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「お、おら、こんなところで住むのか?」

 天正三年の六月。

 父親が死んで慎ましやかな墓を立てて、家財を処分して恵太と母親は加賀国を立ち去った。見送る者もいない淋しい故郷との別れだった。


 もう二度と帰らないだろうなと心のどこかで思う恵太。

 清々した気分はほとんど無くて、いじめられていた記憶しかないのに物悲しい気持ちが占めていた。幼い彼にきちんと教えてくれなかった大人は居なかったのだけど、それはおそらく郷愁だった。


 加賀国を含めた北陸地方は、秋から冬にかけて大雪になる。その前に父親が言い残した京の大徳寺に行こうと母親は考えた。実際、それは正しい判断だった。後一ヶ月か二ヶ月遅れていたら危ういことになったことを彼らは知らない。


 その危ういことと言うのは、当時最も天下に近かった織田信長による越前国進攻だった。七月から八月に行なわれる戦は一向宗を根絶やしにしたと伝われている。恵太と母親は運良く戦乱から逃れることができたのだった。


 恵太は京に行くと決まってから様々な妄想をした。

 京には何があるのだろう?

 大徳寺とはそもそも何だろう?

 今までのつらかったことが無くなるくらい、楽しいことが待っていればいいなと彼は思った。


 長い旅の末、ようやく京を訪れるとまず驚いたのは人の多さだった。

 武士や商人など、村では見ない格好をしている者が多い。

 その中には僧侶もいて、意地悪をしてきた一向宗の僧侶と違い穏やかだった。


 織田信長が上洛を果たしてからというもの、京の町は整備されていた。

 大昔に栄えていた時代に戻ったとは言いがたいが、それでも人が集まるくらいには復興していた。


「お、おら、こんなところで住むのか?」

「そうよ恵太。ここで新しい生活が始まるの」


 長い旅路で疲れていた母親だったけど、活気ある京の都とそこに住む人々の賑わいに元気を取り戻しつつあった。

 恵太は汗を拭った。加賀国と違って京の夏は暑い。盆地に囲まれているため、じめっとした空気が身体中に纏いつく。


 恵太と母親は大徳寺の場所を人に聞いて、ようやく辿り着くことができた。大きな門と立派な寺院に気後れする恵太に対し、母親は門の前にいた僧に、父親の知り合いだという恵徳の所在を訊ねた。それから恵太を預かってほしい旨を伝える。


「恵徳様なら本堂にて経を唱えております。しばしお待ちください」

「ありがとうございます」

「して、ご婦人のお名前は?」


 母親は「宋仁の妻、杏といいます」と自身の名前を告げた。

 しばらくして僧が戻って「恵徳様はお会いになられるそうです」と言う。


「しかし大徳寺に女人を入れるのはよろしくないので、近くの茶屋でお会いするそうです」

「かしこまりました。お待ちしております」


 そのとき、恵徳からお茶代として少々の銭を手渡された母親は恵太を連れて茶屋に向かう。しかし茶屋に行っても注文は白湯のみだった。もし恵徳に断れたら、今後の足しにしようと思ったのだ。


