第二話
軍勢を背にバアルは荒れた大地に馬を進めた。
前方には後方に控えるイルの軍勢の倍を超すヘブライ人の軍団が控えている。
蟻のように群がるヘブライ人の軍勢から一人の人間が進み出る。
人の群れからさまよい出るようなその人影は寂しげにも見えたが、それでいて後方に控える軍団より数倍も威厳に満ちているように見えた。
バアルと人影とは軍団同士の狭間で相まみえた。
馬に乗ったバアルが徒歩の人影を見下ろす形になるが人影は露程も怯まない。
バアルは人影の勇気に感心すると幾許かの親愛の情を込めて声をかけた。
「我はカナンの地を収める神々の一柱に属すバアル。貴殿の名を名乗られよ」
「我は預言者ヨシュア、神の代理人として、神が約束した土地をもらい受けに来た。貴公らには神の土地から即刻退いてもらいたい」
「これはおかしなことを言う。確かにカナンには幾多の神々がいるがその誰一人として貴殿らに土地を約束した者はいない」
「おかしなことを言うのは貴公の方ではないか。神はこの世界にただ一人、我々ヘブライ人が崇める神だけだ」
「どうやら、我々は根本的に分かり合えないようだ。となれば後に言葉はいらない。ただ、剣を交えるのみ」
「どうやら貴公ともようやく分かり合えることがひとつ見つかったようだ」
ヨシュアは不敵な笑みを浮かべると背を向けた。
その一見無防備な背中に、数百の剣を束ねたよりも勝る圧力を感じバアルは内心身震いした。
自陣に帰ったバアルは自らの剣で、明けの明星を意味する名を持つシャヘルを抜くと天に掲げた。
陽光を受け白銀の刃が煌めく。数千の兵のどよめきが一瞬で鎮まる。
後には砂漠の砂が擦れる乾いた音が残された。
兵の誰かが唾を飲み込む音がどこまでも響いた。
バアルが彼方にいる敵の軍団を両断するかのように剣を振り下ろした。
「突撃」
号令をかけるとバアルは単騎で戦場へと駆けた。
バアルの声は勇ましさに満ちていたが、それでもカナンの大地はあまりに広大だった。
声が聞こえなかった兵もいただろう。だが、バアルの号令に呼応した兵士の雄叫びが波紋のように伝播していく。
やがて一人突出していたバアルの後ろを兵の叫びと馬の蹄が大地を踏み鳴らす音とが混沌の波となって追った。
前方でも敵の軍団が大きな波となって迫り来る。
最前線にいて大いなる獣のようなその波を乗りこなすのは逞しい馬に乗った預言者ヨシュアだ。
バアルは好敵手と合間見えた悦びに静かに打ち震え自然と笑みが溢れた。
バアルの手にした剣の剣身に沿って風が流れた。
バアルが剣を振るうと戦場の間を風が吹き抜け、やがて巨大な渦となる。
二つの軍団の間に現れた竜巻は、ゆっくりとヘブライ人たちの軍勢に迫ると兵士たちを天高く巻き上げた。
天に達したヘブライ人たちはやがて勢いを失い大粒の雨となって大地に降り注ぐ。
バアルは人の雨の中を縫って進んだ。
ヨシュアとバアルの距離が近づく。二人は交差し剣同士がぶつかり合って火花を散らす。
二人は距離を取った。二人の間の距離はそれほどでもなかったが、その差を縮めるには永遠でも足りないほどの距離を隔てているような気がした。
永遠を挟んで両岸に立った二人は静かに睨み合う。
喧騒が消え失せたように二人を静寂が包む。
静寂は一瞬だった。両側から寄せてくる波に飲まれて二人は互いの姿を見失った。
両軍入り乱れた混沌とした戦場をバアルは恋人を探し求めるかのように見回した。
カナン人の返り血に塗れて戦うヨシュアを見つけるとバアルはそちらに馬の頭を向けた。
迫り来るヘブライ人たちをバアルは切り伏せて進む。
ヨシュアもバアルを見つけたらしく鬼気迫るそれでいて嬉々とした表情で敵を切り伏せ近づいてくる。
だが、雑兵の数は多く、二人の歩みは中々思うように進まない。
バアルは自分が海を分けて人々を導いたモーセだったらとこれほど思ったことはなかった。
おそらくヨシュアも同じことを考えているだろうということがバアルには分かった。
