユエミュレム姫個人の口座も作り、通帳とキャッシュカードも渡していた。
「十五万円……ですか?」
ユエミュレム姫は通帳に記された残高を神妙な顔で見ていた。
「とりあえず、な」
完爾も、神妙な顔でうなずく。
「おれも、同額。
初任給だから、そんなもんだろ。
今後、業績が延びたりすれば昇給したりボーナスを弾んだりすることもあるかも知れないけど……」
二人とも、金額の少なさを嘆いているわけではない。
「いえ、むしろ、使い道に困るくらいなのですが……」
「別に無理に使う必要もないよ。
使うあてがないのなら、そのまま口座に眠らせておけ」
もともと、二人とも物理的な欲望は希薄で、贅沢を好む気質でもない。
ついこの間まで無職居候をしていた完爾や難民同様の居候であったユエミュレム姫にしてみれば、こんな金額でも感謝したいくらいなのだ。
それに、会社名義の口座に入っている金額を考えると、その口座に入ってきた現金を得ることにさほど苦労をしていないことなどを考え合わせると、自分たち個人の資産の多寡などはさほど気にならなくなってくる。
「そうですね。
でも、これでなんでも買っていいとなると……」
ユエミュレム姫は、少し考え込む。
「……カンジ、なにか欲しいものはありませんか?」
「いや、気持ちはありがたいけど……そういうのは、いいから」
「では、お世話になっている姉君に……」
「ああ、それはいいかもなあ。
おれも、世話になりっぱなしだし……」
ということで、次の週末に買い物にいくことになった。
「ああ? デートか?
いいよいいよ。別にわたしに断ることでもない。
いって来な」
金曜日の夜、例によって深夜に帰宅してきた千種は、お茶漬けをかき込みながらそういった。
「デートっていっても、暁も一緒だけどな」
「当たり前だ。
特に義妹ちゃんは一日中家にいることが多いんだから、たまには羽を伸ばしてくるのもいいだろう」
などといっていたが、夜中のうちに完爾のメアド宛に「子ども連れでもOKな近辺のラブホテル」のリストを送ってきたりする千種なのであった。
朝食とルーチンの家事を手分けしてすませて、近場のショッピングモールへと向かう。近場、とはいっても徒歩ではかなりかかるため、免許を持っていない完爾はバスを利用することにした。
事前にシステムなどを説明していたせいか、ユエミュレム姫は戸惑うことなくバスの乗客となった。二人で外出する時は完爾が暁を抱いていくのが、検診の時からの二人の中での決まり事である。
車中でユエミュレム姫の姿を認めて物珍しそうに一瞥してくる人は多かったが、そこまで露骨にジロジロと見られるわけではない。
二十分ほどバスに揺られ、目的のショッピングモールに到着する。検診の帰りなどに何度か立ち寄っている場所で、ユエミュレム姫も何度か訪れたことがある場所である。
週末とはいえまだ午前中だったので、思ったよりは人が少なかった。
そして完爾は、ユエミュレム姫に引っ張られるようにして、婦人用品関係の売場を引き回される。
「服なんかはどうでしょう?」
「うーん。
ねーちゃん、仕事に出る時以外は、あんまり服装に構わないからなあ……」
休日の千種は、ジーンズにTシャツ、あるいはポロシャツ、といった具合に、だいたいはかなりラフな格好をしていることが多い。
「それに、おれ、ねーちゃんのサイズなんかわからないぞ」
「……そういえば、分かりませんね。
姉君の服の大きさ……」
「アクセサリーとかはどうだ?
あまり派手なものでなければ喜ぶと思うけど……」
「それなら、わたくしが魔法で、直接意見を聞きながらその場でお作りします」
「……それもそうか」
そんなはなしをしながら、しばらく周囲の売場をさまよい歩いた末、完爾が一軒の店舗を見つけた。
「靴屋さん、ですか?」
「ああ。
フォーマルな、歩いても疲れにくい靴だって」
千種は毎日にのように長時間労働に従事している。
そのことを考えると……。
「ちょうど、いいかもな」
外からショーウィンドウを覗きこむと、完爾が予想していたよりも高価な商品であることに気づかされた。
「……金、降ろしてこよう」
「ATMですか?
わたくしも、降ろしてきます。
あれ、一度やってみたかったのです」
現金を降ろしてから再び靴屋に舞い戻り、完爾がかろうじておぼえていた千種の靴のサイズを店員に伝え、スーツ姿で履く、仕事用の……と説明しながらユエミュレム姫と一緒に選んでいく。
店員に勧められた靴は完爾の目にはどれも同じようなデザインのように見えたが、ユエミュレム姫や店員の目からはかなり違って見えるらしい。
結局、完爾はすぐにリタイアし、ユエミュレム姫と店員とでかなり長い間あーでもないこーでもないと相談した上で、ようやく一つに絞ることができた。
それを包んで貰い、完爾が会計を済ませる。ユエミュレム姫も財布を出そうとしたが、完爾は手で制した。
割り勘にするのなら、後でもいいのだ。
婦人靴が入った紙袋は完爾が持つことにする。
「ユエ。
後、なにか買いたいものは?」
「それでは……」
ユエミュレム姫は、本屋に寄りたいといった。
……そういや、近所には碌な書店がなかったな……と、完爾は思う。
完爾がむこうに行く前、子ども頃には何件か小さな店があったのだが、帰ってきたらすべて潰れていた。
その代わりに、新古書店とレンタルビデオ屋内に併設してある書店ができていたわけだが、どちらも品揃えは著しく偏っている。
この世界の成り立ちに興味を抱き、意外に衒学的なユエミュレム姫のことだから、完爾が予想する以上に知的な欲求不満が溜まっているかも知れない。
ショッピングモール内の書店は予想外に大きくて、品揃えもよいようだった。
ユエミュレム姫は、本の表紙や背表紙に目を走らせながら、売場をゆっくりと散策しはじめた。
時折、本を手に取ってはページを開き、中を確認している。
まだすべての漢字を読めるわけではないので、完爾に言葉の意味を確認することもあった。
店内をざっと一周し、
「そうですね。
まず、必要なのは……」
ユエミュレム姫は、まず漢字辞典を完爾に手渡した。
「電子辞書ですと、漢字から意味を引くのが意外に難しくて……。
それから……」
文庫本の売場へいき、上下巻のかなり分厚い二冊組を選んで完爾に渡す。
「銃・病原菌……」
完爾は、ページをパラパラとめくって、その本の中身を確認した。
かなり専門的な内容で、難しそうな本だった。
「こちらの世界での、文明の衝突について書かれた本だそうです。
以前、姉君に薦められました」
……それはいいけど、ユエに読めるかなあ。いや、読むんだろうな……と、完爾は、感心する。
半ば、呆れを含んだ感心の仕方ではあったが。
ユエミュレム姫が日本の文化と接触してから、まだ二ヶ月も経っていない。
にも関わらず、この貪欲さと吸収の早さ。
やはり、驚嘆には値するのだろう。




