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「私は――どうしたらいいのだろう」

 母の杏と別れて、大徳寺の修行僧となった恵太は、恵徳の教えを受けることとなった。

 初めは僧となるということをあまり理解していなかった恵太であったが、剃髪してつるりとなった頭を撫でて、本当に僧になるんだとぼんやり思った。


「恵太。あなたは今日から恵俊と名乗りなさい」


 受戒と行ない、正式な僧侶となった恵太に、恵徳は穏やかな笑みと共に告げた。いわゆる戒名と呼ばれる僧としての名だ。恵太――恵俊はこくりと頷いた。


「これから修行をすることになります。つらいことや厳しいことが、あなたを待ち受けるでしょう。しかもここであなたを助けてくれる者はいないかもしれません」

「…………」


 聞きようによっては恵俊を怖がらせるものであったが、加賀国にいた頃を思うと彼にしてみれば何も変わらないことだった。だから何の感情を込めず素直に頷いた。


「この大徳寺で、あなたは何かを得られるかもしれないし、得られないかもしれない。ここでの修行が意義あるものになるかもしれないし、無意味に帰すことになるかもしれない。それでも――」


 恵徳は少し言葉を切って、笑みを崩さずに言う。

 恵俊の修行が始まる前に言うべきことを高僧は言う。


「あなたの生きる目的を示してくれます」

「目的……?」

「救世、救済。あるいは人を教え導く力を養うことができます。懸命に修行すれば、自然と学べます」


 幼い恵俊には救世や救済など分からなかった。ましてや人を教え導くなど、自分にできるのか疑問に思っていた。自分には何も無いと彼は考えていた。

 ぽかんとした顔で見つめる恵俊に恵徳はさらに言った。


「けれど、これだけは心に留めておいてください。修行を重ねたあなたは人を救うことができるかもしれない。その結果、人々を救うことができる。しかし――」


 恵徳は戦国乱世に生きる僧として、かなり現実に即した厳しい言葉を恵俊に伝えた。


「あなたは人を救わなくてもいい。目的のために生きてはなりません。生きるために目的があるのですから」


 いかにも禅僧らしい言い回しで、修行前の恵俊には分かりにくい言葉だった。

 しかしいずれ自分は人を救うことができることと救わなくても良いことがなんとなく分かった。

 恵徳の言葉は心の奥底に突き刺さって、恵俊は生涯忘れることはなかった。

 それは彼の目的にはならなかったけど、人生の指針になってしまったのは否めなかった。



◆◇◆◇



 恵俊の大徳寺での暮らしは、決して楽なものではなかった。

 朝早く起きて、掃除炊事洗濯などを行ない、読経や説法、読み書き計算などを夜になるまで叩き込まれた。

 頭が破裂しそうな知識や勉学、そして身体への負担が多かったが、恵俊はめげなかった。理由は――食事だった。


 臨済宗の大本山である大徳寺と言っても、食べる物は粗末である。あるいは他の寺院の示しとなるために、わざと食事を質素にしているのかもしれない。

 だが加賀国にいた頃は冷え切ったものを父親が起きないように怯えながら食べていた彼にとって、暖かいものを安心して食べられるという環境は素晴らしいものだった。


 粗末で質素な禅僧の食事。庶民でも喜んで食べないと思われるそれを、初めて口にしたとき、恵俊は暖かさと安心で涙を流した。修行を真面目に行なえば、ご飯が食べられる。だから彼は懸命に励んだ。


