通勤ですが、なにか?
ユエミュレム姫は週に何日かバスと電車を乗り継いで城南大学に通うようになっていた。
大学にいくときは、私鉄で新宿まで出て山手線に乗り換え、渋谷でまた私鉄に乗り換えて郊外へと向かう。片道一時間半の道のりを往還していることになる。最初のうち、ラッシュアワーの人混みにもかなり辟易したものだが、本当に混雑する新宿-渋谷間に乗るのははごく短時間でしかないので、まだしも耐えることができた。毎日のようにこれに乗って通勤をしている人々のことをユエミュレム姫は心の底から尊敬した。
一度大学にいってしまうと、牧村准教授だけではなく他の研究室の人からもなにかと質問されるし、その他にも用事が多いので、いつも帰りは遅くなった。流石に終電までいることはなかったものの、十時や十一時頃まで大学内にいることも珍しくはなく、そんな日は完爾の会社に寄ってそこから完爾の転移魔法で自宅まで送って貰うことにしていた。
ユエミュレム姫は明らかに日本人離れした風貌をしているわけだが、通勤途中、あるいは大学内でも特に注目を浴びるということはなかった。ときおり、不躾な視線を貰ったりすることはあるものの、それは主としてユエミュレム姫が整った容姿をしているためであり、物珍しさからではない、と、ユエミュレム姫自身は判断していた。少なくとも東京周辺の人々は外国人にはそれなりに慣れており、出会い頭こそ多少戸惑うものの、こちらが日本語でのやりとりが可能だと判明するとかなり親切になる。翔太が通う保育園の職員や母親たちとのやりとりを思い返してみても、そんな傾向があるようだ、と、ユエミュレム姫は判断する。
そうして出歩くようになったのは例のドキュメンタリー番組がテレビで放映される少し前くらいからだったが、まったく関係のない人がユエミュレム姫の正体を察し、名指しで接触を求めてくる事例は今のところなかった。
一度や二度、あの時間帯の番組で紹介されても、顔が売れて出歩けなくなる、ということもないらしい。今のところは、ユエミュレム姫は首都圏に無数にいる「無名の外国人のうちの一人」として過ごすことができている。
とにかく、自分の足で定期的に都心部に出入りするようになり、ユエミュレム姫はまた少し自分の世界が広がったような気がした。
当座、必要な仕事として牧村研究室への協力を優先するのはもちろんだが、その行き帰りに見かける光景がいちいち興味深い。
駅のホームに並ぶ飲み物の自販機。車窓から見えるケバケバしいネオンサイン。多種多様な、電車内の人々。
そうしたなんでもない光景がユエミュレム姫の目には物珍しく、新鮮に映った。
幸い、大学の空気にはすぐに馴染むことができた。研究室の人々と以前から交渉があったことも大きかったが、城南大学は留学生の受け入れにも積極的であり、人種や国籍が異なる学生も少なくなかったので明らかに日本人とは異なるユエミュレム姫の風貌も比較的人目に立たなかったのだ。
大学内部にユエミュレム姫は長いときは一日十二時間以上滞在し、ビデオカメラの前で延々としゃべったり、いくつかの似たような単語の些細な意味の違いについて説明したり、長々と議論したりして過ごした。
起源や系統を異にするまったく別種の言語間で翻訳を行えるようにするためには、たとえていうのなら砂浜の砂粒ひとつひとつに名前つけて分類するかのような、気の遠くなるような単純作業の繰り返しを避けて通ることができず、研究室の人々もユエミュレム姫から絞れるだけの知識を搾り取ってやろうという気概を持ってこの事業に挑んでいる。
その甲斐あって、日本語エリリスタル王国語の辞書は日々詳細な内容になりつつあった。その内容は電子データ化され、即時に大学のサーバで公開されていた。エリリスタル王国語の基本的な文法などについてはすでに広く一般にも公開されているので、それらの情報を注意深く学習すれば理論上はかなりのところまでエリリスタル王国語を操ることが可能であったはずだった。しかし、それらエリリスタル王国語に関する情報群は未整理のものがほとんどであり、どういう情報がどこにあるのか、というインデックス関係の整理は今の時点ではほとんど手つかずの状態である。ごく普通の人が気軽に学習できるような環境を構築するとこまでは、まだまだ届いていなかった。それについては、今後の課題ということになってくるだろう。
