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その日、レディオール王国は悲しみに包まれていた。
国民誰もが敬愛する国王レナートが病に倒れたのだ。
彼は一介の小国に過ぎないかの国を、芸術と学問の国へと押し上げた。
文化の華開く王都は芸術家や学生で溢れ、その賑わいがさらに人を呼んだ。
彼らが落とす金貨や銀貨で国は潤ったが、国王は決して贅沢を好まず、それを民のために使った。
ある時は街道を整備し、ある時は教会と協力して学校を作り、東の伯爵領が長雨で困窮すれば惜しむことなく、助けを出した。
王はまた愛妻家としても知られていた。
とあるこれまた小国の、虐げられられていた姫君だ。
彼がまだ若く、多少やんちゃだった頃、身分を隠して歌姫として暮らしていた彼女に一目惚れしたとかーー
王妃は優しく、そして賢い。
出自にやや難ありの王妃を守るべく、王は懸命に働いた。王妃もしかり。
愛しあい、信頼しあう2人。王国が豊かになった今、王妃の育ちに難をつけるものなどいない。
理想の王。
ただ、長年の無理は、少しづつ王を蝕んでいた。
それは突然。頭痛を訴え倒れた王。
彼はそのまま昏睡し、医術もまるで効かぬという。
ついに今夜が峠だと、侍医はお触れを出した。
人々は祈る。
教会で、広場で、家でーー奇跡を信じて祈り、歌った。
それは神に祈る、古くから伝わる歌だ。
厳かで、清らかな歌。国民は皆、歌った。
普段はギターをかき鳴らす酒場の歌唄いも、国への小さな不満を面白おかしく歌う大道芸人も。
皆、同じ歌を歌っていた。歌は国を包み、大きな祈りとなる。
……この歌を歌わないのはたった一人だけだった。
お城の奥。控えめながら質の良い調度に囲まれた王妃の私室。
そこからは華やかで、楽しくて、可愛らしい歌声が聞こえていた。
ワルツだ。祈りの歌ではない。
有名な音楽劇の一曲。誰からも愛される、スタンダードナンバーだ。
『恋か歌かは選べない
貴方が恋を選ぶなら、貴方は何かを失うでしょう
恋か歌かは選べない
貴方が歌を選ぶなら、ここで貴方とお別れよ』
口ずさむ程度だった歌声はやがて大きくなり、廊下にも漏れ聞こえだす。
それに、ある男が眉を顰めた。
「母上!」
「あら? コニー? ノックぐらいなさい」
先触れどころか、ノックもせずに私室に入ってきたひとり息子に眉を潜める王妃。
一応お伝えしておくと、コニーは普段からこんな無作法をしている訳ではない。今日はそんな余裕がなかっただけだ。
「それどころではありませんよ、母上。なんという歌を歌っているのですか? 不謹慎な……」
「なんという……ってコニーもよく知ってるでしょ? 名曲よ」
王妃に負けず劣らず険しい顔をするコニー。
しかし彼の言葉を聞いた王妃は、いまだ揺るがぬ美しい顔に、愛らしい笑みをうかべてみせた。
「知っておりますよ! 私も好きな歌です。ーーけど、死別する男女の歌など今歌わなくても良いでしょう? それとも愛想が尽きた陛下への当てつけですか?」
「あら? 愛想が尽きたって……誰が誰に?」
息子の言葉にポカンとする王妃。いっそ子供らしくさえある表情にコニーは「何を今さら」とばかりに嘆息した。
「取り繕わなくても結構です。想い、想われる理想の夫婦とは仮の姿。実際の陛下と母上は長らく寝室も別。2人になれば事務的なこと以外話さない仮面夫婦なのでしょう?」
「誰がそれを……?」
「ご心配なさらずとも気付いたのは最近です。帝王学の基本は人を知ることですから。後は多少、腹心の者達に頼んで探りを……」
