ブランド物女になっていく友達たち
高校時代の友達が、イヴ・サンローランのリップの写真をインスタに載せていた。その写真のリップは、ベッドのシーツのような、白い布地の上に置かれていた。
でもそれは一度非公開にした投稿らしく、いいねはたった二件のこっそりとした投稿だった。
その二人は誰なのか、一人は初めから誰か予想しながら詳細を見た。友達の、彼氏の名前が当然のようにそこにはあった。彼からプレゼントされたであろうことがすぐに分かった。彼女、着々とブランド物女の道を歩んでいた。
高校からたまたま大学も一緒になった友達の二十歳の誕生日に、ディオールの香水をプレゼントした。わざと先に小さなプレゼントを渡して、次にディオールのショッピングバックを見せて驚かせるという技でサプライズをしたところ、その友達は目をまん丸にして、雄叫びを上げて喜んだ。丁寧にラッピングを外して、赤ん坊でも扱うような慎重さで箱を開け、香水の瓶を前に目を輝かせていた。けれど私は、先に小さなプレゼントを渡したときの、彼女の「なんだ、これかあ」という残念そうな顔を忘れていない。彼女はとっくにブランド物女になってきている。
別の高校時代の友達が、ヴィトンの財布をインスタのストーリーに上げていた。右隅に、小さな文字で「ありがとう、大切に使います(泣いている絵文字)」と書かれていた。見ただけで、彼氏からのプレゼントだと分かる投稿だった。涙。目から涙が滝のように溢れ出している絵文字だったが、きっと彼女はそんなに号泣なんかしていないだろう。水滴一つだって垂れていないかもしれない。
そして「大切に使います」というのは彼氏だけに当てて言っているわけではない。きっと彼女は、彼氏よりも他の人に見てもらいたい欲求のほうが強いだろう。つまり、皆に見せびらかしたいのだ。高級な財布と、高級なものをプレゼントしてくれるかっこいい彼氏を。彼女はもうすっかり、ブランド物女である。
確実に私の友達たちはブランド物を手に入れてきている。そして、ブランド物に染まっていく。
だんだんまわりのブランド物は増えてきて、バックはサマンサタバサ、財布はコーチ、ポーチはマリークワント、香水はシャネルと、歳をとるごとに、または何かの記念日を通過するごとにそれらは増えていくのだろう。
そしていつか、それが身の回りの生活にあることが当たり前になるのだろう。
高校時代、デパートの化粧品売り場を通ったときには、店員さんは子供を見るような目で私を全く相手にしてくれず、話かけてくることなんてなかった。大学生になってからは、少しは話しかけられるようになったが、大概の店の商品には値札がついていないため、いくらなのか分からないでは全く買う気になれず、店員さんが寄ってきそうになるとそそくさとその場から退散していた。それでも、友達のプレゼントを買うことがあると、どきまぎしながら店に赴き、品物を真剣に物色していると、店員さんは必ず寄ってきて、リップの発色を腕に塗って表し、香水用の紙にそんなにかけるのかともったいなくなるくらい沢山振りかけて香りを嗅がせてくれる。買うものが決まると中に通されて、私はセレブなお嬢様になりきって椅子に腰かけ、金額を言われればさも余裕があるようにお金を出す。よかった足りたとからっぽの財布を見つめながら、顔には出さずにほっと胸を撫で下ろす。
けれど大人になるにつれてだんだんとそんなことはなくなって、そばを歩いているだけで店員さんに声を掛けられるようになり、名札がついていなくてもこれ、と値段を気にせず買い物ができる女になるだろう。物がブランドであることに当然さを感じるようになるかもしれない。
ブランド物を持つことは格好いいことのように思うが、同時になんだか少し悲しい気持ちにもなる。
それを買っているときは、素晴らしく価値のある人間になれる気がするのだが、一方でそんな物をいくつ持っていても自分の価値は上がらない気がするのである。ブランド物を一つも持っていなかった、過去の幼い自分のほうが、よほど多くの大切なものを持っていたような気が漠然とする。
けれど、ブランド物女になっていくのは友達たちだけではなくて、私自身も先日誕生日にもらったデパコスのリップを箱から出したとき、最大の笑顔で感謝の言葉を述べながら内心では、なんだ、こっちかあ……。とがっかりしていた。部屋のあちこちがブランド物で溢れかえるということは一生ないだろうけれど、私の生活には多少なりともブランド物がある。そんな私も既にブランド物女の一員である。
2021年9月に書いたエッセイです。大学2年生のとき。
この頃はデパコス売り場に行くのに緊張していたようです。今では何食わぬ顔で行けるかも…大人になりました。