娘ですが、なにか?
「いただきますっ!」
甥の翔汰は合掌し、元気よく叫ぶ。
「い。いとぁ……?」
何事かと問いかけるような眼差しを送ってくるユエミュレム姫に、
「こっちの習慣。
食前に、食材ならびに食材の用意をしてくれた人たちへの感謝の意を表す」
完爾は、短く説明した。
「まあ、それはとても良い習慣ですね。
いとぁだぁき……」
見よう見真似でたどたどしく復唱しようと試みる、ユエミュレム姫。
「い、た、だ、き、ま、す、だ」
完爾は、一音節づつ区切って、はっきりと発声してやる。
「い、た、だぁ、くぃ、まぁ、すぅ?」
「そう。
いただきます」
「いただぁくぃまぁすぅ」
ようやく、ユエミュレム姫は用意されたスプーンを手にとって食事を取りはじめる。
「……予想以上においしくてとても驚きました」
「そりゃどうも」
「カンジが作ったお食事も、ですが、粉をお湯で溶いただけのこのスープも……」
「現代のフリーズドライ技術をなめるな」
インスタントのコーンポタージュは完爾には甘すぎるくらいなのだが、ユエミュレム姫の口には合ったようである。
「こうしてカンジが作ったお料理を食する日が来るとは夢にも思いませんでした」
「はいはい。
どーせ似合いませんよ、ええ。
……そういう割には、そんなに驚いていないように見えるんだが……」
「もともと、生きてさえいれば、いずれ再会することもあるだろうとは思っていましたし……それに、わたくしは、カンジがわたくしの前に現れた現場をこの目で見ておりますので……」
「前例があるから、か。
主客というか、移動する者と移動した先は異なっていたわけだけど……」
「ええ。
誰のどういう意志が働いているのか判然としませんけど、わたくしの周りでそういう現象が起こった以上、二度目や三度目があってもおかしくはないかと……」
「理屈からいえばそうなんだろうが……いいのか?
ようするに今の状況って、帰るあてがまるでないってことなんだぞ?」
あるいは、こちらの意志や都合を無視したタイミングで突発的に送還されるか、だ。
「自分の意志で制御できない未来の出来事を心配したところでなにもはじまりません」
ユエミュレム姫は、妙にさっぱりとした表情で断言する。
「それに、わたくしの故郷はカビ臭いお城の中とか半ば廃墟と化した町とかで……これから復興し、新しく普請し直されていく国土ではないような気がします」
……そういいきるユエミュレム姫の表情をみて、案外、向こうでも身の置き所がなかったのかも知れないな、と、完爾は思った。
「それを回すだけで水が出てくるのですか?
れーぞーこといい、つまみを回すだけでで着火する竈といい、何かにつけ、こちらは随分と便利に出来ているのですね」
食事を終えてから、ユエミュレム姫は洗い物をする完爾の手元をじっくりと観察していた。
「マジックアイテムなのですか?」
「違う違う。
はなしたことなかったかな? こっちには、魔法はないから。
魔法が出てくるのは、こっちではもっぱら作り物のおはなしの中だけだ」
「そうなのですか。
それでは、なんで……」
「電気とかガスとか水道とか……物理法則を利用した機械仕掛けというか……うーん。
詳しい仕組みや構造は、おいおいゆっくり教えていく。
一口には説明できないほど入り組んでいるからな」
「……はぁ」
「今は、具体的な使い方と注意事項だけを覚えてくれ」
洗い物を終えた後、翔汰の寝具に包まれて熟睡している赤ん坊を確認してから、完爾は順々に室内の備品の使い方を説明していく。
とはいっても、多くはボタンを押すだけ、蛇口をひねるだけといった具合だったから、いちいちユエミュレム姫に実演させてもさほど時間はかからない。
最初のうち完爾たちの後をついて手元を覗きこんでいた翔汰もすぐに飽きたのか、二人から離れ、絵本を取ってきてソファの上で読みはじめた。
冷凍庫の中の氷を口に含んでは小さく歓声をあげ、浴室でシャワーのノズルからお湯が出てくることに目を丸くし、最後にトイレの使い方をざっと説明してから実演させてみると奇声をあげてトイレから飛び出してきた。
ウシュレットを体験させるのは少しばかり早すぎたらしい。
「たっだいまー。
ちょっと完爾、荷物多いから手伝ってー」
そんなことをいってる間に、外出していた千種が戻ってくる。
「そんなに買ってきたのか?」
「どうせ消耗品だしな。ほらほら、つべこべいわずに車へいく」
姉に即されて、完爾は車から紙おむつをはじめとするベビー用品の山を室内に運び込む。
千種が身振り手振りでユエミュレム姫に紙おむつとかウェットティッシュの使用法を説明していくと、ユエミュレム姫はガスコンロや水道の時とは比較にならないくらい大仰に驚いていた。
「そんなに驚くようなことか?」
「だって……紙って、貴重品でしたし」
向こうではおもつはもとより洟をかむのもハンカチを使用する。使用済みのものは洗って何度でも使う。
「こちらは……カンジの世界は、とても豊かな場所だったのですね……」
妙にしんみりとした口調でそういいて、うなだれた。
どうやら、世界間の格差に愕然としているようだった。
「そりゃ……魔法という要素を除けば、数百年分くらいの技術格差がありそうだったからなあ……仕方がないっつうか、なんつうか……」
「このような暮らしやすい場所から二十年近くもカンジを遠ざけていたことを思うと……事実上、強制的に流刑させていたようなものではないですか……」
