状況整理
「保護、って……?」
状況がまったく理解出来ず、思わず間抜けな声が漏れてしまう。
知らない女から本名で呼ばれた。それだけで十分に不思議なのに、追加で「君を保護する」とまで言われたのだ。何が起きているのか見当も付かない。
「立ち話も何だから、落ち着ける場所で説明しようか。私に着いて来なさい」
「は、はあ」
しかも妙に馴れ馴れしい口調だ。本当に駅員なのかこいつ……?
「どうした? こっちだよ」
先を行くナミが振り返る。しばらく迷って、俺は彼女に付き従うことにした。怪しかろうと怪しくなかろうと、今は彼女しか頼れそうな相手がいないのだ。
真っ昼間の筈だが、ホームは夕方のように薄暗い。霧がかかっているせいで、少し歩くと電車の姿さえ見えなくなった。川でもあるのか、遠くから水の流れる音が聞こえてくる。
ナミに案内されて辿り着いたのは、駅員室だった。事務用の机と大きめのソファ、資料の詰め込まれた本棚がある。照明もちゃんと備わっていた。白い明かりにちょっとだけ安心感を覚える。
「緑茶とコーヒー、どちらがお好みかな?」
「コーヒーでお願いします」
「心得た。ああ、甘い物もあるぞ」
二人分のお菓子と飲み物を、ナミが机の上に並べた。どうぞ、と手振りで示してくる。謎の好待遇に警戒する俺だったが、彼女は普通に飲んでいる。薬とか入ってないよな。では試しに一口。
……あ、美味しい。
「どうだ? 少しは気分も安らいだんじゃないか」
「はい。ありがとうございます」
「礼には及ばないさ。ここには私しかいないから、そんなに緊張することもない。好きにくつろいでくれ」
そう言われて好きに出来るほど俺の心は図太くなかった。荷物を降ろし、ソファにそっと腰を落ち着ける。ナミは俺の向かい側に座った。
「さて、君の置かれた状況について話をするということだったね」
「そうですね」
「先に訊きたいのだが、君はどこまで覚えている?」
俺は、自分が誰かからホームに突き落とされ、気付けばこの駅に辿り着いていたことを伝えた。
「……なるほどな」
「何か分かったんですか?」
「ああ。驚くかもしれないが、いずれ知ることだから率直に伝える。高峯拓也くん、君は狙われているようだ」
「誰に」
「君の肩を押した某に。おそらくだが、人間ならざる妖怪の類だと思われる」
妖怪? そんなの……昔話じゃあるまいし。現実に存在するわけが――。
「信じられないようだな。しかし君の記憶だと、ホームは無人だったのだろう?」
確かにそうだ。ナミの言う通り、あの場所に俺以外の人物はいなかった。それなのに電車がやって来る直前、いきなり背後に気配を感じて、振り向こうとした時には突き落とされていたのだ。
まるで、瞬間移動でもしてきたかのように。
「ここはね、あの世とこの世の境目に位置する場所なのさ。本来なら君の魂は、そいつによって冥土へと連れ去られる筈だった。それを、この空間の番人たる私が見つけ、こうして保護したというわけだ」
「……取り敢えず、あなたの言うことを信じます。それで、俺は戻れるんですか?」
「私が犯人を捕まえれば、すぐにでも元の場所に戻すと約束しよう。だけどそれまではここにいなさい。結界が張ってあるから安全だ」
「結界?」
「この霧がそうだよ」
ナミが窓を開けた。外に広がる灰色の霧は、俺がここに来た時よりも一層濃くなっている。不気味を通り越して幻想的だった。
「私の力が及ぶ範囲は、まずホームの上。それと駅舎の中だ。線路に降りたり、駅の外に出たりしてはいけない。君を狙う妖怪は、今なおこの周りをグルグルと回って、侵入の機会を窺っているだろうからね。もし見つかったら……」
