安定した多忙ですが、なにか?
今年の冬、首都圏は週末に二度ほどの大雪を体験した。それも、四十年以上ぶりとか観測史上最大の積雪だそうで、雪そのものに慣れていない人たちはその対処についてもかなり困惑した様子だった。
完爾はといえば、早朝から家からスコップを持ち出してまず自宅アパート周辺の雪かきをし、そのあと仕事場周辺の雪かきをすることになった。朝だけではなく、雪が降りしきる中も、仕事の合間を縫って巡回して、雪を除けた。
なにしろ客商売だったから、特に店舗の周辺は念入りに除雪作業を行ったが、それだけの大雪が降った日は、流石に客足ががくんと落ち込んだ。また、材料や各所に発送する商品を運ぶ便もたいがいは遅れて発着した。そのおかげで商品の製造ペースが乱れ、商品を発送するのが遅れがちになった。
雪が降った日が両方とも週末にかかったこともあり、二月の店の売りあげは大きく減少することになった。
幸い、通販や問屋に卸す分の売りあげまでは減ることもなく、それどころか昨年よりも順調な推移をみせているので会社全体の収益は基本的に増加傾向にある。
だが、完爾に、
「……あくまで客商売だから、自分たちに関係がない部分から売りあげに影響があることもあるんだな……」
と思わせるのには十分な出来事であった。
完爾たちが魔法の知識を公開すると決意したのには、周囲の圧力に屈したという面が少なからずあるわけだが、ことによると将来的にはそちらから収入をメインに考えておいた方がいいかも知れない……ということさえ、考えた。
いずれにせよ、実際に魔法の知識を公開しはじめるのはまだまだ一年以上先の予定であり、当面はこちらの会社をしっかりとやっていくしかないのだが。
完爾がそんなことを考えるのは、まだ正式に入社前の白山さんから頻繁になにがしかの構想メモや企画書がメールで送られてくるからだった。
以前にはなした、公式サイトの内容についてのかなり具体的な案。
どこまでの知識を無料で公開すべきか、詳細に検討する。
魔法の知識を教えるための専門学校のようなものを設立する。
入門書から専門書まで、段階を踏んだテキスト類を用意する。これは、印刷物と電子版の両方を用意する。
魔法の資格試験の創設。
魔法を使える人が増えてきたら、魔法関係専門の人材派遣会社を作る。
さらには、以前、完爾たちも話題に出していた、緊急時の対応マニュアル。
……等々、細部に至るまで練り込まれた企画書の数々が毎日のように完爾たちのメールアドレスに届いていた。
これらの企画のすべてを完爾たちのみで実行できるとも思わないが、白山さんの企画書は財務から法務まで詳細に調べた上で事細かに書かれていたから、
「この通りに実行すれば、案外うまくいきそうだな」
という説得力があった。
少なくとも、完爾自身が計画をするよりはよほど頼りになる草案ではあった。
ユエミュレム姫ならばこれらと同等かもしくはそれ以上の内容を企画できるのかも知れないが、ユエミュレム姫はこちらの世界の法律や商習慣には明るくないから下調べにかなり時間をかける必要があるはずだった。それ以前に、エリリスタル王国語講座の準備で慌ただしい今のユエミュレム姫には、そんな準備をしている時間はないのであるが。
まだ入社前だというのにそれだけの力作を次々と書きあげて送りつけてくる白山さんの先走りぶりも相当なものだと思うが、ここは「それだけ意欲がある」と前向きに解釈しておくことにした。これら入社前に提出された企画案については、報酬が発生しないはずなのである。白山さんを突き動かしているものは、経済的な成功というよりも「やり甲斐」とか「社会貢献」とかいう精神的な要素が強いのだろうな、と、完爾はそのように解釈をしている。
ともあれ、そうした白山さんが出してくる企画のいくつか実現するだけでも安定した収入が見込めるはずであり、それだけでも完爾たちの将来が明るいといえた。少なくとも、経済面では。
ユエミュレム姫はといえば、いよいよ城南大学へ通う日が多くなり、同時に、疲労からか、家事や暁の世話がおろそかになってきていた。
ユエミュレム姫は完爾とは違って底なしの体力に恵まれているわけではなく、あくまで普通の成人女性並みの体力しか持っていない。忙しくなればそれだけ別のところにしわ寄せが来るのは、しかたがないといえる。
完爾と千種は分担して積極的に家事や暁の世話をして、できるだけユエミュレム姫をフォローするようにしていた。とはいえ、家事はともかく暁の世話に関しては、二人の勤務時間の関係上、頼んでいるシッターさん任せになってしまいがちなのだが。
仕事が休みになる週末には、千種が率先して翔太と暁の面倒をみていた。
いずれにせよ、このユエミュレム姫の多忙さは講座が解説する前後をピークとする一過性のものであるはずだった。
みんなで協力してやり過ごすしか、対処法はなかった。
二月も終わりに近づき、完爾はコンサルティングの事務員二人に白山さんという人が入社してくること、それと、この白山さんは主として来年以降に立ち上げる予定の会社の準備活動のために来てくれることなどを説明した。
あわせて、白山さんが使用する什器や文具類を発注して、入社日に備える。
コンサルティングの事務所は二人だけで使用するのには広すぎるくらいだったから、特に問題はないはずだった。強いて心配になることといえば、今いる事務員たちと白山さんの相性がどうかという点なのだが、こればかりは実際に試してみなくてはなんともいえなかった。
とはいえ、完爾がみたところでは、三人とも協調性については問題がない人物なので、おそらくは心配するまでもないとは思っているのだが。
そうして完爾たちが忙しい日々を送っている中、以前NHKで放映したドキュメンタリー番組の英語版がBBCでも放映された。細かい編集の違いなどはあったが、内容的にはNHKで放映されたものとほぼ同一だということだった。
例によって問い合わせやなにかが殺到したのだが、そのほとんどはメールによるものであり、悪戯や冷やかし的な内容も以前と比べれば格段に減っていた。
いいかえれば、完爾なりユエミュレム姫なりが真面目に回答をする必要がある問い合わせが多かったということであり、これについては事務員たちの語学力に頼った上で、できるだけ完爾が行うようにした。
その場で返答をすれば済むような問い合わせがほとんどであったが、中には本格的なインタビューや取材を申し込んでくるいろいろなメディアのジャーナリストがいて、これについては一律、
「現在、本業が多忙につき」
という理由で断らせていただいた。
完爾やユエミュレム姫が忙しいのは確かであり、それは今後も継続するものと予想された。
四月を境にユエミュレム姫は一息つけるかも知れないが、今度は魔法の知識や習得法についてまとめてる作業が控えているのだ。
もちろん、完爾も協力をするつもりであったが、いずれにせよ、際限のない取材要請に延々と応じていく余裕はなかった。
そうか、白山さんがいう公式サイトというやつがあれば、こんなときに便利なんだろうな。
とか、完爾は思う。
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ただそれだけの返答で、たいていの問い合わせには間に合うはずなのだった。
そんなわけで、ここのところ、完爾もユエミュレム姫も、多忙は多忙なりに安定した日々を送っていた。
不確定な要素が少なくなってきた、というべきだろうか。
様々な懸念事項を一つ一つ解決していった結果、将来に対する展望がよくなってきて、忙しいなりにも未来に対する希望が見えるようになっていた。
だが、こうした安寧は往々にして予期せぬ出来事によってかき乱されることがある、というのもまた、確かなことであった。
二月も終わり近づいたある日、ユエミュレム姫と千種がほぼ同時に誘拐された。




