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2・女郎蜘蛛の毒

 


 ホラーな表現があります。

 ーーーーーーーーーー





「ドォコニ カエェル、ノ……?」


 女は汚れた手でロープを退けようとしている。身体の大きな女ならば簡単に引きちぎる事が出来そうだが、見かけによらずロープは頑丈なようだ。

 思うようにロープが千切れず、苛立った女はロープを乱暴に揺らした。その際に手に引っかかったお札がロープから剥がれ落ちる。お札の剥がれたロープが、ミシッと強く引かれた音を出した。


「に、逃げろ!走れ!」


 その音で正気を取り戻した海斗は叫び走り出した。海斗の声で気が付いた四人も、海斗の後に続く。

 走りに合わせて懐中電灯の光が激しく動き、前方をしっかり照らせない。足元は走り辛く、先程の女が追いかけて来ているのではないかと気が焦る。


 闇に包まれた山の中を、五人が走る音と呼吸音が響いている。敦也は深里の手を引いて走った。深里も泣きながら一生懸命走っているが、恐怖で足が縺れて上手く走れない。


 あの女はもうロープを千切っただろうか。敦也は走りながら振り返ると、女がこちらに向かって走っているのが目に入った。

 大きい身体に蜘蛛の下半身を持つ女は凄まじい速さで近付いて来ている。敦也は深里を見た。涙でぐちゃぐちゃな顔は苦しそうに歪んでいるが、それでも懸命に足を動かしている。


「深里!頑張れ!」


 敦也は深里を鼓舞するように声を出した。返事の代わりに、深里の苦しそうな呼吸音が聞こえる。


「きゃっ!」


 深里と繋がれた手が一瞬下に引かれ、直ぐに離された。敦也が振り返ると、深里が何かにつまづき転んでいる。そしてそのすぐ後ろには、女が立っていた。


「ドコニィ カァエルノ?」


「ひっ……」


 頭上から女の声が聞こえ、深里は恐怖に目を見開き顔を引き攣らせた。恐怖で身動きかとれず、立ち上がる事が出来ない。深里の方を振り返った敦也も、固まってしまっている。


「あつ……敦也……く……」


 深里は小さく絞り出すように敦也を呼んだ。どうしたら良いのか分からない。立ち上がり逃げたとしても、女は音も無く走りすぐに追い付いて来てしまうだろう。


「深里!立て!逃げろ!」


 敦也は深里の手を掴み、強く引き上げ立ち上がらせた。そしてヨロヨロと立ち上がった深里の背中を、強く押し出した。


「走れ!」


 深里を先に走らせながら、敦也も走り出す。


「ドコニ?ドコニ?ドコニ?ドコニィ?」


 女は敦也のすぐ後ろを張り付くように着いてくる。同じ事をずっと繰り返し問いかけている。

 敦也は後ろを振り返らないように走り続けた。しかし、女の方が足が速い。巻くのは無理だ。どうしたら良いのだろうか。


「アァハハハハハハハハハハ」


 急に笑い出した女を、敦也は振り返った。そしてその姿を見た敦也は、身動きが取れなくなってしまった。

 笑っている女の口は、顔にある口ではなかった。女の腹が縦に裂け大きく開いている。尖った歯が何列も並び、赤黒くぬめった舌が見えた。


 足がガクガクと震えているのが分かる。深里は走って逃げただろうか。女は敦也に手を伸ばしている。逃げなければ。きっとあの腹の口で食べられてしまう。駄目だ。動け。動け……!


 敦也の足が少しだけ動いた。だが、敦也は女に腕を掴まれた。


「うわっうわあああああああああ!」


 腹の底から怖気を感じ、敦也は声を上げた。そしてものすごい力で引っ張られ、敦也は抵抗も出来ずに口の中に入れられてしまった。半身に牙を突き立てられる痛みを感じ、敦也は気を失った。





 左半身に痛みを感じ、敦也は目を覚ました。見慣れぬ天井が目に入り、頭を動かし周りを見る。

 木で出来た天井は古く、かなり黒ずんでいる。天井に電灯は付いておらず、代わりに丸いガラスを入れた網が数個ぶら下がっていた。


「痛……ッ」


 身体を起こそうと力を入れると全身に痛みが走り、敦也は顔を歪ませた。起き上がる事も出来ず、敦也は部屋を眺める事しか出来ない。

 自分が寝かされているのは薄い布団で、板張りの床に敷いてある。部屋は狭く、自分の寝ている布団二枚分程の広さしかない。部屋の中にある物は、この布団と天井から釣られたガラスだけ。質素な部屋だった。