「コニー! あなた私達相手に諜報部員を差し向けたわね!?」
さすがの王妃も声を荒げる。
ーーが、すぐに冷静な表情に戻った。
「まあ、良いわ。あなたもそれだけ成長した、ということでしょう? ……でもまだまだ子供ね」
そう言って王妃は、含み笑いをする。くるくると変わる表情に、エルンは実の母ながら一歩距離をとった。
「私はもうすぐ立太子ですが……そういう意味ではありませんね。母上」
「えぇ、そうよ。人生経験が足りない、ということ」
王妃はまるで舞台女優かのように、深い笑みを作る。
「……でも、思っていたよりはずっと大人なようですし、教えておきましょうか」
彼女が一歩コニーに近寄り、2人の距離が元に戻る。
「あなたの父親がどんなに酷い人で、あなたの母親がどんなに愚かだったかをーー」
「紳士淑女の皆様! ありがとうございます! ありがとうございます。ーー本日はこの王立歌劇場という晴れ舞台をいただき至極恐悦。我らが誇る歌姫アリアも大変喜ばしく思っていることでしょう」
それは王がまだ独身だった頃のこと。
レディオール王国の王立歌劇場はまさに熱狂の最中だった。
王国で今最も人気の歌劇団。マイルズ・テイル歌劇団が満を持して、王立歌劇場にやってきたのだ。
中でもひときわ注目を集めたのは、可憐な容姿と透き通るような歌声で知られた歌姫アリア。
観客の拍手喝采はまさに今、彼女に降り注いでいた。
「皆様ありがとうございます。……さて、本来ですとここでお別れなのですが、本日は特別です。皆様の拍手にお応えし、我らが歌姫がもう1曲だけ披露しようよ思いますが……いかがでしょうか!?」
正装に宝石のついたステッキを手にした男がもったいぶった様子で客席へ問う。
当然、客席は拍手喝采をステージへ向けた。
「ありがとうございます。では……お聞きいただきましょう。我らが歌姫、アリア・ベリエの十八番。『恋か歌かは選べない』です。どうぞ!」
男が舞台袖にはけると、図ったようにオーケストラが演奏を始める。そして劇場には愛らしい歌声が響き渡った。
『恋か歌かは選べない。
あなたが恋を選ぶならーー』
「ミュラー? この曲は今日の演目にはなかったな……」
「えぇ陛下。多少皮肉的な演目ですから、避けたのでしょう。ーーとはいえこの曲は外せなかったようですね」
歌の最中にも関わらず、隣の席に声をかけたのは若く、俳優かと思わせる美丈夫。
今はさる一介の貴族、ということになっている王の言葉に、彼の腹心たるミュラーという侍従は声を潜めて答えた。
「ほう……『皮肉的な演目』とは?』
「歌姫とさる高位貴族の悲恋です。見目麗しい公爵に一目惚れされた歌姫は、舞台の道を捨てて公爵夫人に。しかし歌姫に恋をしていた公爵は、やがて貴族夫人らしくなった彼女に飽き、新たな愛人を作ります。
結局、公爵は金を渡して歌姫と縁を切り、絶望した彼女は自死。その間際、自分の選択を悔やんで歌う歌がこれです」
「……の、わりには明るい歌だな」
舞台で奏でられるのは、明るいワルツだ。アリアという歌姫の表情も明るく、歌声は軽やか。
ーーしかしよく聞くと、その歌詞は確かに鬱々としたものだった。
「『歌を捨てれば私じゃなくなる、恋を捨てればあなたといれない』。辛い心持ちを、それでも歌が好きだ、という気持ちに乗せて軽やかに歌い上げるのが良いそうです。相反する思いを表現しなければならない故、難しい曲だとも……」
「なるほどーー」
あらためて舞台を見えば、確かに魅力的な歌姫だ。もちろん容姿もさることながら、それ以上に歌に対する熱を感じる。
あくまでメロディーは軽やかだが、その一音一音を彼女は噛み締めながら歌っているようだった。
