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薄氷の上で彼女は踊る  作者: 由甫啓


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定離3

 気付いたら、すっかりと暗くなっていた。

 ポケットに手を突っ込んでスマホを取り出す。時間は、二時だ。丁度いいかと思う。早く着いたら着いただ。免許は持っていても、運転の経験は少ない。カーナビがあっても手間取ったり迷うかもしれないのだし、遅いよりは遥かにいい。この後に及んで約束さえ果たせないなんて許されるはずもない。


 行こう。何がどうあれ、深雪との約束を果たすのだ。

 目的はなんであれ、あの男が邪魔する前に、約束を果たさなくてはならない。二人で並んで出掛ける最後の機会に違いないのだ。


 玄関に一先ず一人で行き、戸を開ける。誰もいない。こんな時間だから当たり前か。それに雪は降っていないが、とても寒い。吹きつける風がびゅうびゅうと五月蝿い。こんな中で歩く人はそう居ないだろうな。


 母親の車のロックを外して、後ろのドアを開けたままにすると、家に戻る。深山家宛の手紙をポケットに突っ込んで、ソファーに座って待つ深雪に向き直る。本当に、ただ寝ているだけにしか見えないのに。もう動くことがないのだ。持ち上げるのはいつだって辛く大変だ。

 ゆっくりと背負おうとして、考え直す。乗せることを考えたらお姫様抱っこのほうがいいか。生きているうちにやればよかったよなぁ。なんでしなかったんだろう。機会が無かったといえば、それもそうだがするべきだった。

 おんぶにしても、生きていた時に比べて今の方が重く感じるのはなんなのだろう。バランスを取ってくれないから? それにしても、あまりに重い。気持ちの問題とかそういったのが多分に関係している気もする。

 よく、魂の重さなどというけど、本当は風船みたいに浮き上がっていくものなんじゃないだろうか。

 肉体という止まり木に結び付けられ、知らず肉体を軽く持ち上げているのだ。死んでしまうと、魂が飛んでいってしまって元の重さに戻るのだ。

 霊魂とかそういうものは何やら浮いているものだし、あながち間違いじゃないんじゃないかな。


 深雪を持ち上げて、車に向かう。ぶつけずに乗せようとするのは存外に骨が折れる。高さが悪いのだ。なんとか、座らせるとドアを閉める。


 これでいい。あとは、行くだけだ。忘れる前に深山家のポストに折りたたんだルーズリーフの手紙を入れて、車に戻る。キーを差してエンジンを掛けると、ぶおんとエンジン音が響く。静謐な空気を裂くような音に、誰しもが起きてしまうんじゃないかと身構えてしまう。


 思わず深山家を伺って、誰も出てこないことに胸を撫で下ろす。

 怯えてるのか? 見咎められたら、どう言えばいいのか分からないから? なんて小心だろう。


 カーナビに、目的地の山の名前を打ち込んで僕は車を発車させた。深雪を乗せて走るのも初めてで、ああ、こんなにずっと一緒にいたのに初めてばかりだったんだと気付く。もっと、色んなことを一緒に経験すればよかった。


 そんな僕の考えに、ミラー越しに深雪が微笑んだ気がした。


 車も人も、全くと見当たらない。時折トラックが走っていくのを見かけるくらいだ。それもそうか、わざわざこんな時間に山のある方へと走らせる方が少ないだろう。

 前、あそこに行った時は家族でだった。両親たちが穴場というだけあって僕たちしかいなかったあの場所で深雪と、初日の出を見るのだ。


 何事もなく、平坦な道のりを走っていく。コンビニは山の近くにあるらしいから、そこで一旦立ち寄ろう。それ以外は事故が無いように安全に。そんなことで、約束を破るなんてしたくない。それに深雪とそんなことで離れることになるなんて耐え難い。


 暫くして、コンビニが視界に入った。カーナビで確認したコンビニだ。閑散としたその駐車場に車を停めると、僕は財布を片手にコンビニに入った。サイズを見ておけばよかったと少し後悔したが、無難そうなサイズを選んでレジへ行く。眠そうにした青年が面倒臭そうに対応し、特にこちらのことを気にかけない。今はそれがとても有難い。


 車に戻って、後ろに座る。深雪の体をドアにもたれさせ、足を広げる。背徳感のようなものがぞわりと背をかける。車の中で好きな女の何も履かない下半身を露わにして。反応しそうになる自分の体が情けなくてたまらない。買ったばかりの下着をあまり見ないようになんとか履かせると、元のように座らせ直す。


 辺りに誰も居なくてよかった。少し手間取ってしまったし、車内でそういう行為に耽っているなんて思われるのは不本意で他ならなかった。

 運転席に戻って、一息つく。まだ、日の出までは時間がある。この分なら十分間に合うだろうな。エンジンを掛け、発射しようとしたところで、スマホが揺れているに気付いた。

 電話だ。ポケットの中で幾度も揺れている。

 誰だろう? こんな時間に電話を掛けるなんてのは普通じゃない。確認すれば、深山家の表記がある。読んだのだろうか? それとも車が無いのに気付いて?


