艱難2
目の隅をはらはらと、白いものが掠めた。
空を見上げれば雪が降っている。真黒な空を覆うように広がった雲からひとつ、ふたつと落ちてくる。その数は時間と共に増えていくように思える。
深雪は、雪に降れらなかっただろうか。寒いのが平気で、こんな時期にアイスを食べるような彼女だけど、体調を崩すのも冬の時期なのだからもう少し、体を気遣ってほしい。
歩き出す僕を自転車が追い越していく。寒さに身を縮こませて随分と背を丸くしていた。歩いていてこんなに寒いのだから風はきっと身を切るように冷たいだろうな。
吐く息は視界をうっすらと隠すように白く霧散する。一気に冷え込んでしまった。もうちょっと天気予報をしっかり観ておけばよかったと、少し後悔する。マフラーくらい巻いておけばよかったなと思う。
中学くらいまで、首に巻いた時の感覚というやつが苦手で、なんというかちくちくとするのだよね。多分、毛糸が擦れるのが苦手だったのだ。登下校の折に寒いのをぐっと堪えていたものだけど、意固地だったなと思う。昔の方が寒さを受け入れていたのかも知れない。今では平気なことだけど、子供というのは妙なところで苦手意識というやつを抱いてしまうものなのだろう。
人通りのまるでない道を歩いていると、まるで世界に一人取り残されたような気になる。しんしんと降る雪の中をか細い街灯を頼りに、僕は公園にたどり着いた。
鼻の奥ががツンと痛い。ひゅっと吹いた風に乗って冷気が僕の顔を撫でていく。身震いしながら公園に入って、ふと喧嘩していたらしい人はどうしたのだろうと気になった。流石に、雪が降り出したらそれどころではないだろう。雪が降り積もる中で、喧々諤々と何事か言い争うなんて堪らなく嫌だ。
言い争いなんてぱっと止めて家で炬燵にでも入ってしまって、震える指を擦っていれば忘れてしまうような内容に違いないのだ。もう居ないだろうな。もしも居たら大したものだと思う。そこまでの熱意で怒鳴るのであればきっと掛け替えのない譲れない何事かなんだろうな。そうであれば、少し内容が知りたくもなる。
公園の、土が剥き出したの部分は雪のせいで少し水っぽい。泥のようになった部分を避け、芝のある部分を歩いていく。敷かれた石畳を歩くと変に右往左往と蛇行しているから時間がかかってしまうのだ。
多分、こういう風に意味もなく曲がりくねった石畳があるのをお洒落だと思った人が居たんだろうな。直線ばかりだと味気ないかも知れないが、子供が気持ちのままに引いた線のようにくねくねとしなくてもよかっただろうに。
そうやって、寒さから少しでも意識を逃さんとばかりに、公園への不満やら不平を浮かべていると、何か、重いものが落ちたような音がした。ぱちゃっと、湿り気を帯び、薄らと雪の乗った土へ何かが落ちたような音が。
こんな寒い中に僕以外に人が居るのか? まあ、コンビニでどうしても買いたい何かしらがあった人が転んだとかそういうのはあるかもしれない。歩いていると分かるけど、この石畳は何となく雪のせいで滑り易くなっている。学校がある日に積もっていたらと思うとげんなりする。
もう少しで公園から出る。それくらいのところで、獣の唸り声のような、くぐもった声が聞こえた。
嫌な響きの声だった。いや、本当に声だったのだろうか。野良犬なんかこのご時世居るとは思えないし、何年か前ニュースで見かけた大きな蛇が逃げ出しただとか、そういう類のものだろうか。
なんとなくだった。
本当になんとなく気になって。
僕は、その音がした方向へと足を向けることにした。大方、風の音だろう。こう、剥がれかけたベニヤか何かが風に遊ばれて音を出しだりだとか、そういうものだろう。
外側を隠す、壁のようにうっそりと茂った木々の方へ近づいて、連なる生垣の隙間を通り抜けて僕は覗き込むように辺りを見た。
辺りを見て。
ああ、見なければよかった。
心の底からそう思った。
喉がきゅっと閉められたように閉まり、声があげれなかった。
