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第一話

―――紀元前13世紀末


カナンの荒れた大地に乾いた風が吹き抜ける。

人間が生きるには過酷な土地だというのにカナンの中心都市イルでは人々は祭りの喧騒に浮かれていた。


祭りでできた人垣を分けて進む男がいた。

年頃は三十半ばくらい、無精髭を伸ばしているが、綺麗に整えればもう少し若く見えるかもしれない。


そうすれば女たちが放っては置かないくらいには整った顔立ちをしていた。


あるいは言い寄ってくる女たちが疎ましくてわざと髭を伸ばしたままにしておくのかもしれない。男には貞節を誓う大切な女がいるのか、あるいは単にものぐさなだけか。


男が手にした羊肉の刺さった串を通行人に当たらないように悪戦苦闘していると店先に立った中年のふくよかな女が微笑みかけてきた。


若い女がするような媚びを売るような色めいた笑みではない。どこか動物じみた人懐っこい笑みだ。


だからだろうか、男は女の店に近づいた。


「いらっしゃい。うちにはいい酒が揃ってるよ」


 その勢いに男ははじめ少し気圧されたが、すぐに女への親近感が胸の内に沸いた。

 これも女が長年商人として培ってきた処世術のなせる業だろう。


「いやー、買ってやりたいのはやまやまなんだけど、あいにくと手持ちがねぇ」

 と男は整った顔立ちには似つかわしくない情けのない表情をする。その姿はどこか憎めないところがあった。


「なんだい、財布の紐はかみさんが握ってんのかい」


「そうそう。うちの『かみ』さんがね。なにせ怖いから」


 そう言って男は両手で抑えた肩を大げさに震わせる。

 それを見た女はケラケラと快活に笑った。


「年に一度のバアル神様を祀る祭りだっていうのにケチな男だねえ。よし、決めたせっかくの祭りだ。半額で売ってやるよ」


「本当かい」


「ああ、バアル様は人間として生まれながら、まさしく神のごとく戦功を挙げて、神々の一柱に迎えられたそれはもう偉いお方なんだ。そんな方の祭りで出し惜しみしたとなっちゃあ、商人の名折れってもんさ」


「いやぁ、そこまで言われたらなんだかこそばゆいなあ」


 男は恥ずかしそうに頬をかいた。それを女は怪訝そうに見る。


「なんで、あんたが恥ずかしがるんだい」


 そう言われた男は見るからに慌てたかと思うと、


「そりゃあ、バアル様といったら俺にとっちゃ家族も同然だからな」


 理由になっているんだか、いないんだか分からないことを口走る。


「ふーん、神様が家族ねえ。信心深いだか不敬なんだか、よくわからない男だね。

で、買うの、買わないの」


 女はずいっと手を差し出した。


「買わせていただきます……」


 男が女の手にコインを乗せると女が反対の手で酒を差し出した。

 男が差し出された酒に手を触れると、


「むむむっ、うーん」


 急に女が唸りだした。


「おばちゃん、どうしたんだい。俺の顔に何かついているかい」 


 女はジロジロと男の顔を眺めている。


「うーん、あんたの顔、どっかで見たことがある気がするんだけどねえ。どこだったかなあ」


「俺の顔なんて、よくある顔さ」


「そうだ。あんたの顔、神殿にあるバアル様の像そっくりなんだ」


 男の顔からさっと血の気が引いて顔が引きつる。


「またまた、おばさん。お世辞が上手いんだから。これ以上酒は買えないよ」


 男はそう言い残し立ち去ろうとする。


「いや、お世辞なんかじゃ……」


 引き留めようとする女の努力もむなしく、男はどんどん離れていく。


「ありがとう、父さんにいい土産ができた」


 そう言う男の声と振られた手だけが、人の波間に見えたかと思うとあっという間に消えてしまった。


「うーん、本当に似てたんだけどねえ」


 女の漏らしたつぶやきを砂漠の風がさらっていった。


** *


 父に会うといった男が訪れたのはどういうわけか神殿だった。

 バアルの義父であるダゴン神が祀られた神殿だ。

 祭りの喧騒から離れ、神殿の階段で束の間の休息を取る人々を余所目に男は神殿へと入ろうとする。


そこで一人の神官が行く手を塞いだ。祭りの最中といえどもさすがに神殿へ許可なく入ることはできないらしい。ましてここは祭りで解放されているバアルの神殿ではない。


「おい、おまえここに何の用だ」


 神官が鋭く男を睨みつける。だが、男の顔を見ると、あきれたように脱力する。


「なんだ、あなたでしたか。アスタルト様が、あちこち探し回っていましたよ。いい加減にしないと愛想を尽かされてしまいますよ」

 

男が何か答える隙もなく神官は小言を吐き出していくと、あとは男に興味を無くしたように去っていく。

 

