死神
俺の心臓は握られている。
いつの頃からか、俺が悪いことをすると、心臓が痛むようになった。
悪いことをしていると自覚すると、その瞬間に心臓がギュッと痛みを感じるのだ。
激しい痛みでは、ない。
なんとも気持ちの悪い、心臓を鷲掴みされているような、違和感。
まるで、心臓を今から握りつぶすこともできるけど、それはしないでおいてやるよと弄ばれているような、不快な感覚。
ばあちゃんの着物に墨をこぼした時も。
母ちゃんのへそくりを盗んだ時も。
幼馴染の妙子のパンツをめくった時も。
父ちゃんのエロビデオをツレに横流しした時も。
じいちゃんの腕時計を持ち出した時も。
健太のカセットを借りパクした時も。
大学入試で前の席のやつの答案をカンニングした時も。
バイト先で誤発注して後輩に全部買わせた時も。
卒論のテーマを陰キャからパクった時も。
就職試験で隣の席だったやつにダメ出しした時も。
仕事のミスを冴えないコピー取りの女に押し付けた時も。
酒の飲めない同僚のコップにこっそりスピリッツを混ぜ込んだ時も。
激しい痛みがあるわけじゃない。
のたうち回るような苦痛があるわけじゃない。
だが、確かに。
お前の心臓は、握っているんだぞと。
お前の心臓など、いつでも握り潰せるのだぞと。
お前の心臓を、止めることは簡単なんだぞと。
生きている証である心臓の鼓動を、ぎゅっと握られている感覚があった。
自分の命が誰かに握られているのを、見せつけられているような感覚があった。
誰かの気まぐれで、いつ握りつぶされるのかわからない、心臓。
俺の心臓は、死神に握られていると、悟った。
死神は、俺の心臓を握り潰すタイミングを見定めているのだと、確信した。
いつ、握りつぶされるのか、わからない。
死神は、俺が一番どん底に陥った時に、狙って来るのではないか。
死神は、俺が一番幸せの絶頂にある時に、狙って来るのではないか。
死神は、俺が平凡に暮らす時に、狙って来るのではないか。
恐ろしくて、何をする気にもなれなくなった。
恋愛をしたところで、俺の心臓は握りつぶされる。
金を貯めたところで、俺の心臓は握りつぶされる。
良い事をしたところで、俺の心臓は握りつぶされる。
良い人になったところで、俺の心臓は握りつぶされる。
ただ淡々と、自分のルールを振りかざして生きるしかなかった。
面倒な女を叩き出した時も。
つまらない男を拒絶した時も。
腹立たしい奴を追い詰めた時も。
痛々しい奴に引導を渡した時も。
親の世話を妹に任せた時も。
葬式の手配を弟に全部やらせた時も。
遺産を独り占めにした時も。
どうせ、何をしたって、俺の心臓は、死神に握られている。
心臓の痛みを抱えながら、生きていくしか、ない。
かわいそうな、俺。
気の毒な、俺。
……うっかり死んでしまった時。
俺は、自分の心臓を握っていた死神など居なかったのだと、初めて知った。
死神すら迎えに来ない、どうしようもない人生を送ったのだと、ようやく気がついた。