語学講座準備の現状ですが、なにか?
『希望者が多すぎて、まだ決まっていない枠については抽選になりそうです』
牧村准教授はユエミュレム姫にそう告げた。
春から本格的にはじまる、文科省肝いりのエリリスタル王国語講座の受講生の件であった。
「……同様の内容は、ネットでも配信する予定と聞いていますが」
ユエミュレム姫は、首を傾げる。
なるべく多くの人へエリリスタル王国語修得の機会を提供する……という名目で、やはり文科省が現在城南大学で展開しているコンテンツを拡充するための人員や予算が降りたという。
これも、急遽決定したことだった。
ユエミュレム姫にしてみれば、ネットであれ直接対面して講座を受ける形であれ、学習することには変わらないように思うのだが、牧村准教授によると意外に違うものであるらしい。
『ええっと……ですねえ、ユエさん』
最近では、牧村准教授もユエミュレム姫のことを完爾にならって「ユエ」と呼ぶようになっている。それだけこの二人の距離が縮まって来ている、ということでもあるのだが。
『直接対面する、という以外に、大勢で同じことを学ぶことは、同じような仲間を得ることでもあります。
同じ時期に同じ内容を学んだ友人というのは、これはこれで得がたいものなのです』
牧村准教授は、これまでの会話でユエミュレム姫の世界には学校にあたる施設がないことを知っていた。通学経験がない者にそのあたりのニュアンスを説明するのは、微妙に難易度が高かったりするのだが……。
「ああ。
学友、クラスメイトというものですか」
ユエミュレム姫は、大きく頷く。
「アニメやマンガではよく見かけます」
『いや……そういうのとも、またちょっと違うのですが……』
さて、どう説明したものか……と、牧村准教授は内心で冷や汗をかく。
日本語が堪能だからついつい錯覚してしまいがちなのだが、ユエミュレム姫は現代日本とはまったく隔絶した環境で生まれ育った異邦人なのである。
アニメやマンガだと大抵は中高校性が主役になるからイメージとしてはかなりずれることになるのだが、さてそれをこの場でどのように伝えるべきか……と、牧村准教授は悩みはじめた。
『まず、今回の受講者はほとんど成人していて、それどころかかなり年輩の方も多くて……平均年齢は、かなり高くなります』
決して、初々しいティーンエイジャーたちばかりが闊歩する世界ではないのだ。
初回ということもあって、学会や製造業の研究職で一定の成果をあげているような人材がかなり多い。これについては、政府が密かに手を回して興味を持ちそうな分野に片っ端から声をかけているという噂さえ出ていた。
どちらかといえば、雰囲気でいえば、中高校などよりも生涯教育とかそっちのニュアンスに近くなるのではなかろうか。
「なるほど」
それがわかっているのかいないのか、ユエミュレム姫は真面目な表情で頷いた。
「お年寄りが多いのですか」
うわぁ。そこまでぶっちゃけるかなぁ、と、牧村准教授は思う。
『それも、それぞれの分野ですでに一定の業績を修めている方が多くなる様子です』
「つまり、偉そうなお年寄りが多いのですか」
生真面目な表情のまま、ユエミュレム姫が、言い直した。
……さてこれは、天然なんだろうかボケなんだろうか?