 出ないことを考えて、それは駄目だよと深雪なら口にするだろうと思ったから電話を取った。


「おい、今何処に居るんだ?」

「朝には戻るので大丈夫です気にしないでください」

「何も大丈夫なもんかよ。何考えてんだよお前」


 電話越しからでも怒りというか焦りのようなものを感じる。申し訳ないことをしている。それでも、止まるわけにはいかない。


「ごめんなさい。今はまだ言えないんですきっと止められてしまうから。必ず答えます。だから、ごめんなさい」


 何か深雪の父が言う前に一方的に切って、スマホの電源を落としてしまう。別に、もう使うことはないだろう。


 ミラー越しにちらりと深雪を見て、視線を前に戻す。自分達しか居ない道路をまた、再びに走り出す。


 あと僅かだ。あと僅かな道のりで、あの山へ辿り着く。登山道の横に、確か目立つ看板があったように思う。その看板の通りに登っていけば、何合程の高さかは知らないが開けた所まで行けるのだ。もし、そうでなければ足が棒になろうと擦り減っても構やしないと歩くしかなかったのだから、ぞっとする。


 ふと、ミラー越しに車が後ろに尾いていることに気付いた。黒い軽自動車だ。こんな時間に出掛けるなんてと思うが、僕もまた誰も居ない道を走らせているのだから言えたことではないか。


 あと、少し。あと少しで辿り着く。

 徐々に建物が減っていき山が視界に収まるようになると、日の出には間に合いそうだとほっとする。


 ……何度か曲がったりしているのに、未だ後ろを走るあの黒い軽自動車は一体なんだ? 過敏だろうか? こんな時間に車を走らせて、偶々同じ時間、同じ場所をひた走るなんてどれほどあるだろう。


 あとはここを真っ直ぐ進むだけだ。進むだけで着くが、次の十字路を左に曲がる。

 ……来るな。お前なのか? 追いかけてきたのか……来るな。もう関わるな。邪魔を、しないでくれ……。


 うんうん、と念じながら車の動向を見守る。左折する僕の車を追い越すように、直進して走っていく黒い車……。


 なんてことはない。偶々だったんだ。はは、やけに臆病じゃないか。いざとなれば手に掛ける。そう言っただろうお前は。そんなんじゃ、先が思いやられる。深雪だって呆れて見てるんじゃないか……。


 カーナビが、新しい道のりを告げる。それをちらりと見ながら、何となくミラーを見て目があった。


 男だ。運転席に、あの男が座っている。目深に被ったフードはその顔を定かにさせないが、確かにあの男だ。間違いない。僕が見た、あの男……、それが僕の座る運転席に座っている。


 本当にあの男は居たのか? お前がやったんだ。何処にあの男が居た証拠がある。何処にもないぞ。お前なんだ。お前が殺した。お前が犯した。やりたかったんだろ? 本当は好きなだけあの身体を味わいたかったんだ。どうせ、物のように扱うのだから死んだって構やしない。そう思ったじゃないか。なあ、そうだろう?


「黙れ! 黙れ黙れ黙れ! 違う、僕はそんなことしない!」

「私のこと、殺したくせに。苦しかったなぁ」

 くすくすと深雪の、声が車内に響く。


 思わず、衝動的にクラクションを思い切り叩いていた。静寂の中に響き渡る音はあまりに五月蝿く、耳を貫かんばかりに響き渡る。


 車内に、空気を求めて喘ぐ僕の息遣いだけが響いている。

 歩道に座り込んだ酔っ払いが、うるせえぞぉ! と怒鳴るのを聞きながら、クラクションと共にブレーキまで踏んでいたと気付いた。道の真ん中に、スリップするように後ろを滑らせて車体は止まっている。

 ミラーにはもう自分の姿が映るばかりだ。あの男は居ない。僕があいつだと? あまりに性質の悪い冗談だ……。


 僕は、僕は深雪を殺したりしない……無理やりに押し倒して獣欲を尽くすものか。深雪を傷つけたりするものか……。ミラーに映る僕の顔は焦燥に駆られ、見つめ返している。


 車の通りが無くて良かった。もし昼間だったら事故を起こしていたかもしれない……。


 ああ、そんなことするものか。そんなことあるものか。そう、譫言のように繰り返して、気が違ってしまったんじゃないか? 悪夢を前に何度も自分に言い聞かせて、そうしておかしくなってしまったような、狂気じみた光を自分の目に認めた気がして思わず口元を歪めた。


「……馬鹿らしい」


 荒い息を整えて、運転を再開する。

 幸い、目的地に着いて、山道をゆっくりと運転していく間、何もなかった。

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