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薄氷の上で彼女は踊る  作者: 由甫啓
8/29

辛苦2

 ゆっくりと丁寧に腕を引き抜いていく。

 コートは湿り気を帯び、冷たさで感覚の鈍い指では難しく、時間ばかりが掛かる。


 されるがままの深雪が、とにかく僕の心を抉るようで、小さく開いたその口から助けて欲しかったとか、そういう言葉が飛び出しやしないかと怖くて堪らない。それでも、また声が聞けるのならば……。


 思ってみると深雪を、二階に連れてきたのは何時振りだろう。普段は一階でゲームをしたり、映画を観たり互いの家を行き来するように遊んでいて……それも、もう無いんだな。こんなにも、静かに、寝ているようにしか見えないのに。死んでしまった。もう、動くことはない……。


 ああ、そうか。目の前に横たわる深雪は今にも動き出しそうなのに、ぴくりともしないのか。当たり前だ。胸が上下することもなければ、その目蓋が持ち上がることはもう無いのに、こうして見ていたらけろっと起き上がって「もっと早く来てよ」と怒り——ああ、駄目だ。そんなのは。怒るだけじゃない。きっと泣いて叫んで取り乱すだろう。襲われたのだ。犯されたのだ。無理矢理に穢されてしまったのに、起き上がって良かったなんて、安堵出来るものか。


 動こう。動かないと、次に何をするかちゃんと考えないと、堂々巡りに感情に振り回されてしまう。悍ましいあの男の所業を、無くしてしまいたい。


 ……水で濡らしたタオル? それとも、昔流行った映画で、死んだ人を綺麗にする人の話があったっけ。何となく調べて、なんと書いてたあったっけ。アルコールを湿らして拭く、とかそんなだったか。死体に施すことを為すのは、死んだと認めるようで耐え難い忌避のようなものが胸に渦巻く。認めるのと受け入れるのは違うことだ……。


 今は、とにかく準備をしよう。消毒用のアルコールなんて家に無かった気がする。アルコールティッシュのようなものでも大丈夫なのか? いい、か。水で拭うだけでは、耐えられない。


 立ちあがろうとした体が思わずぴたりと止まる。

 それは、まるで。


 深雪のことをまるで、穢いと感じているみたいじゃないか。


 違うのは分かってる。そういうことじゃないのは、分かっているが、穢れてしまった? まるで深雪を貶めるような……。


「駄目だ。違う、悪い方に考え続けるのを止めろよ早く」


 一階の居間、テレビの横に置かれたアルコールティッシュを手に取る。次いで、洗面所に置かれた未使用のタオルを水に濡らして——


 ——外套のスマホが何度か揺れたのが分かった。


 手をゆっくり、ポケットに入れスマホの通知を確認すると深山母の名前が浮かんでいる。手が震える。寒さだけじゃない、怖いのだと思う。僕がやっていることは間違ったことだ。共感なんて得られないことだ。何より、僕自身が何をしているのか分かっていない。


 家の窓から見下ろしていて、深雪をどうしたのだと訊かれるのではないか? 薄っぺらい嘘を吐いたところで直ぐにバレて、この凶行が白日に晒されるのではないか? そう考えてしまうのは、後ろめたいからだ。でも、見ない訳にはいかない。


『深雪、まだ帰ってきてないんだけどもしかしてお店で雨宿りしてる? 傘持って行こうか?』


 非現実だった。ついさっきまでは。あの公園からここに戻ってくるまでの間、ずっと世界の何もかもが変わってしまったような気持ちになっていた。それが無理矢理に引き戻されるような、冷や水を掛けられるような。


 どうすればいい。どうすればってなんだよ。僕は、深雪をどうしたい? あのままには出来ないと思って、ここまで連れてきて体を綺麗になんて考えて。それで、その後は?


 僕は、深雪と、その死を受け入れられてない……犯人がどうとか、知らない。目の前に居たら殺したいと思うかもしれないが、それ以上に深雪と居たい。向き合っていたい。ああ、僕は別れを、訣別を望んでいるのか。深雪の死を受け入れて、噛み砕かないとそれが何時になるのか分からないけど、そうしないと僕は前に進めない。


 前に、進む意味があるのか? 深雪はもう、居ないのに。


『まだ、帰ってきてないんですか? 返却したあと軽く見て居なかったからもう帰ったんだと思ってました』悴んだ指でスマホを操作するのは大変で、それはきっと躊躇いがあって。嘘で塗り固められた文面をじっと見る。


 欺瞞に満ちている。酷い嘘だ。昔から良くしてくれている人達に、酷い嘘を吐こうとしている。

 例えそうであっても、僕は深雪とまだ、もう少し一緒に居たい。


 こういう、恐ろしい出来事に遭遇した時もっと上手くやれると気丈で居られると、マトモで居られると思っていたんだ。なんと、情けない男なんだろうか。


 ……ごめんなさい。

 ゆっくりと送信を押して、スマホをポケットに押し込んだ。


 和室に戻った僕は深雪の横に濡れたタオルとアルコールティッシュを置いて、嫌な考えが頭を掠めた。冬場ではある。冬場ではあるが、ああ、こんな言葉を使いたくない。使いたくないが、傷まないようにと僕は窓を開いた。


 横に座って、僕は深雪の着るブラウスに手を伸ばす。

 暗かったのもあり外では気づけなかったが、無理矢理にたくしあげられて、ボタンが幾つかほつれ千切れている。どれほど強引に、無理矢理に深雪を襲ったんだ。取れかけたボタンの一つ一つが僕に暴力を、陵辱の痕を感じさせ、何時の間にか噛み締めていた顎が痛みを訴えるがこんなもののどこが痛みだというんだろう。僕は痛みを今日という日まで知らなかったんだ。


 悔しい。許せない。感情の揺れ幅が大きすぎて壊れてしまったんだろう。心の中がこんなにも荒れ狂うのに、栓がされたように疲弊して、泣き叫んだ、僕の表情はきっと何も映していない。

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