そうした基本的な情報の収集と整理の他に、牧村研究室はこの春までにエリリスタル王国語の学習プログラムまである程度構築しなければならないのであった。
当然、実際に作業にあたっている人たちへの負担はかなり大きくなっており、何日も大学に泊まり込むような人もいた。事実上、不眠不休で二、三日作業して、そのまま失神するように眠る、といった無茶を繰り返している者も少なくはなく、大学の研究室が大学の内部というよりはどこかの強制収容所かタコ部屋に見えることも多かった。
来春から開講する予定の講座には内外の言語学者も少なからず受講希望を出しており、同業者の前に出すものだから、定期等に手を抜いて、とか、お茶を濁して、といった手抜きが憚られる状態でもあり、研究室の面々は緊張しつつも質的な向上を求めて日々神経をすり減らしていった。
そうした人々と比較すると、研究対象であるユエミュレム姫の立場と心情は遙かに気楽であり、長時間拘束されることがあったとしても、あまり気にならなかった。
むしろ、自分の国の言語を理解できるようにするためにこれだけ多くの人々が尽力してくれている、という事実を感銘を受け、積極的に協力をしたい気分になってくる。
現状では、一日かかってユエミュレム姫から収拾したデータを二日から三日かけて解析し、以前に蓄積した情報と突き合わせて整合性を確認し、また新たなデータを収集する、といった作業の繰り返しであったから、ユエミュレム姫が実際に大学に足を運ぶ日は特定の曜日に、というわけではなく、自然と不定期になっていた。
そうしてユエミュレム姫が城南大学に出入りし初めた頃、完爾の方は会社の経営状態を見直した上で、少し人手を増やすことにしたらしい。現状では、ありがたいことに発送が間に合わないほどの注文がでているようだ。その好況がいつまで続くのかということを完爾はどうも気にしているようだが、一時的であるにせよ、売れていないよりは売れている方がいい。
いずれにせよ会社のことに関しては完爾に一任しているので、うまくいっている限りはユエミュレム姫が口を挟むということもなかった。完爾本人は謙遜しているが、完爾は経営者としてもそこそこの才覚を持っていると思う。少なくともユエミュレム姫の目には、未来を楽観しすぎず、いつ最悪の事態になってもいいように一種の覚悟をしているように見えた。
千種がいうことには、会社の経営というのは、うまくいっているときよりもうまくいかなくなったとき、どうやって傷を最小限にして切り抜けるのかという判断やリスクヘッジの方が大切だそうだから、あれで慎重なところがある完爾はそれなりにむいていると思う。
ともあれ、そちらの方は完爾にまかせておいても当面は問題ないように思えた。
そのうち、千種が新しい人材を紹介してくれた。以前からいっていた、既存の会社ではなく、魔法の普及活動についての新組織の中枢になることができそうな人、ということだった。
「金融、ですか?」
「一口に金融といっても、いろいろある。
彼女の場合、大学でも経営学取ってたし、仕事でもM&Aとかをメインにやっていたようだから、まったく新しい組織作りにはむいているんじゃないかな」
職務履歴書などをチェックしても、ユエミュレム姫には仕事の内容が具体的に想像できない部分も多かったので、千種や完爾の補足説明を受けて、ようやく人物像が想像できるようになる。
M&Aとかいう単語についてはときおりニュースで耳にするので、以前、ユエミュレム姫も検索して調べてみたことがある。
「株式とか、そちらのプロということなのですか?」
「昔やっていた仕事はね。
大学で勉強していたのは、もっと広範な知識なんだが……今度はそちらの方をいろいろ試してみたいんだってさ」
「実務経験があり、それなりに人脈もあるそうだから、なにかと役には立つ人なんだろうけど……」
完爾は、積極的に反対意見をいわないものの、その割には言葉を濁す。
「完爾は、その人を雇うことに反対なのですか?」
ユエミュレム姫は、あえてそう訊いてみた。
「反対……なわけではないけど、なんというか、そういう凄そうな人をいれるんなら、おれなんかの出番はあまりないような気がする」




