旧友ですが、なにか?
翌日の日曜日、いつもの通り、行きつけのパン屋へ向かう完爾。
いつもと違うのは、この日は暁を抱いたユエミュレム姫も同行していることだ。
何度か検診を受けて外出が解禁になったユエミュレム姫は、近所への買い物や散歩程度の外出を日常的に繰り返すようになっていた。とはいえ、完爾が仕事に出ている日は同行できないので、二人や暁を伴った三人で一緒に外出する機会はさほど多くないのだが。
今、暁は完爾が抱いている。パン屋での買い物をユエミュレム姫がしたがったからだ。多種多様な焼きたてのパンが店内にあり、トングで取ってから精算をするタイプのパン屋を、ユエミュレム姫はまだ未経験だった。
暁は最近体重が著しく増加していて、最初の頃と比べ、完爾が近づいてもぐずらなくなった。
完爾に慣れたのか、それとも成長するにしたがって細かいことを気にしなくなったのか定かではない。どちらにせよ、近寄っても泣かなくなったのは、完爾にとってはとてもありがたかった。
ユエミュレム姫と他愛のないことをはなしながら、完爾は、朝の町中を歩いていく。
静かで人通りが少なく、もう初夏だというのに、意外に空気が冷たかった。
しばらく歩いて目的の店に到着し、中に入るとユエミュレム姫は小さく歓声をあげた。
レジにいた中年女性の店員が、明らかに日本人ではないユエミュレム姫を見て一瞬体を強ばらせるが、後に続いて入ってきた完爾の姿を見て、すぐに緊張を解いた。
それから、抱っこ紐で暁を抱いている完爾とユエミュレム姫を見比べて、ひどく興味深そうな表情になる。この手の好奇の視線にさらされるのは慣れているので、完爾は店員の態度を無視することにした。
完爾はこの店にはほぼ毎週末通っている常連なのだが、暁やユエミュレム姫を伴って来店したのはこれがはじめてだった。相手から見れば、興味を持たない方がおかしいくらいなのだろう。
完爾が木製のトレーとトングを持って、最初に袋入りの食パンをトレーに乗せる。
そしてユエミュレム姫にトングを渡して、「好きなものをここに乗せて」と伝えた。
ユエミュレム姫はというと、棚に置いてある菓子パンを眺めて、「どれにしようかな?」、と迷っている風情だった。
「カンジ、これは?」
「フレンチトースト。
玉子と牛乳に浸して、味つけしてから焼いたパンだ。
ここのは、フランスパンをベースにしている」
「これは?」
「カレーパンだな。
中にカレーを入れて、揚げたパン」
「これは?」
「ドーナツ。
揚げパンだが、それはシナモンで味付けしたやつだな」
「これは?」
「あんパン。
中にアンコが入っている。
アンコっていうのは、砂糖と一緒に煮込んだ豆だ。甘い」
などなど。
ユエミュレム姫に問われるままに、完爾が簡単な説明を加えていく。
「選ぶのが面倒なら、気になったのを端から順番に買ってもいいぞ」
途中で説明するのが面倒くさくなった完爾は、しまいにはそんなことをいいだした。
今、門脇家には五人もの人間がいる。
乳児である暁は除外するにしても、四人もいれば多少多めに買ってもそれなりに消化できるだろう。
「いえ。
せっかくですから、しっかり選びます。
今日買いそびれた分は、また後日に買いにきます」
ユエミュレム姫は、真面目な顔をしてそう宣言した。
結局、トースト用の食パンと菓子パン十個を買って店を出ることになった。
レジを通している時、店員の中年女性にジロジロと見られたような気がするが、例によって完爾は気にしないことにする。
その店員にしてみれば、いきなりどこの国のものともわからない外国語で話しはじめた完爾たちは、随分と奇妙な存在に思えたことだろう。
「……あ」
店を出たところで、小さな声が聞こえてきた。
ふと顔をあげると、橘幸恵がいた。
ここ最近はバタバタしていたので顔を合わせる機会がなかったが、ついこの間まで頻繁に会話をしていた、完爾の旧友だった。
「あ、どうも。
おはようございます」
まんざら知らない仲でもないので、完爾は挨拶をした。
「……おはようございます。
門脇、さん。
その……そちらは?」
「ええ……っと。
こっちは、今うちに同居している人で……」
「それは、知っています。
翔太くんの送迎に来ているし、保育園の方でもなにかと噂になっていますから」
なんだろう。
この時の完爾は、橘幸恵からなんともいいようがないプレッシャーを感じていた。
「あ。
そう……っすか」
「その方は、誰ですか? どちらの方で?」
「うん。
ユエの出身国は……ちょっと説明してもわからないと思うので、勘弁してください。
こちら、とても遠いところから来た、ユエミュレムさん」
ユエミュレム姫の出身地について詳しく説明をしはじめると長くなる。
嘘をつかない範囲内で適当にボカすのは、アリだろう。
……相手が納得してくれるかどうかまでは、保証の限りではないが。
「門脇さんとは、どういうご関係ですか?」
「おれが行方不明になっていた時に、随分世話になった人」
「ああ。
行方不明に……って、門脇さん!