 ここは何処なのだろう。大きな女に食べられた自分は、何故生きているのだろう。疑問を解消したく、敦也は声を出そうとした。


「す…………ん……」


 喉がつかえて声か出ない。敦也は何度か咳払いをして喉の通りを良くしようとした。

 ガラッという音がして、敦也は音のした方を見た。そこには、五十代位の目付きの悪い男が立っていた。見た事のない変わった服を着ている。


「目覚めたか」


 感情の読めない表情で敦也を見下ろした男は、短く敦也に声を掛けた。


「はい……あの、何があったんですか……?」


 敦也がおずおずと質問をすると、男は布団の傍に腰を落とした。


「お前はラクノムレスに食われた。それを俺が殺した。お前はもう、あちらには帰れない。帰らない方が良い」


「らくの……?帰れない……?」


 ラクノムレスはあの女の名前だろうか。そして、この男は帰れないと言った。敦也は頭がぐるぐると回るような感覚を覚えた。


「ラクノムレスは、あの化け物……魔物だな。アイツの名前だ。あちらの……女郎蜘蛛だな、妖怪の。悪いな。あちらの言葉は久しぶりで、上手く喋れてるか分からん」


 男は寂しそうに小さく笑った。敦也は視界が回っているように見え、眉間に皺を寄せながら目を閉じた。


「まだ顔色が悪いな。もう少し寝ていろ」


 男はそう言うと、部屋を出て行った。敦也は何も考える事が出来なかった。ぐるぐる回る視界に耐え切れず目を閉じ、目を閉じても回っている感覚がしたが、すぐに闇に落ちるように眠りについた。




 また目覚めた敦也は、目を開いても視界が暗いままで不安を覚えた。ここが何処なのか分からない上に、あの女郎蜘蛛を思い出してしまう。


「す、すみません。誰か、居ません、か……?」


 あの男は居ないのだろうかと声を出すと、隣の部屋からもそもそと動く音が聞こえた。引き戸がゆっくりと開き、ランプのような物を持った男が部屋に入って来た。


「起きたか。どうした?」


「あ……すみません……真っ暗で、怖くて……」


 恐縮している敦也に、男は笑う。


「……あんな事があったんだ。怖くもならぁな。一つ、灯りをつけておくか」


 そう言うと男は、天井からぶら下がるガラスをつついた。するとぼんやりと明かりが灯る。

 目を丸くしている敦也に、男は苦笑する。


「こっちはな、電気が通ってないんだ。電線なんて張り巡らせてみろ。あの魔物達が、地上だけじゃなく空にも地中にもうじゃうじゃ居やがる。すぐ千切られて修復して、の繰り返しだ。工事中も襲ってくるだろうし、命がいくらあっても足りねぇよ」


「……ここには、あの化け物が沢山居るんですか……?」


 敦也は驚愕した。ここに居る限り、あの恐怖をまた味わう事になってしまう。


「ああ。お前には、彼奴らを退治できる様になって貰う」


「なん……ッ」


 敦也は思わず起き上がり、痛みに俯き顔を歪めた。身体には包帯が巻かれているが、所々血が滲み出している。


「……もう起き上がれるか。お前、女郎蜘蛛に噛まれただろう。女郎蜘蛛には、毒があってな……その毒は、魔物が人間を食うのに美味しくする為のものだ。醤油みたいなもんだな」


「醤油……」


 敦也は呆けた声で呟いた。現実味の無い事がずっと起こっていて、素直に受け入れる事が出来ていない。


「その毒に対して免疫が出来るかどうか、なんだが……お前は出来そうだ」


「……どうして、分かるんですか?」


 男は自嘲気味に笑った。


「免疫が出来なければ、気が触れてる。あちらの人間には免疫が無いからな」


「……」


「どちらが幸せか……分からねぇがな……」


 そう言うと男は部屋から出て行った。男が再度部屋に戻り食事を与えられるまで、敦也は座り俯いて考え込んでいた。




「全部食えたか。これも食えるか?」


 敦也は男が差し出した皿を受け取った。柔らかい桃のシロップ煮は、先程食べた味の感じられなかったお粥とは全く違い、とても甘かった。


「……俺は桃の缶詰めが好きだったんだ」


「……貴方は……」


「俺も、あちらの人間だった。お前と同じで、ここの魔物があの山に出た時に噛まれた。女郎蜘蛛みたいにでけえ奴じゃなかったけどな」


 敦也は何と答えたら良いのか分からず、男の顔を見た。男は諦めのついた、少しだけ哀愁を漂わせた顔をしている。


「あの山に道を通す工事をしていたんだ。それであの山に入った。あの山は、昼間でも危険だ。」


「あちらに帰れない、と言っていましたが、貴方は何故俺を助ける事が出来たんですか?」


 敦也は疑問に思った事を口にした。男は自嘲気味に笑う。


「俺は魔物退治をしてる。こちらのこの森に居るのと、あちらのあの山に出ちまった魔物をな。あちらとこちらは繋がってる道がある。時々、魔物がそこを通って行っちまうんだ。俺はここの番人をしてる。あの時も、女郎蜘蛛を追って行ったら、お前が食われてた」


「助けてくれて、ありがとうございます。あの、一緒に居た奴等は、どうなりましたか……?」


 敦也は心配になった。皆は無事に逃げる事が出来ただろうか。免疫が無いと気が触れてしまうと男は言った。そのような事になっていなければ良いが……。


「皆無事だよ。お前が戻れないと聞いて、ショックを受けていたがな。女の子と、お前の両親は特に」


「……俺の両親にも会ったんですか?」


「ああ。あちらの魔物被害は俺以来だから、黒穴神社の神主に連絡したんだ。それから、お前の両親が来た。このまま死ぬか、こちらに来させるか選ばせたんだ。こちらなら、免疫さえ出来れば生きる事が出来る」


 男は淡々と話している。敦也はそれを聞き、胸が重苦しい感覚に襲われた。そんな敦也に、男は気遣うように小さく微笑みかけた。


「生きていてくれるなら……と、お前の両親は泣いていたよ」

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