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それからちょうど一週間。王は約束どおりアリアの元に現れる。
ーーアリアは一瞬の逡巡の後、王の手を取った。
アリアがこの決断をしたのにはいくつか訳がある。
まず、数日前に王から手紙が届いた。そこには先代王妃の政務の日程が書かれており、合わせていかにすれば女優業と王妃の役割を並行させることが出来るか、という王からの提案が書かれていた。
これを真面目に考えている王のことを考えて、アリアはクスッと笑うと共に、自分がこの王の隣に立つことを現実的に考えるようになった。
さらに、王の求婚はいつの間にか噂になっていた。王はできるだけ目立たぬよう、歌劇場の裏口を舞台に選んだのだが、それでも人の目は常にどこかにある。
浮いた話のなかった王と歌姫の恋の噂はあっという間に王都中に広まり、そして思いがけず好意的に受け入れられた。
けれども、やはり一番の理由はアリアが王を慕っていたからだ。
アリアは王と共に過ごす時間が好きだった。
隣にいるのは時の最高権力者であるはずなのに、王の隣はなぜか安らぐ。
そしてこの求婚を断れば、真面目な王は自分との関係を絶って、国の利となる結婚を模索することも容易に想像できる。
その時、アリアは自分が笑って彼を祝福出来る自信がなかった。
王とアリアの結婚は大々的に行われ、国民は国に平和を取り戻した王の慶事を大いに祝福した。
アリアがルジェアの末姫であることも公表されたが、王は巧みに世論を操作する。多くの民は虐げられ、身分を隠して生きてきたアリアに同情した。
10まで王族として生きてきたアリアは、王女として基礎的な教育を受けている。
そのため、本人が想像していたよりもスムーズに王妃としての役割をこなすことが出来ていた。
アリアは多くの政務と妃教育に忙しかったが、それでも歌の練習は欠かさなかった。
王は、彼女のために防音に優れた部屋と、大陸一の職人が作ったピアノを用意して、いつでも彼女が歌えるようにした。
時に王は、アリアが歌っている音楽室を訪れる。すると、彼女は決まって2人の出会いの曲であるあの歌を歌うのだった。
やがて妃教育が一段落し、彼女が政務に慣れてくると、王は本格的にアリアが女優に復帰出来るよう計画を練り始めた。
復帰の舞台は、春の訪れを祝う祝祭の記念講演。
レディオール王国の冬は雪深く、社交も外交も極端に少なくなる。
なので、春先の舞台はアリアが歌劇団と共に練習をするのに都合が良かった。
アリアは政務の合間を縫うようにして、舞台の練習に励む。さすがに主役ではないが、舞台の出来を左右する重要な役だ。
やがて新年を迎えると、王立歌劇場にも通うようになり、少しずつ復帰公演の準備は進められていた。
準備は万全。あとは祝祭を待つのみ。
ーーが、現実はそう上手く行かなかった。
公演当日。急に東隣の友好国である、ヴィセル王国の王がレディオールを訪問したのだ。
理由は、夫婦喧嘩の仲裁を友人であるレディオール王に頼みたい、というなんとも馬鹿げたもの。
しかし、ヴィセルはレディオールの数倍の国土を誇る大国であり、ルジェアとの紛争でも助けてもらった仲。無碍には出来ない。
王は「自分だけで対応しても……」と言ったが、アリアは「何を馬鹿なことを!」と一蹴する。
そうしてアリアは元いた歌劇団の座長に平伏して謝り、その日の公演を欠場した。
その日以来、アリアは女優に復帰することをすっぱりと諦めた。
歌劇団の座長に再び謝り、公演を降板する。
そして、以降舞台に立つための練習を辞めてしまった。
決してアリアは舞台を嫌いになったわけではない。
ただ、王妃と女優の掛け持ちは、あまりにも多くの人に影響が及ぶことを身にしみて知ってしまったのだ。