この戦いの僅かな間の中でバアルはヨシュアに奇妙な絆を感じていた。だが、それは一方的なものだ。戦いに喜びを見出す英雄神であるバアルと厳格な懲罰の神に使えるヨシュアとは考え方が根本的に異なるのだ。
バアルにとって敵とは互いを高め合える存在だが、ヨシュアにとって敵とは神の意志に反する悪しき存在なのだ。
どちらの神の導きか、人垣の間にバアルとヨシュアを繋ぐ一筋の道が出来た。
その瞬間を二人は見逃さなかった。
馬の腹を蹴り、加速する。
相反する二人が再び剣を交える。
二人が一瞬すれ違った後、馬は歩みを緩める。
互いに背を向けたまま数拍の時間が流れた。
だが、結果を見るまでもなく、二人は互いの命運を理解していた。
ゆっくりとヨシュアの身体が傾いだ。重い音を響かせヨシュアが地面に倒れる。
ヨシュアの脇腹から血が流れ出る。傷は命を奪うほど深くはない。
バアルが急ぐこともなくヨシュアへと馬を近づける。
戦場は二人の存在を忘れ去ってしまったようだ。
バアルを止める者もヨシュアを助け起こす者もいない。皆、自分のことで手一杯だった。
ヨシュアの目の前に馬の蹄が落ちた。ヨシュアが見上げると、太陽の影になって暗くなったバアルの顔があった。
僅かに見えるその表情は、剣を振るっていたときの楽しげなものとは打って変わって、この世界の残酷さを憂うかのように悲しげだった。ヨシュアはその顔に神を見た。
ヨシュアは自分の信じる唯一神と愚かな蛮族たちが崇める多神の一柱を同一視してしまったことを激しく後悔し、天上の神に懺悔した。
ヨシュアの心情を知らずか、無慈悲にもバアルは剣を振り上げた。いや、むしろヨシュアの気持ちを知っているからこそ、慈悲をかけてはやく彼の信じる神の元へ送ってやろうと思ったのかもしれない。
ヨシュアは祈るように瞼を閉じた。
剣が風を切る音がする。この世界への諦観と天上へ旅立てる喜びとがヨシュアの胸を満たした。
キィィィンという金属同士がぶつかり響く甲高い音がした。
閉じた瞼を通過するほどの激しい白光が目を焼いた。
天上への扉は未だヨシュアの前に現れない。不思議に思いヨシュアは瞼を開いた。
そこにはバアルとつば競り合う一人の男がいた。
男の長い髪はあらゆる罪人を燃やす業火のように赤く、手にした剣には互いを食い合う二匹の蛇のような火が纏わり付いていた。
そして男の背中から生えた一対の白い翼はヨシュアを優しく包み込むように広がっていた。
翼からこぼれ落ちた羽が雪のように舞っている。
「おお、神よ」
ヨシュアの口から感動の言葉がこぼれ落ちた。
「いや、私は神ではない」
男は冷酷にも否定する。その言葉にはヨシュアを責めるような響きさえあった。
「私は神に仕える四大天使が一人、ミカエル。神に仇なす敵を打ち払うべく天上より地上へと遣わされた」
ヨシュアの目からは喜びの涙が止めどなく溢れた。
「大天使よ、私を救ってくださるのですね」
ミカエルは瞳だけを僅かに動かしてヨシュアを見た。その燃えるような瞳は、色合いに
反して思わず身体が震えるほどに冷たい。
「そうだ。愚かな人間よ。私がおまえを導いてやろう」
ヨシュアはミカエルの言葉に何度も頷く。ヨシュアの戦場にいたときの老練な戦士としての姿はなく、親にすがる子供のような姿にバアルは興ざめした。
自分に目を向けないミカエルに業を煮やしたバアルが、裂帛の気合いと共に吹き荒れる風を起こす。
ミカエルの炎とバアルの風がぶつかり合い、二人の間に円盾状の薄い膜が出来る。
炎と風が拮抗した衝撃で二人は弾けるように後ろに跳んだ。
ミカエルは翼をはためかせると空へと飛び上がった。空中では三人の天使がミカエルを待っていた。
一人は流れる水のような豊かな青い髪の女天使ガブリエラ。その手には冷気を放つ槍が握られている。
もう一人は、少年の姿をし、新緑のような色の短髪をしたウリエル。その手には風を操る弓を携えている。
最後の一人は屈強な肉体のラファエル。得物の戦槌は大地を割る。
ここに四人の大天使が揃った。
死屍累々の戦場に立っている者はほとんど残っていなかった。