記憶、戻ったんですか!?」
「いんや」
完爾は、素っ気なく首を振った。
記憶が戻った、という「設定」にすれば、またそぞろ面倒な説明ないしは嘘を重ねなければならなくなる。
「でもほら、証拠がいるから」
そういって、完爾は抱いていた暁を指さす。
「しょ……しょー……こ。
ですか?」
「うん。
おれの子ども、だって。
遺伝子的にも、ばっちり証明。
ついこの間、国籍も取れたし。
おれも最近まで知らなかったんだけど、父母のいずれかが日本人だと、比較的簡単に日本国籍取れるのな」
「で、では……こちらの、ユエ……さんは?」
「ええっと……おれの、奥さん? つれあい?
ユエの国籍がまだちょっとアレなんで、実質的には、というか内縁関係ってことになるのかなあ、法的には」
「ツマです」
ユエミュレム姫が、まだぎこちない発音の日本語で挨拶し、深々とお辞儀をする。
「ご丁寧に……どうも」
反射的に橘幸恵も頭を下げ、
「ま、まだ買い物があるから」
とかいいながら、パン屋の中に入っていった。
扉が開いた時、レジのところからこちらを伺っていた店員と、目があった。
「……あちゃぁー……」
朝食がてら、ことの顛末をはなすと、千種はそう叫んでに天を仰いだ。
「ついに、遭遇しちゃったかぁ……。
可哀想になあ、橘さんも」
「……可哀想?」
「いやまあ、しっかりした約束とかがあったわけではないけど……うーん。
期待は、あっただろうし……」
「ソウイウ、人なのですか? タチバナは?」
ユエミュレム姫が、日本語で千種に訊いてきた。
例によって、発音やイントネーションはまだまだだが、短いセンテンスであればどうにか自分の意志を伝えられるようになってきている。
「そういう人……だったの。
ええっと、彼女は、むこうに行く前の、完爾の知り合いで……そんでもって、結婚に失敗して、最近、帰ってきたばかりの人」
「アア、それは……」
ユエミュレム姫が、うなずいた。
「キタイ、するかも知れませんね」
「……でしょう?
同い年だし、完爾はこの通りだし……」
この間、完爾は口を挟まない。
なんだか酷くコケにされているような気がするが、下手に口を挟めば藪蛇になるような気が、ひしひしとしたからだ。
「知り合い、というと、カンジとは、ガッコウで……」
「そうそう。
同級生、ってやつ。
義妹ちゃん、よくわかるね」
「マンガ、読んでいますから。
ソウですか。
カンジと同じガッコウの……」
「でもまあ、あれだ。
ヘンに誤魔化さず、端的に事実だけを説明したのは、完爾にしては上等だ」
「ソウ、ですね。
ウソをついてなかったのは」
「ま……誤魔化すだけの器用さもないだろうけどな、こいつには」
「ええ。
ムリですね。カンジには」
完爾は、黙々と朝食に専念する。
「鈍感だからねえ、こいつは」
「デスよねー」