かっと目を見開いて、全身が凍りついたように動かせなかった。
胸が押しつぶされたように苦しくて、息ができない。寒ささえ感じなかった。
ただ、只管に苦しさだけが込み上げてくる。
目の前に、男が居た。後ろ姿で、フードを被っているから分からないが、きっと男だろう。荒い息遣いで屈み込んでいる。
よく見れば、男が何かにのし掛かるようにしているのがすぐに分かった。いや、よく見なくったって分かっていた。
男の陰に、女物のコートが見えた。エンデの赤金色の本のような色味のコートだ。そのコートを、僕は知っている。
男の足元には、袋が落ちている。ビニル袋とかではなく、布製のレンタルしたDVDを入れる用の店のロゴが付いた袋が落ちている。
それらを前にして僕は完璧に凍りついてしまった。映画とかで、殺人鬼を前にして逃げないやつを何故、立ち向かわないのかと思っていた。そうはいっても、恐怖していたら難しいだろうなと考えていた。
今分かった。彼らは、正しかったのだ。身構えてなんていない。自分の身に降りかかる災厄ではないと緩み切っていて。それで、動けるはずなんてないのだと、僕は知った。
ああ、なんで。どうして、彼女は物も言わずに成されるがままそこに横たわっているんだろうか。
見開いた瞳に雪が入って、右目から涙が流れた。
唸りが聞こえた。
誰だ。
僕だ。僕は獣のような唸り声を漏らして。
人を殴ったことなんてなかった。殴り合いの喧嘩なんてしたことなかった。咄嗟に掴んだ足元に転がる子供の頭ほどの石を手に持ち、ふらふらとした足取りで僕は近寄った。
近寄りたくなんてなかった。
だって、それは。それは、もしかしたら違うかも知れないじゃないか。だって、彼女じゃなくても、いいじゃないか。彼女が何をした? 何も、何もしていないじゃいか。彼女は誰からも愛されていた。僕と違って、愛想が良くて愛らしい彼女は、いつだって親愛を持って人に接するような人で、だから僕が支えなきゃいけないって。
どうして、そうなる。
どうして、こうなる。
どうして、僕は一緒にいなかった。
男の背後に立って、見た。
この寒い中、はだけた胸を。
捲り上げられたスカートを。
絞められた首の跡を。
それに、僕を見つめ返す彼女のもの言わぬ瞳を。
僕は、叫び声と共に振り翳した石を男の頭に力の限り叩きつけた。
男は蛙がひしゃげたような叫びを上げて横に倒れ、這いずって離れようとする。
消えろ。消えてくれ。男の頭にもう一度石を叩きつけた。
そうして、彼女へと、深雪へと駆け寄った。
近づいて、いや近づかなくても分かっていた。ぴくりとも動かない深雪が僕を待っていた。
乱れた衣服。捲れ上がったスカートには体液が付着している。捲るまでもなく、何があったのか否応なしに、他の考えなんて許さないとばかりに思考を埋めて行く。
震える手で、深雪の頬を触る。今にも動きそうなほど、綺麗な深雪の顔に涙が落ちた。
なんで、こんな。
視界が歪む。止めどなく涙が溢れてくる。何も、考えられない。何を考えろっていうんだ? どうして、こんなに冷たいんだ。寒い。立ってられないくらい、寒い。
馬鹿が。深雪の方が寒いに決まっているのに。
深雪の方が苦しいに決まっているのに。
言葉が、嘆く声が、助けを求める声が、叫びが、喉に詰まって嗚咽となって吐き出されていた。言葉にならない叫びが心を傷つけていくようで、胸がひどく痛い。
こんなところに、深雪を置いていくなんてことは出来ない。出来るわけがない。
震える手では衣服を整えるのが酷く難しくほどほどにコートで隠してしまう。為されるが儘の深雪をなんとか起こし、背負う。
寒さなのか、それとも心が凍りついてしまったのか。回らない頭では、連れて帰ることしか考えられなかった。少なくとも、こんなところに一人残しておくなんて出来るはずもないのだから。
気付けば男の姿は何処にもなかった。
死んでしまえ。初めて、心から人のことをそう呪った。