多くの者が息絶え、傷つき倒れ、軽症で済んだ僅かな者も疲れ果て膝をついていた。
残された者たちは、皆、天使たちを見上げた。
バアルでさえ例外ではなかった。多神の一柱のバアルも地上から天使を見上げる姿は人間と同じように見えた。
「我らが唯一神を差し置いて神を名乗る不届き者よ。神に代わり我ら四大天使が鉄槌を下す」
ミカエルが不遜な態度でバアルを見下ろして言った。
「なるほど、下の者では埒が明かず、態々大天使殿がお越しくださったわけだ。では、貴殿と俺の一騎打ちで雌雄を決しよう。なに、心配することはない。貴殿らは四人で一人前ということで構わない。それとも四人でも半人前かな」
バアルはミカエルの無礼な態度を吹き飛ばすかのように呵々大笑した。
「その言葉、後悔するなよ」
ミカエルは僅かな感情も込めずにそう言い放った。
その言葉を合図に四人は散開した。どうやら、本当に四人でバアル一人を相手にするつもりらしい。
ここでも、バアルたち多神教とミカエルたち唯一神教の考え方の違いが見えた。
バアルは戦いの名誉を重んじるが、ミカエルたちにとって戦いとは罰を下すこと、だから正々堂々と戦うということもないのだ。唯一神に従う自分たちは常に正しいのだから。
天使たちにとって戦いの作法などというものは蛮族の風習に過ぎない。
正面に残ったウリエルが弓を引く。放たれた矢は風を纏いバアルに襲いかかる。
バアルは剣に風を巻き付け振るった。
剣と矢、風と風がぶつかり、周囲の物が吹き飛んだ。
「おまえのような蛮族の神が、僕と同じように風を操るというのか」
ウリエルがまだ幼い顔に似つかわしくない醜悪な怒りの表情をする。声変わりをしていない甲高い声は引きつっていた。
「貴殿も風を操るのか。なるほど貴殿の技は俺の猿真似というわけだな」
バアルの皮肉に幼いウリエルは容易く逆上した。ウリエルは立て続けに二本の矢を撃った。むきになったウリエルは自分の技を見せつけてバアルの言葉を否定しようというのだ。そこがまた子供じみている。
矢は二手に分かれると曲線を描いて左右からバアルを挟んだ。
一本の剣では二本の矢は捌けない。
二本の矢がバアルの貫くと交差した。血しぶきが上がる。
バアルの身体が傾いだ。端から見ればバアルが落馬したように見えただろう。だが、実際は違った。
バアルの身体は地面につく寸前、宙で止まる。バアルは馬の胴体を挟んだ二本の足だけで身体を支えていた。
バアルは矢が迫り来る瞬間、身体を投げ出し、矢を躱していた。
貫いたかのように見えた矢は、実際にはバアルの肉を僅かに削いだに過ぎない。
それでもバアルは中々の深手を負わされていた。バアルは敵の技量に素直に感嘆した。
バアルは腹筋の力だけで上体を起こした。手綱を取り、馬を加速させる。
バアルの馬の下で風が渦巻く。馬は加速が頂点に達すると身体を沈み込ませた。
馬が跳躍した。風が爆発して、バアルを乗せた馬を空へと押し上げる。
ウリエルは自分と同じ高さまで上り詰めたバアルと目を合わせると驚愕する。
対するバアルはウリエルと反するように勝ち誇った笑みを浮かべた。
驚愕したまま強ばるウリエルの顔面めがけてバアルは剣を振り下ろした。
我を取り戻したウリエルは慌てて矢を放つ。
矢がバアルの剣を受け止めて両者は拮抗する。
風が荒れて、二つがぶつかり合う甲高い音が響いた。
だが、拮抗はあっけなく終わった。バキッという異音がしたかと思うと矢が二つに割れた。
バアルの剣はそのままウリエルを袈裟斬りにする。
ウリエルは錐揉みして落ちていく。
バアルはウリエルが地面に達するのを見届けることなく着地した。
愛馬の四本のたくましい足が大地を踏みしめた。そのときだった。轟音がしたかと思うと、大地が揺れ、地面が割れた。
馬の足がむなしく宙をかく。バアルは身体の重さが消える感覚に思わず寒気を感じた。
岩肌が上へと流れる。それを見てバアルはようやく自分が奈落へと落ちていることに気がついた。