彼女の表情をもっと見たい、と思わずオペラグラスを手に取った王。
ーーしかし彼の目に写ったのは思わぬものだった。
「此奴……何をする気だ?」
「何か見えましたか?! 陛下」
王にしては珍しい焦った声に、ミュラーも慌ててオペラグラスを手に取る。
その視線の先では、まさに一人の男がごく小さな短刀をコートから取り出し、舞台へと駆け上がっていた。
「な、なんだあいつは!」
「誰か!?」
異変に気づいた最前列の観客が悲鳴を上げる。
が、そんなことは当然のように意に介さず、歌姫の元へ一直線に走る男。
……しかし、その凶刃が歌姫へ向かうことはなかった。
「そなた、誰に刃を向けている。王の暗殺は未遂であれ即極刑と決まっているが?」
「な、なぜお前が!?」
「陛下になんということを! 口のきき方を考えろ!」
刺客の前に2階席からひらりと舞い降りたのは王その人。
思わず唖然とする刺客に、慌てて王を追いかけてきた護衛が相対する。
一瞬にして歌劇場は騒然とした。
「陛下も陛下です! どこの世界に自ら刺客の前に躍り出る王がいるのですか!?」
「すまない、体が勝手にーー説教は後で聞こう。ミュラー! 加勢しろ! ルーゼス以下は客席の安全確保だ!」
「「「「「はい、陛下!」」」」」
王の指示に近衛隊長ルーゼスと配下の騎士たちがピシリと答える。
非常識すぎる王の行動に青筋を立てていたミュラーも
「本当に後でお説教ですからね!」
と叫びつつ、剣を構え直した。
多勢に無勢。無勢は刺客の方だ。
しかし、ここで引くわけにもいかない彼は覚悟を決めたかのように、王へと短刀を向ける。
カーンと高い音がして、刃が交わった。
決着はすぐについた。2対1。しかも王もその最側近ミュラーも剣の名手として知られていた。
なんともあっけなく刺客は武器を取り落とし、王に腹を蹴り上げられて気絶する。
ぐったりした男をミュラーが手早く縛り上げた。
近衛達の手によって、観客席も落ち着きを取り戻し、すでに賓客から順に劇場の外への誘導が始まっている。
王国一の歌姫を狙った暗殺は、国王その人によって防がれたのだった。
「そのほう、アリアと申したな。怪我はないか」
「は、はいっ陛下。この度は命をお救いいただき、いくら感謝を申し上げても足りません」
緞帳が降ろされた舞台で、国王は不意に舞台袖へと避難していた歌姫に目を向ける。
彼に声をかけられ、彼女は可哀想な程飛び上がってから、慌てて彼の前に頭を垂れた。
「いや、余が勝手にしたことだーーとにもかくにも怪我がなくて良かった」
「……陛下」
恐縮するアリアに近寄った王は、努めて柔らかい笑みを作り、彼女に顔を上げるよう促す。
そうして2人の視線が合う。
共にまばたきしあい、王は「それから……」と付け加えるように口を開いた。
「本日のそなたの歌。誠に素晴らしかった」
それだけ言うと、王はミュラーと共に踵を返す。
と刹那、よく通る声が舞台に響いた。
「陛下! な、何かお礼を出来ませんでしょうか」
「「「「「歌姫!?」」」」」
王に背後から声をかけるなど言語道断。
あまりの無礼に王の側近達が目を剥く。
……が、当の王はニコリと笑うと、さっと手をあげて側近たちを制し、再びアリアの元へ視線を向けた。
「1週間後。またそなたの歌を聴きに来よう。その時に茶にでもつき合ってくれるか?」
「も、もちろんにございます! そのようなことでよろしければ!?」
思わぬ提案にアリアが思わず声を上ずらせる。
そんな彼女に
「楽しみにしているぞ」
と一言かけた王は今度こそミュラーと共に劇場を後にした。