「母ちゃん。お腹空いたよ……」

「我慢しなさい」


 そのとき、茶屋の隣に猿顔の男と気弱そうな男が座った。

 猿顔の男が団子をたくさん注文する。

 気弱な男は「そんなに食べられるんですか?」と首を傾げた。


「お腹が空いたのだ。良いではないか」

「残したりしないでくださいよ、兄者」


 どうやら二人は兄弟らしい。雰囲気は似ているけど、顔は似ていないから義理の兄弟か片親が違うかもしれないと恵太は思った。


 たくさんのみたらし団子が男たちの前に並ばれる。

 猿顔の男が両手に持って美味しそうに食べ始める。

 気弱な男は一本ずつ行儀よく食べるが、一方の男のように美味しそうに食べていた。


「それで、小寺家からの使者が来た件についてだが」

「家老の黒田ですね。はたして信用できるかどうか」


 恵太の腹がぐるると鳴った。みたらし団子と男たちの食いっぷりを見ていたせいだ。

 猿顔の男が恵太を横目で見て「なんだ、腹が空いたのか?」と訊ねる。


「すみません……恵太、はしたないよ」

「でも母ちゃん。おら、お腹空いたよ……」

「そういうこと言わないの!」


 猿顔の男は不思議そうに「なんだ。茶屋にいるのに何も食べないのか」と白湯を見た。

 母親は恥ずかしそうに「人と待ち合わせしているのです」と答えた。


「ふむ。何か事情がありそうだが……坊主、団子やろう」

「ええ!? いいの!? ありがとう、おじちゃん!」


 素直に喜ぶ恵太だったが「こら恵太。駄目ですよ」と母親が叱る。

 そして猿顔の男に頭を下げた。


「ありがたい申し出ですが、お断りさせていただきます」

「理由を聞こうか」

「見ず知らずの人に施しを受ける謂れはありません」


 猿顔の男は感心して溜息をついた。

 身なりと顔つきを見る限り、極貧の生活をしているのは明らかだ。しかし他人からの施しを受けないという最低限の矜持を持っているのは立派だった。

 ただの貧乏人ではなく、強い意志を思っている女人だなと猿顔の男は思い直した。


「すまなかったな。余計なことを言った」

「いえ。こちらこそ厚意を無碍にして申し訳――」

「お待たせいたしました」


 そこへ恵徳がやってきた。恵太の父親と同じくらいの年齢。僧衣を着ているがさほど豪華ではない。清貧という言葉が合う。顔立ちは厳格で真面目な性格を思わせる。


「あなたが杏殿で、そちらが恵太ですね。そしてそちらの方は?」

「ああ。たまたま隣に座っただけだ。ちょっかいも出しとらん」

「そうですか。では失礼します」


 恵徳は恵太と母親の真向かいに座った。

 そして彼らと同じく白湯を頼む。銭を使わなかったことは指摘しなかった。


「それで、恵太を預かってほしいとのことですね。それは了承しました」

「あ、ありがとうございます!」

「しかしあなたはどうするつもりですか?」


 恵徳の問いに母親は言葉を詰まらせた。

 実を言えば、恵太を預かってもらった後のことは考えていない。

 父親の後を追うことも視野に入れていたけど、踏ん切りが着かない状態だった。


「……まだ何も考えておりません」

「そうですか。知ってのとおり、大徳寺で働くことはなりません。ですからあなたはあなたで働く術を持たねばいけません」

「…………」

「宋仁とは長い間、友人でした。ですから恵太を預かることは快諾しました」


 そこで言葉を切る恵徳。

 暗に母親の働き口は紹介できないと言っていた。


「私のことはどうでもいいのです」

「母ちゃん。おら、母ちゃんと別れたくないよ」

「困りましたね……」


 三人が困っていると猿顔の男が「よし、それならわしが面倒を見よう」と言ってきた。

 その場にいる全員が猿顔の男に視線を向ける。


「兄者。何を言って――」

「小一郎。良いではないか。ちょうどねねの侍女を探していたのだ」


 恵徳は怪訝そうに「失礼ですが、あなた様はどなたですか?」と訊ねた。

 猿顔の男は「よくぞ聞いてくれた」とにこやかに言う。


「わしは羽柴秀吉。北近江国の国主だ」

「なんと! あの羽柴秀吉様ですか!?」


 恵徳が慄く中、さっぱり分からない恵太と母親は困惑していた。


「いかにも。そこの、ええと……」

「あ、杏です」

「杏とやら。おぬしをわしの妻の侍女として雇いたい」


 突然の申し出にますます混乱する杏に秀吉は畳みかけるように言う。


「先ほどのやりとりから、おぬしは誠実な者だと分かる。それに路頭に迷いそうな女性をほっとけるだろうか、いやできぬ」

「しかし、兄者。本当に良いのですか?」

「良いに決まっている。御仏も喜んでくれるだろうよ。なあ恵徳殿」


 呆気に取られていた恵徳だったが、受け入れれば万事解決すると分かり「杏殿が良いのでしたら」と受け入れた。

 母親のほうはもし嘘でも恵太さえ大徳寺に入れたら自分がどうなってもいいという、刹那的な考えを持っていた。だからその提案を受け入れた。


「ありがとう、おじちゃん!」


 よく分からないなりに、恵太はお礼を言う。


「ははは。良いってことだ!」


 秀吉は満足そうに頷いた。

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