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薄氷の上で彼女は踊る  作者: 由甫啓
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辛苦3

 男が触れた部分を、拭っていく。

 触れたと思う部分を拭っていくなんてのは、どうかしていたんだと拭きはじめてから気付いた。それって、深雪を犯した男の所作を想像するようじゃないか。少し考えていれば。いや、そうだとしても僕は拭いていただろう。どんなに心構えしていても、耐え難い吐き気が込み上げてくるのは変わらなかっただろう。


 両の腕を肘くらいまで強く擦らないよう優しく拭き終え、触れたかも知れない顔を、唇を拭う。

 深雪との関係は、プラトニックなものだった。何時だって、この指先には深雪がいたし、何時だって側に居て愛して、互いに好きだったから。好きで、愛していてだから我慢しておこうと話した。歯止めが効かなくなるとは思わないが、行為に及ばなくても。及んでも変わらない関係性を信じていたからこそ、深雪と僕はその距離感を大切にしようとしていて。


 腹を、胸元を、少しだけ躊躇いはしたものの背に手を回して下着を外した。露わになる、深雪の胸を見るのは、二回目だった。互いに、求めていて触れてしまえばきっと止まらないと確信して、互いに恥ずかしそうにしながら裸身を晒して、綺麗だと思った深雪は今もなお綺麗だった。


 明かりも付けない和室は、外からの光だけで照らされていて、窓を開けた際に開いたカーテンは僅かながらにカーテンに揺られその採光を不確かにしている。

 曖昧な光に、彼女の体はやけに艶かしく照らされている。火照っている。体表を滑る外気は凍るほどに冷たいのに、火照っている。そう見えて。


 震える手を押さえながら丁寧に、胸を拭き抱き抱えるようにしてまた下着を付け衣服を正す。

 こんな形で、触れた深雪の胸は冷たく冷え切っているのに柔らかで、抱き抱えた時に鼻を掠める匂いはまるで毒のように甘く感じられた。


 スカートを持ち上げ、深雪の腹に乗せる。その際、深雪の顔が目に入りそうになって思わず視線を切った。嫌だった。こんな姿を見せるのが、こんな有り様を晒してしまう自分が嫌だった。


 下着は脱がそうともせず引っ張ったのだろう。引き裂かんばかりに力を入れたのか縒れてしまっている。苦痛が吐き気が嗚咽となって体を襲うのを堪えながら、下着を脱がす。血とこぶりついた体液を……捨ててしまおう。こんなものをまた履かせるなんて出来るわけがない。買いに行くわけにもいかない……当然取りに行くわけにも。気が進まないが母ので……。


 目を閉じる。細く息を吐いて、余計な考えで思考を埋めてみても気が紛れるわけがない。

 ゆっくりと、深雪の股へと手を伸ばし、タオルで拭いていく。拭いては、折りたたんで新しい面で。何度か繰り返し、そのままゴミ箱に放り込んだ。見たく無かった。アルコールティッシュを這わせるようにして、指を当てがう。こんなのが、初めて触る深雪の——


 苦痛だった。顔が歪むのがわかる。歪まないわけがない。

 アルコールティッシュをゴミ箱に投げ込んで、深雪のスカートを整え、深雪の横に座り込む。


 こうなるのなら。

 こうなるのならば。

 僕が。

 そうだ。誰とも知れぬ男に摘み取られるなら。

 こうなるのならいっそ、僕が奪ってしまえばよかった。そうすべきだったのだ。


 僕ははっとした。いつの間にか、両の手を白くなるほどに、ぐっと握りしめていた。思考の渦に埋もれ、気付けば彼女は目前だ。のし掛かるようにして、深雪の顔が目前にある……。

 思わず、その生前ままの面立ちに動き出すのではないかと唾を飲んで尻餅をついた。頭の中を、言葉が駆け続ける。


 ——いっそ奪えばよかった。


 その思考が、股座を硬く屹立させているのに気付いた。胸を拭う時から、そうなっていたのではないか? 滑稽だ。彼女の、深雪の死体を前に体に触れて反応して。

 なんだこれは。あの男と同じじゃないか。

 今、僕は。いっそ奪えばよかった? 奪われるくらいなら? 馬鹿だ。大馬鹿だ。あまりにも、そんな思考は許されてはならない。本当に、これじゃあまるで、獣じゃないか。

 込み上げる吐き気に、トイレへと駆け出した。

 堪らなかった。何度も、何度もえづきながら、僕は溜まっていく吐瀉物をみる。

 いっそ奪ってしまえば。その言葉はいつまでも頭にこぶりついて離れない。


 最低な、屑だったんだ僕は。死体に欲情するなんてマトモじゃない……ちょっと触れただけじゃないか。それで反応するこの体が憎くて堪らない。こんな心、潰れてしまえよ。人の心の在り方じゃない。こんなのは、人じゃない。人の心じゃない。人でないんだ、僕は。


 だって、みろ。お前は今も、きっとその前も自分の疵しか考えてないんだ。

 死体。そう死体何だ。もう深雪は居ないんだ。そうだろう? これから復活するなんてゲームか何かみたいなご都合はありえない。現実にそんなものはないんだぞ。別れを大切にしたい? そんなことの為に、僕は。

 気狂いが。狂ってしまったんだ。前に読んだ傘の話……そう、夢野久作だ。あれの記者のように図々しく遠慮が無いうえ、僕はパラソルの女の夫のように気が可笑しくなって……。


 ぱちん。と乾いた音が鳴った。頬を叩いたのだ。

 何を馬鹿な。未だに僕は自分を気が触れたように扱って自分を誤魔化そうとしてる。馬鹿らしいどうでもいい。


——滑稽だ。どうしようもなく滑稽で見苦しいよお前は。お前だけのことではないのに、深雪の体から証拠を消し去って、挙句なんだその体たらくは——

 耳鳴りのように、自分の声が責め立てる。静かに言い募ってくる。


 洗面所で口を濯ぐ。思いの他勢いがあったのか血が混じっていた。顔を上げればまるで死人のような自分の顔が鏡に浮かんでおり、深雪と比べて余程僕の方が死んでいると思うと、ひどく可笑しかった。


——馬鹿だなあ。お前は——そう鏡の中の自分が死神のような面構えでけたけたと笑う。

 眩暈がする。澱むような思考がぐらぐらと頭を揺らして、堪えきれないとばかりに目を閉じて、開いた時にはもう誰も笑ってはいなかった。

 自分の嘲弄する笑い声がやけに耳に残って不快だった。


 よろよろと、和室に戻り、毛布を一枚押入れから引っ張り出し体に壁に背を預ける。

 彼女をじっと見る。眠るように横たわる彼女を目から離さないように。今度は手放さないように。また何処かへ行ってしまはないように、じっと見ていた。

 外套の上から布団を羽織って僕はぼんやりと深雪を眺め続けた。

 窓から吹き込む風に乗って雪がきらきらと舞う中眠る深雪は美しかった。


 寒さに震えながら、ゆっくりと意識が沈んでいく中で、どうして幸せが薄氷の様に薄いものだと誰も教えてくれなかったのだろう。そんなことを考えていた。

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