バアルは馬の背に立つと鐙を蹴って宙へと飛び上がった。
ようやく青い空が見えたときバアルは心の底から安心した。
下方では奈落へと愛馬が消えていくのが見えた。苦楽を共にした相棒への申し訳なさが胸の内へ湧いた。
大地に出来た切れ目の端には戦槌を振り下ろした姿勢のままのラファエルがいた。
奴が大地を割ったのだ。
バアルは風を起こし自らの背中を押すと、愛馬の敵を取るべく急降下した。
ラファエルは戦槌を構える。バアルは勢いそのままに戦槌を蹴った。
流星のようなバアルの跳び蹴りにラファエルは体勢を崩す。
バアルはすかさず倒れたラファエル目がけて剣の切っ先を落とす。
氷の破片が舞った。
ガブリエラの持つ氷の槍がバアルの剣を止めていた。
バアルはガブリエラの海のような美しい瞳を間近で見据え、思わずため息を漏らしそうになる。
槍の切っ先が跳ね上がる。槍の描いた軌跡が凍り付いて氷柱になる。
槍が舞い踊るたびに、槍の軌跡が氷の牢獄となりバアルの動きを封じ込めていく。
槍と剣が打ち合うたびに火花の代わりに氷片が散る。
二人の足場は雪で白く染まっていた。
ガブリエラの背後でミカエルが剣を構えて炎を練り上げていた。
炎の刃が伸びる。
ミカエルが巨大な炎剣を横に薙いだ。飛び上がったガブリエラの下を炎剣が通り過ぎる。
しかし、氷の牢獄に囚われたバアルは炎剣を躱すことが出来ない。
急いで練り上げた風の壁と剣で炎剣を防ぐが、勢いは殺せない。
炎の刃が肌に触れ、肉を焦がす。苦痛でバアルは呻いた。
地面から足が離れた。身体を囲んだ氷柱を砕きながらバアルが吹き飛ぶ。
衝撃で朦朧とする頭を振りながら、バアルは起き上がる。その隙を突いてミカエルが距離を詰める。
ガブリエラもミカエルに合わせて跳んだ。バアルが体勢を立て直す前に槍を突き出す。しかし、それは相手の隙を突いたようでいて、慌てて出した迂闊な一撃だった。
それを見逃すバアルではなかった。ガブリエラを一瞥もすることなく槍の穂先を掴む。
氷の穂先がバアルの手の平を灼いた。
バアルが苦しげに眉根を僅かに寄せたが、口元は勝利の喜びで緩んでいた。
ぐいっと槍ごとガブリエラの身体を引き寄せる。剣が白銀の弧を描いてガブリエラの首筋に引き寄せられる。
「ガブリエラッ」
ミカエルが普段の冷静さからは想像できないような悲痛な叫びを上げる。
バアルの剣はガブリエラの雪のように白い首筋にピタリと当てられていた。
そしてミカエルの剣もまたバアルの首をとらえて止まっていた。
三人は硬直する。僅かでも動けば均衡は崩れる。だが、身体という物は意図せず動いてしまう物だ。実際、バアルの剣身は僅かだが揺れていた。ガブリエラの美しい肌を刃が少しずつ侵していく。玉のような血が肌に浮かんだ。
ミカエルの表情は緊張で強ばっている。額に汗が伝う。
「そうか。この天使が貴殿の愛した女性か。正直、貴殿はもう少し堅物かと思ったぞ」
自分の命が他人に握られているというのにバアルはどこか楽しげだった。
「私に愛した女などいない。ただ、神への愛があるのみだ」
ミカエルは無表情で言った。その心中はうかがい知れない。
「ほう。なら、俺がこのまま剣を振るっても貴殿は構わないというのだな」
巫山戯るようにバアルが言う。
「そうなれば、貴様の首を私が落とす」
冷たく告げるミカエルにバアルは余裕の笑みを崩さない。
「それもまた一興かもしれんな。大天使の一人とこの命が引き換えなら悪くもない。俺は天でこの戦いのいく末を酒でも飲みながら見物するとしよう。だが、貴殿らと行く天が違うのが残念だ。まだ貴殿らと剣を交えていたかった」
ミカエルは僅かの間逡巡する。沈黙が二人の間を流れた。
「わかった。貴様が剣を引けば、私も剣を引こう。そこで仕切り直しだ」
「フフフ、その言葉を待っていたぞ。戦を指をくわえて見ているなどつまらんからな。この俗界で限りある命のままに思う存分切り結ぼうぞ」
二人は静かに剣を下ろした。バアルはミカエルとの間に生じた奇妙な沈黙を打ち消すかのように親愛の情を込めてミカエルに微笑みかけた。