と、牧村准教授は思いはじめる。
「偉そうなお年寄りの相手は故国でさんざん経験していますので、特に問題はありません」
牧村准教授の困惑をよそに、ユエミュレム姫はそう続けた。
『……そうだったのですか?』
「ええ。
むこうは、その、こちらニホンよりもずっと権威とか伝統が幅をきかせていたところでしたので……」
そらまあ、王室とかそっち方面ではそうだったんだろうなあ……と、牧村准教授は納得した。
『主催する文科省が優先権を主張して、最初の受講生の半数を日本人枠として占有しました。
残り半数の未定枠に希望者が殺到しているということらしいです』
牧村准教授は、話題を元に戻す。
聞けば、その講座を受講するために、わざわざ国費や私費で留学してくる人も大勢いる、とかいうことだった。
それから、具体的なカリキュラムについての打ち合わせに移っていった。
会場の都合や、なにより講師のなり手が圧倒的に不足していたので、最終的に第一期の定員は三千名ということになった。受講希望者数と比較すればかなり少ないのだが、直接受講する以外にネットで閲覧できる資料を充実させ、資格試験に近いものも実施して客観的な修得度を計ることが可能な環境を整備する、ということで関係者各位を納得をさせたようだった。
エリリスタル王国語の語彙の収集、意味を辞書のように単語や熟語単位で参照するデータベースや文法の解析についてはもうかなりデータの蓄積が進んでいて、まだまだ未完成で稚拙なものなので公開してはいないが、英語や日本語からエリリスタル王国語に機械翻訳するシステムまで完成している。
今は引き続きそうしたデータを充実させながら、効率的にエリリスタル王国語を修得させるためのカリキュラムの構築を目指しているところであった。
幸い、牧村准教授はそちらの方面の専門家なので、ユエミュレム姫はその牧村准教授の主導に乗る形で相談し、カリキュラムを構築していた。
『とはいっても、まるっきり未知の言語なわけですから、こちらとしましても手探りもいいところなんですが』
牧村准教授は、そういう。
「全く別の世界の言語でも、翻訳が可能であるということ。
別の世界の人間同士が、なんとか意志の疎通ができるということは、よくよく考えてみるとすごいことですね」
ユエミュレム姫も、そういった。
『そうですね。
少なくとも、言語を共有できるほどには似通った頭脳の構造をしているわけでして……』
牧村准教授はそういいかけ、
『でも、それをいったっら、別の世界に同じような生物がいることの不思議に行き着くような気がします』
少なくとも、ユエミュレム姫の属する種族と今の人類とは、交配が可能なほどには近似した種なのであった。
現に、完爾との間に暁が生まれ育っている。
『まったく別の、隔絶した環境にここまで似通った生物が同時に進化したということなのでしょうか?
それとも、ユエさんが今ここにいるように、記録に残っていないような大昔に世界を行き来したような人たちがいたということなのでしょうか?』
案外、後者の可能性だってあるのではないのか? と、牧村准教授は思った。
以前の自分なら一笑に付したであろうが、ユエミュレム姫という実例と日常的に接するようになってから、牧村准教授の思考もかなり柔軟になっている。
別の世界とか魔法とか、一年前の自分だったら絶対に信じなかっただろうな……と、牧村准教授は思った。
だが、そうした疑問の数々は、これから時間をかけてもっと別の分野の専門家が解き明かしてくれるだろう……とも、思った。
今、自分がやらなくてはならないのは、エリリスタル王国語と呼ぶことになった未知の言語を解析し、他の人たちにも修得可能なカリキュラムを構築すること、であり、これは何十万という語彙とそれら使用頻度による格付け、例外にあふれた文法との格闘、地球のどの言語にもない発声法方の教授方法を発案することまで含む。どれも地道な努力を必要とし、なによりも膨大なデータを処理し続けなければ先へ進まない苦行に等しかった。周囲からの期待が大きい割には、今の時点ではさしのべられる手はほとんどない。予算的にも、人手的にも。
もう少しすると、文科省も新設講座用の人手や予算を揃えてくれるということではあったが、何故かそれらのリソースは「教育用途」に限定して使用できる、という制限が課せられていた。
研究用の予算や人員は、結局のところは春の新年度まで待たないといけないらしかった。
牧村研究室のスタッフが一丸となって取り組んでいるからまだしもなんとかなっている状態なのだが。
そんなわけで、牧村准教授の研究室一同も、これでなかなか多忙な日々を送っていた。
ことによると、完爾やユエミュレム姫よりもよほど多忙なのかも知れなかった。