 しばらくして、心に余裕ができ、ある程度知識が身につくと、恵俊は疑問を感じることが多くなった。


「どうして、戦は無くならないのか。どうして、人は人を殺すのか」


 戦国乱世において、戦と人殺しはありふれたことだった。

 誰も気にしていないことを、恵俊は不思議に思うようになった。

 衣食足りて礼節を知るという言葉があるように、最低限の生活ができるようになると、人は道徳や倫理を考え始める。今の暮らしをよりよくしたいと思うのだ。


 けれど恵俊の疑問に答えられる者はいなかった。

 それは難しい問いであったからではない。戦や人殺しは日常であり、言ってしまえばありふれていたからだ。

 空が青いのは何故と問われているようなものだった――そうであるからとしか、他の修行僧や高僧たちは答えられなかった。


「殺生は良くないと説く僧が、その理由を答えられないのは、どうしてだろう?」


 恵俊は愚かではなかった。むしろ賢い部類である。

 しかしながら、疑問を疑問で終わらせられないところがあった。

 答えを知りたがったのだ。


 無論、自分でも考えてみた。

 大徳寺にあった経典や書物を熟読し、自分なりの考察もしてみた。

 でも見つからない。答えが分からない。

 当然と言えば当然である。分かれば誰も座禅を組んで悟りを目指さないし、分かったところで戦と人殺しは無くならない。


「私は――どうしたらいいのだろう」


 自分のことをおらと呼ばなくなっても、悩み続けていた恵俊。

 周りからは変人と思われるようになった。

 他の僧たちは己の修行を果たして、位の高い高僧になるのが目的だった。

 真理を求める恵俊と話が合わなくて当然だった。


 自分を僧にしてくれた恵徳に訊ねるのは、恵俊にはできなかった。

 もしも求めている答えと違ったらと思うだけで恐ろしかったし、ひょっとしたら答えを持ち合わせていなくて、そもそも考えたことも無いと言われたら、流石に立ち直れないと恵俊は思っていた。


 実を言えば、恵徳は他の僧から恵俊の疑問のことを知っていた。

 恵徳はもし訊きに来たら自分なりの答えを言おうと考えていた。

 そしておそらく、自分の考えが恵俊の求めているものではないと分かっていた。



◆◇◆◇



 大徳寺に入門して八年後の天正十一年。

 恵俊が十八歳になる頃には世の中ががらりと変わってしまった。

 天下に一番近かった男、織田信長が討たれて、謀反人、明智光秀が羽柴秀吉に討たれ、その羽柴秀吉が織田家宿老、柴田勝家と覇権を争っていた。


 そんな折、大徳寺に母の杏が訪ねてきた。

 入門以来、会っていなかった母との再会だった。


「久しぶり、恵太。元気にしてたかい?」

「母上……少し太られましたか?」


 大徳寺で会うのは許されなかったので、近くの大きな橋の近くで会うことになった二人。

 恵俊の記憶の中の母親は、頬がこけていて、この世の不幸を一身に集めていた感じだったが、今目の前にいるのは、丸々と太った、穏やかな中年の女性だった。


「ねねさまに食え食えと言われてね。気がついたら太ってしまったよ。それより、恵太――今は恵俊だね。大きくなったよ」

「そうですか? 自分ではそう感じませんけど」

「私の背より大きいよ」


 どこか余所余所しい雰囲気の親子だったが、八年も会っていなければそうなるものである。

 しばらく互いの近況を話していると、不意に母が「僧のお前に話すのはどうかと思うけどね」と切り出した。


「キリスト教って知っているかな?」

「名前だけは知っています。他の修行僧たちが騒いでいましたね。京の南蛮寺がどうだとか」


 キリスト教にあまり感心がないというか、触れてはならないものという印象が強かった恵俊は、自分の私見を出さずに答えた。

 すると母は「実はね……」と少し言いにくそうに言う。


「私、キリシタンになったのよ」

「……母上が、キリシタンに? それはどういう経緯ですか?」


 頭の片隅に異教徒という言葉が浮かんだが、それを言葉にも表情を出さずに、努めて冷静に言えた恵俊。

 母は意を決したように「会ってほしい人がいるの」と半ば恵俊の言葉を無視するように続けた。


「宣教師のロドリーゴさん。きっとあなたも気に入ると思うわ」


 母の瞳の黒目は、何の感情もなかった。

 まるで深淵を覗いているような、あるいは覗き込まれているような感覚を恵俊は受けた――

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