風切り音が響き渡った。砂塵を巻き上げて矢が光の速さで飛ぶ。
矢はバアルの胸に深々と突き刺さった。バアルの身体が跳ね飛ばされる。
奇妙な話だが、バアルは油断していたというよりは、ミカエルたちを信頼していたと言ってもいいかもしれない。だが、その信頼は裏切られた。
どさり、とバアルの身体が地面に落ちた。バアルの身体は僅かに身動ぎすることもない。
ミカエルはそれを信じられないと言った面持ちで眺めていた。目の前の状況が上手く飲み込めなかった。
「やりましたよ、ミカエル様」
ウリエルがパタパタと嬉しそうに駆け寄ってくる。その姿はまるで子犬のように可愛らしかった。
「どうです。ミカエル様、僕が奴を討ち取りました。これで大天使に取り立ててくださったミカエル様へのご恩をお返しすることが出来ました」
ウリエルは子犬がこれからご褒美に頭を撫でてもらえるのを期待するかのように目を細めた。
「黙れ」
ミカエルの静かだが地を震わせるようなつぶやきは、まるで地獄の最下層に位置する氷の湖コキュートスから這い出てきたかのように、冷たく恐ろしかった。
満面に嬉しさを溢れさせながらウリエルの表情が凍り付いた。
ミカエルの剣が赤い軌跡を残しながら閃いた。
ウリエルの白い翼の片方が根元から離れたと思うとどさりと地面に落ちた。
それでもしばらくは、ウリエルは事態を飲み込めず、ミカエルがいつかさっきのは冗談だったと笑って自分を褒めてくれるのではないかと待ち構えていた。
だが、急激に襲いかかる激痛が、ウリエルを強引に現実へと引き戻す。
「うわあああああああああああ」
ウリエルはこの世の物とは思えない絶叫を上げると、斬られて元の半分の長さもない片翼をかき抱いて、赤ん坊のように泣きじゃくった。
ミカエルは泣き叫ぶウリエルに目もくれずに倒れたバアルへと静かに歩み寄った。
近づいてみるとバアルの胸が上下しているのが分かった。そのとき、自分が胸をなで下ろしたのをミカエルは、奇妙にそして苦々しく思った。
「愚か者が、見苦しいまねをしたな、許せ」
僅かほども申し訳なさそうには見えない様子でミカエルが言うのが可笑しくて、バアルは大きく笑ったが、むせて血を吐いた。
「よいよい、子供のしたことだ。貴殿が気になされることではない」
天使に年齢の概念はなく、その姿は精神を形にしたものだ。ウリエルは無垢な子供のような精神の持ち主だった。だからこそ、大天使になれたのだが、今回はその悪い面がでてしまったようだ。
「さあ、ひと思いにやってくれ、天の光景が待ち遠しい」
バアルは静かに目を閉じた。だが、ミカエルは答えない。
「貴様にはまだやってもらうことがある」
バアルはミカエルを怪訝そうに見つめた。
「この期に及んで、俺に生き恥を晒せというのか。どうすればいい、貴殿の小姓になって茶でも入れればいいのか。それともまさか、貴殿には男色の趣味はないよな」
ミカエルがピクリとも笑わないので、さして面白くもない冗談を言ったことに気がついたのかバアルは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「ラファエル」
名前を呼ばれただけで、ラファエルはミカエルの言いたいことが分かったらしい。もしかしたら、ミカエルが一番信頼しているのは、最愛の女性であるガブリエラでも、弟のようなウリエルでもなく、この無口な巨漢の天使かもしれなかった。
ラファエルは、バアルの髪をわしづかみにして立ち上がらせると、無理矢理歩かせた。
「捕虜はもっと丁寧に扱ってくれないか。それともこれが貴殿ら流の持てなしかな。ずいぶん風変わりだな。どうせなら次は異国の美女にもてなしてもらいたいものだな。ああ、勘違いしてもらっては困るが、もっと優しくだぞ、乱暴に扱われる趣味はないからな」
痛みを誤魔化すためにバアルは早口にまくし立てた。誰もバアルを見てはいなかった。バアルの乾いた笑いだけが、虚しくその場に残された。