「あー……そういうの、今さらいってもどうにもならんから。
誰が悪いってことでもないし」
「取り込み中のところ、悪いが。
完爾、なにか作ってくれ」
当然のことながら、完爾とユエミュレム姫の会話は、千種の耳には意味の取れる言語として入ってきていない。
「チャーハンでいいか?」
「チャーハン作るのなら、ドライカレーにしてくれ」
「はいはい」
完爾が冷蔵庫を開けると、千種はその横から腕を伸ばして冷えた缶ビールを取り出す。
「昼間から飲むのかよ」
「これくらいのことで目くじらをたてるなよ。休日に予定外の買い物に行ってきたんだ。
それに、いきなり義妹が出来た祝いもあるし……」
「……へいへい」
「義妹ちゃんも一緒に……って、母乳だからアルコールはまだ駄目か」
「お茶でもいれよう」
緑茶も、ユエミュレム姫の口にあったようだった。
完爾がドライカレーを作っている間に赤ん坊が泣き出したので、早速買ったばかりの紙おむつの出番となった。一応ざっと説明はしておいたが、念のためもう一度千種が手本を見せてくれる。それを翔汰が覗きこんで「臭い臭い」と騒いでいたが、「ついこの間まであんただって垂れ流してたの!」と千種に一喝されて静かになる。
続けて、
「翔汰はこの子のおにーちゃんになるんだから、しっかりしなさいよ!」
といわれ、割と殊勝な顔つきになっていた。
「それで、あの子、何ヶ月になるの?」
一通りの始末をつけた後、ドライカレーをビールで流し込みつつ、千種はユエミュレム姫にそういった。
「そろそろ、生後二月になりますか」
完爾の通訳越しに、ユエミュレム姫はそう答えた。
「二ヶ月……まだまだ先は長い、か」
千種は、少し思案顔になった。
「元いた場所に帰るあてがない以上、こちらで暮らしをたてるしかない。
しばらくは、慣れるので手一杯だと思うけど……なるべく早く、母子ともに診察とか受けて貰いたい。保険も母子手帳もない以上、お金がかかりそうだけど……」
完爾がたどたどしく翻訳する。
当然のことながら、向こうには、健康保険制度も母子手帳もないのでどうしても説明が長くなる。
「それは……必要なことですか?」
一通りの説明を受けたユエミュレム姫は、軽く首を傾げて確認してきた。
「必要だな。
そちらの二人の健康を確認するというのが第一の目的だけど、それ以外にも、そちらのはなしが本当なら、別の世界からやってきたということなんだろう?
だとすれば、未知の病原体とか持ち込んでいる可能性もあるし、本来毒性がないものがこちらの環境で突然変異するという可能性も……」
「お、おい!」
翻訳をする前に、完爾は千種に異議を唱えた。
「そんなことになったら、おれたちは……」
「もう手遅れだ。
ま、しばらく家の中で暮らしていれば、感染被害は最小限に抑えられるわけだし」
「ねーちゃんっ!」
「……冗談だよ。
いや、そういう可能性が皆無ではないってのは事実だが、前のときにもなにもなかったんだから、今回もなんもないと思われ」
「前のとき、って……」
「お前さんが帰ってきたとき、あちこちの病院を梯子しただろ?」
「……あー!
あれ、そういうことだったのかぁっ!」
「……本気で気づいていなかったのか、お前は……」
「検疫のことはともかく、予防注射やアレルギーのチェックとか、こっちでは乳幼児に対する細かい検査がいろいろあるんだわ。
こちらで暮らしていく以上、これを無視するわけにはいけない」
ここでまた、完爾の通訳はしどろもどろになって、滞る。
予防注射やアレルギーについて……いったい、どのように説明すればいいのだろう?
要領を得ない完爾の説明を途中で遮って、ユエミュレム姫は、
「すべて、姉君の判断にお任せします」
と返答した。
「突発的な出来事を前にしても動じることなく的確な判断を下すあたり、流石にご姉弟ですね。
わたくしの元に現れたばかりのカンジのことを思い出しました」
ユエミュレム姫にそういわれた完爾は、とても微妙な顔になった。
「そういや……この子、あんたの娘なんだって? 完爾。
今さらだけどさ」
「みたいだねえ。どうも」
「なんだ、気の抜けた返事だな」
「いや……今日初めて見て、知らされて……。
実感なんか、わくわけがないよ」
「それもそうか。
……仮にあんたの子どもでなかったとしても、気軽に帰れない以上、こっちで面倒みる以外に方法はないわけだが……」
「だよなー。
い、いや。
疑っているわけではないぞ、うん。計算も、二ヶ月ならちゃんと合うし……」
「おま。
いくら日本語がわからないからって、本人の前でそーゆーデリカシーのないこといってるなよ……。
それで、名前はなんていうの?」
「ユエミュレム姫」
「いや、子どもの方」
「……え?」
「だから、赤ちゃんの名前」
「……聞いてない。
姫。
この子の名前……」
「まだついていません。
来月の吉日を選んで命名式があるはずだったのですが……」
「……まだないって。
なんか、王族だからか儀式っぽいしきたりがあるみたいで……」
「王族……お姫様だったのか」
「あれ? いってなかったけ?」
「聞いてない。
それはともかく……いつまでも名無しというのもなあ……」
完爾、ユエミュレム姫、千種、それに翔汰を巻き込んでの命名会議はその後三時間以上にもおよんだ。