あの日、密かに用意されていた代役が素晴らしい演技をして、街中の噂をさらったのもアリアに取っては堪えることだった。
その代わりという訳ではないが、アリアはこれ以降、芸術家の保護に力を入れるようになった。
レディオール王国を含め、この大陸における芸術家達は、ほとんどが貴族か裕福な商人のお抱えだ。
俳優、画家、詩人。いずれにせよ後援者の協力があって初めて、その作品を作る場所も、発表する場所も手に入れることが出来る。
純粋に芸術を愛する後援者もいたが……支援と引き換えに邪な望みを持つ者が多いのも事実だった。
アリアはその状況を打破すべく、王と協力して新たな政策を打ち出していく。
国王主宰のコンテストを開き、入選した者には奨学金を与えて、留学を奨励する。
やがて、留学先でその才能を開花させた者達が国に戻って来るようになると、今度は彼らの才能を活かすための劇場や美術館、印刷所の整備に力を入れる。
同時に、国王夫妻は芸術を学ぶための学校を開き、貴賤を問わず、広く才能ある若者を受け入れるようにした。
やがて芸術学校の噂は他国にも及び、多くの芸術家を志す若者たちがレディオールを目指すようになる。
彼らによって、レディオールの王都は随分と賑やかになった。
広く才能を受け入れる自由な気風は、いつしか学者達にも好かれるようになる。
彼らもまたレディオールを目指し、王都で私塾を開き始めた。
すると、国王夫妻はもともと貴族のためだけの学校であった王立学園を、大陸でもまだ数校しかない『総合大学』へと作り変え、学者たちを迎え入れた。
大陸の小国に過ぎなかったレディオールは、いつの間にやら『学問と芸術の国』として、大陸中の若者の目指す場所になる。
王都では多くの大学が競うようになり、中でもレディオール王国大学は大陸一の学府として知られるようになった。
王と王妃は大忙しだ。無論、部下は大勢いるが、短期間で成長した国にはやるべきことがたくさんある。
その上、2人はいくつものコンテストや基金の主宰者でもあり、多くの学校の役員に名を連ねていた。
やがて、2人の生活は徐々にすれ違うようになった。
同じ城の中にいても、話ができるのは会議や社交の場、あとは朝食の時に多少という程度。
もちろん、公の場で大っぴらに私的な話をするわけにはいかないし、朝食の時も仕事に関する話が優先となる。
当然、2人で余暇を楽しむ時間などないし、寝室も早い内に分けられている。
2人の関係は段々と冷めたものへと変わっていった。とはいえアリアは女優だ。
王もまた、昔から顔芸を得意としていたので、表向き理想の王と王妃を演じることは難しくなかった。
表舞台では愛し合う国王夫妻を演じきり、裏ではレディオールの発展の為に走り回る。
これがここ十数年の2人の生活だった。
「けどね。別に私は陛下が嫌いになったわけではないのよ」
「……本当ですか?」
不意に昔話を途切れさせたアリア。
彼女の言葉にコニーは訝しげな表情をするが、当のアリアの顔はというと優しげだった。
「ええ。芸術家の保護は私の望むところだったし、レディオールの発展は私達の使命。忙しいのは仕方ないわ」
「ですが……」
「それにね、なんだか陛下とは同志みたいだったの。毎朝2人で成果を報告しあって、会議で闘って、社交の場を演じるーー王妃、という役よ」
「で、代わりに恋を捨てたのですね」
「……コニー」
母に対してなんとも生意気な口をきく息子を、王妃は咎めるように見上げる。
ちょうど2人の政務が忙しくなり始めた頃に生まれた王子も、今ではとうに王妃の背を抜かしてしまっていた。
「陛下とたまに話してたのよ。コニーが独り立ちして、王冠を任せられるようになったら何をしましょう? って……旅に出るのも良いし、観劇三昧も良い、離宮でのんびり過ごすの悪くないわーー」
