『彼』について
これは『彼』の生涯を描いた小説だ。
史料が少ないため、断片的で曖昧で創作なところがある。
特に彼の本名や家族については独自のものである。
もし気になるのなら読むのをやめてほしい。
『彼』の本名は後世――現代まで伝わっていない。
それは『彼』が路傍の石のような穏やかな人生を過ごしたわけではない――危険過ぎたためだった。
しかし危険過ぎることが罪悪であるならば、そもそも存在すら知られないのが現実だ。
どうして『彼』は歴史の表舞台に立たず、かといって存在を抹消されなかったのか。
答えは二つ考えられる――あくまでも想像だが。
一つは『彼』の罪を消さないため。
そしてもう一つは――触れたくないからだ。
存在を消すという形でさえ、関わりたくないと思ったのが、当時の人々の気持ちだろう。
『彼』について書かれた書物は少ない。
『彼』の洗礼名を知っている者も極僅かだ。
高校の日本史の授業でも習わないのが一般だ。
小説として書くのも恐ろしいしおぞましい。
だが書かねばならない。
少なくとも知った以上、書かねばならないという義務感がある。
危険と魅力は紙一重だ。『彼』のような波乱万丈な人生を歩んだ者を題材として使わないわけにはいかない。物書きの端くれとして、書かずにはいられなかった。
『彼』は戦国乱世という波乱な時代を生きていた。
『彼』は勇ましい戦国武将でもなければ、強かに計算高く生きた商人でもない。
謀略を司り実行した忍ぶ者でもなければ、勇気を以って海に生きた者でもない。
『彼』は僧侶――だった者だ。そして僧侶から外れて宣教師として生きた男だ。
つまり仏教徒からキリシタンになった男だ。
かつて海外から訪れた南蛮人が日本人にもたらしたもの。
人を殺す鉄砲。
人を魅了した南蛮文化。
そしてキリスト教だった。
『彼』はキリストの教えに魅せられて、所属していた臨済宗を離れて、キリシタンとなったのだ。内なる情熱に促されて、改宗したのだった。
『彼』の洗礼名は、ハビアンという。
ハビアンはキリシタンとして生き、そしてキリシタンとしての地位を築いた。
だがしかし、『彼』は突然、全てを棄てて棄教する。
宣教師としての地位と栄達、そしてキリスト教の全てを棄てた。
何故『彼』は仏の道さえを棄ててまで入信したキリスト教を棄てたのか。
仏だけではなく、唯一神まで棄ててしまったのか。
『彼』の思惑とは? 思想とは? 信念とは?
そして、『彼』は何に絶望したのだろうか?
繰り返し言おう。
『彼』の本名は後世に伝わっていない。
けれど悪名は現代に伝わっている。
――信じたものを全て棄てた、宗教者として。