今日は小言が短くて済んだと男は安心したが、そこで神官の足がふと止まる。


「それとその髭、似合ってませんよ」


 振り向いてそれだけ言うと神官は今度こそ去っていった。


 神殿に入ると正面に厳めしい顔つきをした老人の像が出迎えた。この地で崇められている海神ダゴンの像だ。

 

その足元に像をそのまま小さくしたような老人がちょこんと立っていた。

 

老人と像はまるで双子のようにそっくりだったが、巨像が厳しい表情をしているのに対し小さな老人は好々爺然とした優しげな笑みを浮かべている。

 

誰もこの老人が、像が象ったダゴン神その人だとは思うまい。


「おお、待っておったぞ婿殿」


 ダゴンが小さな歩幅で、それでいて素早く近寄ってくる。


「父上、土産を持ってきましたぞ」


 酒を目の前にぶら下げてやるとダゴンはそれを宝物のように受け取った。

 蓋を取ってにおいを嗅ぐとダゴンは少年のように目を輝かせた。


「いい酒じゃ。これは肴が必要じゃな」

 

そう言うとダゴンは自分を象った像の陰から遊戯盤を取り出した。

 そうやって隠しておかないと一日中遊戯に熱中するダゴンを心配して神官たちが取り上げてしまうのだ。

 

二人は遊戯盤を挟んで神殿の床に何も敷かずに直接腰を下ろした。

 そうやって身なりも気にせずに遊びに興じる神々を見たら人間は何を思うのだろうか。少なくとも二人にはそんな考えは露程も思いつかない。


二人は駒を動かしつつ言葉を交わした。


「婿殿が神々に加えられてどのくらいたつかのお」


「あまりに長い年月だった故、俺もよく覚えていません」


「我々は人間とは違う種族だが、決して根本的に異なるものではない。人間と血を交えることもあるし、優れた人間が我らの力を借りて新しい神となることもある。だが、彼方の地には我々のような神々とは異なる神がいるという。その神は肉体を持たず、また神は自分ただ一柱だけだという」


「アブラハムの子孫が崇める唯一神ですね」


「うむ。唯一神はヘブライ人たちにここカナンの土地を与えることを約束したという。婿殿、油断してはならぬぞ。どの道、いくつもの神の存在を許す我々多神教とただひとつの神のみを信じる唯一神教とは相容れぬ運命なのじゃ」


 ダゴンが思考することに疲れた賢者のように深いため息をつくと、男の進めた騎兵の駒がダゴンの王の駒を追い詰めた。


「ま、待った」


「見つけましたよ、バアル様」


 ダゴンの声と女の声が重なった。

 名前を呼ばれたバアルが振り返る。そこには切れ長の目で鋭く睨みつける美しい女が立っていた。


「相変わらず君は美しいね。アスタルト」

「そんな口車には惑わされませんよバアル様。貴方を夫として迎え入れ、共に神として永劫の時を生きることを決めたことをこれほど後悔した日はありません。自分の祭りの最中に姿を消すなんて」


「不思議だな。俺はそのセリフ毎日聞いてる気がするよ」

「いいえ。毎日ではありませんよ。バアル様でも優しい日はあります。でも、バアル様が優しい日は決まってその晩、あれをする日ですけど」


「や、やめないか。父上の前で」

「いいえ、父上と言えども子供ではないのですから、理解しているはず。むしろ先人の知恵を借りようではありませんか」


 だが、当のダゴンは不思議そうに目を丸くしている。


「ねえ、あれってなんじゃ」


 バアルとアスタルトは二人してずっこけそうになる。

 こんな無垢な老人がどうやってアスタルトを作ったのだろうか。やはり神々と人間の営みは異なるのか。はるかギリシャの地には好色な神もいるというのに、バアルは首をかしげてしまう。


「あれってなんじゃ、教えちくりー」


 縋りついてくるダゴンをアスタルトは振り払う。


「ええい、うるさいですよ、お父上。それより盤上遊戯で遊びましょう。ほら、バアル様が目を離している今のうちですよ」

「おお、本当じゃ」


 ダゴンは嬉々として盤上の駒を自分の都合のいいように動かしていく。


「大変です。大変です」


 慌てた様子で神官が神殿に入ってくる。


「どうしたのです。落ち着いて話しなさい」


 アスタルトが神官を諫める。


「ほれ、これを飲んで気を落ち着けい」

 

ダゴンが自分の酒を神官に渡してやる。

 神官はそれを水だとでも思ったのか一気に飲み干す。


「預言者に率いられてヘブライ人たちが攻めてきました」


 赤ら顔で告げると神官はその場に倒れてしまう。


「ううむ。噂をすれば影じゃのう」


 ダゴンは幼い子供のような態度から思慮深い賢者の表情に戻っていた。


「いくのですか」


 心配そうにアスタルトがバアルに身を寄せる。


 バアルは小さく頷いて敵が攻めて来る地平の彼方を見つめた。


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