「父上と母上がのんびり過ごしている姿など、想像出来ません」
「本当よ、コニー。あなたも随分頼もしくなったし、もう一踏ん張り、と思っていたのだけどね……」
若い頃から無理を重ねていた王の体は、着実に蝕まれていた。
ある日、突然倒れた王。
その知らせを聞き、王妃は大慌てで王立大学での会議から帰ってきた。
王妃が仕事を中座するのは、コニーが幼い頃、剣の授業中に怪我をしてしまった時以来だ。
可能な限り馬車を急がせて城に戻った王妃が見たのは、ベッドに力なく横たわる王の姿だった。
それでもまだ多少の意識はあった王は、王妃の姿を視界の端に認めると、ほんの少しだけ口角を上げる。
そんな彼の元に、王妃は裾をからげて駆け寄った。
「陛下ーー 」
王を呼ぶアリア。そんな彼女に王はか細い声であることを願った。
「……歌って欲しい。あの曲を……私はあの曲を聞いて天に向かいたい」
「何をおっしゃってるのですか陛下! でしたらそれはずっと後です。あの曲でしたら元気になったらいくらでも歌って差し上げます」
王はあの曲、としか言わなかったがアリアにはそれがどの曲か分かる。
『恋か歌かは選べない』
アリアが舞台を諦めて以来、口ずさむことさえやめてしまった曲だ。
「……なるほど。ではなんとかして病に勝たねばな……」
そう言う王だが、その声に生気はない。やがてアリアが握る右手から力が抜け、王は昏睡状態に陥った。
「だから今、私は歌っているのよ。陛下が元気になった時、下手な歌声は聞かせられないじゃない?」
王妃はふわりと笑ってそう言う。その表情は少女のようでさえあった。
「……分かりました」
「えっと……コニー?」
母の顔を見て、何かを悟ったように息をついたエルン。と、彼は不意に彼女の手を引いて扉の方へ向かった。
「ちょっと! コニー! 何をするの?」
突然の息子の行動に思わず声を上げるアリア。しかしすでに体格では勝る息子に抗うことは出来ず、アリアはコニーが導くままに城の複雑な廊下を走った。
「ちょっ……コニー……私も歳なのよ……」
ようやくコニーが足を止め、肩で息をするアリア。その視線の先にあるのは王の主寝室だった。
「母上。元気になったら……などとおっしゃらず、今歌って差し上げて下さい。父上にも思うところは多々ありますが、最期の希望くらい叶えて差し上げても良いでしょう……」
「コニー……」
「さ、母上! 皆退出を……私が許可するまで部屋に入ることは許さぬ」
慣れた手際で人払いをし、アリアの手を王の傍まで導いて部屋の外に出るコニー。
……やがて部屋の中からは美しい歌声が漏れ聞こえ初めた。
『恋か歌かは選べないーー』
ワルツだ。可愛らしく美しく、そして切ないワルツだ。
部屋から追い出された人々はどよめいたが、やがてある人ーー王の最側近だった男ーーが「陛下の好きだった歌だ」と呟く。
その声に、他の人々も「ああ、あの!」、「確かにそうだ」と口々にささやき合う。
やがて、彼らは誰からともなくその可愛らしいワルツを口ずさみ始めた。
そのメロディーはやがて城中に伝わり、そして城を守る衛兵達もこの歌を歌い始める。
いつの間にか、ワルツのリズムは街の中にも伝わった。
いてもたってもいられぬ人々が集まった広場で、
もう数日、幕を空けていない歌劇場で、
そして、教会で、
楽器を弾くことが出来る者は美しく可愛らしい旋律を奏で、そうでない者は切ない歌詞を歌う。
『恋か歌かは選べない
貴方が恋を選ぶなら、貴方は何かを失うでしょう
恋か歌かは選べない
貴方が歌を選ぶなら、ここで貴方とお別れよ』
いつの間にか、王都のいたるところからこの歌が聞こえて来るようになっていた。
人々は王のため、祈り、そして歌う。
けれども人々は知っていた。これは悲恋の歌だ。
愛し合う2人はやがて……悲しみに引き裂かれるのだとーー