パァン。唐突に手を打ち鳴らしたナミに、俺は思わずビクリとなってしまった。不吉な単語こそ口にしないが、彼女が何を言いたいかは俺にも分かる。――見つかったら死。そういうことだろう。
背筋に冷たいものが走る。ここに来てようやく、俺は事態の深刻さを理解し始めた。ホームから突き落とされたときの記憶が蘇って、気付けば身体が震えていた。
「大丈夫」
穏やかなアルトの響きと共に、ナミの手が俺の背中に触れた。温かい。
「ここにいれば安全だ。私が君を守るから」
優しく、力強い声が耳元で囁かれる。甘い香りに鼻孔をくすぐられて、俺の心臓がドキリと跳ねた。
「あ、ありがとうございます」
「お礼を言われる程ではないよ。私が好きでやっていることだからね」
俺の呼吸に合わせて、背中のナミの手がゆっくりと上下する。
しばらくの間、どちらとも何も言わなかった。
「……あの、ナミさん」
「何だい?」
「あなたは何者なんですか? もしかして――」
人間じゃないとか? そう言いかけた瞬間、ナミの指がパッと伸びてきて、俺の唇を素早く塞いだ。
「……!?」
唐突な出来事に俺が目を白黒させれば、彼女は沈黙を保ったまま、俺に向かってウインクをしてみせた。
まるで「それ以上は訊くな」とでも言うかのように。
「女は秘密を纏うものさ。君がこれからも人間らしくありたいなら、それは知らない方が良い」
その答えだけで、実質的に肯定しているようなものだった。
彼女もまた、人ではない。見た目は妙齢の女性でも、正体は異形の怪物なのかもしれない。その事実はとても不気味で……けれどどういう訳か、そこまで怖さは感じなかった。
「納得したか? ……そう気を病むな、どうかくつろいでくれ。私はしばらくいなくなるけど、さっき教えた範囲ならどこを見て回ってもいいから」
そう言って笑ったナミは、そのまま駅員室から出て行こうとして……唐突に振り返ったかと思えば、「ただし」と部屋の奥を指差した。
「一つだけ言うのを忘れていたが、あの赤い扉だけは絶対に開けちゃダメだ」
「どうしてですか?」
「危険だからだよ」
※
駅員室に1人残された俺は、これからどうしたものかと途方に暮れていた。
くつろいでくれとは言われたが、見ず知らずの場所でくつろげる訳がない。好きにしていいとも言われたが、部屋の中にはよく分からないものが一杯で、下手に触ると壊してしまいそうで怖い。ならホームの方にでも行ってみるか?
いやでもなぁ。不気味なんだよな外。そもそもここって、ナミの言葉を借りると“あの世とこの世の境目”だもんな……。
「――っ、そうだ」
大切なことを忘れていた。彼女に一言、連絡をしておかないと。いつまでも帰って来ない俺に心配してるかもしれない。
鞄から携帯を取り出した。待ち受け画面には恋人の写真……ではなく、ピンクの首輪を付けた可愛いらしい柴犬が映っている。
モモ。女の子で、享年12歳。俺がまだ小さかった頃に拾って、それ以来実家で飼うようになった元捨て犬だ。家族の中では俺にしか懐かなくて、だけど俺にはめちゃくちゃ甘えてくるやつだった。
「おっと、郷愁に浸ってる場合じゃねぇな」
我に返り、電話帳から恋人の番号を探し出す。通話ボタンを押してから、携帯を耳元に。プルルルル、という単調なコール音を聞きながら、俺は恋人が電話に出るのを待った。
それなりに待った。
……繋がらない。
「なんでだ? ……って、ああくそ、電波届いてねぇのかよここ」
嬉しくない発見だ。外部との連絡手段も失って、いよいよ出来る事が無くなってきやがった。
「……寝るか」
鞄を枕に、俺はソファへと横になる。
生地は固くてゴツゴツとしていた。お世辞にも寝心地は良くなかった。