ステーション・イン・ミスト
猛暑が尾を引く九月の初旬。大学帰りの俺は、駅のホームで電車を待っていた。
『ってなわけで。卵とキャベツ買ってきてくれると、私とっても嬉しいんだけどなー』
耳元に当てた携帯から、わざとらしく語尾を上げた可愛い声が聞こえる。つい最近同棲を始めた、俺の恋人の声だ。つい先ほど講義を受け終え、彼女の待つ家へ急ぎ帰ろうとしていたところで、当の本人から電話がかかってきたのである。
何でも、お好み焼きを作ろうとしたが食材が足りなかったらしい。
「そんだけでいいのか? 青のりとかそっちにあったっけ?」
『青のりぃ? んー……ああ無いねぇ! ごめん拓也、それも追加でお願い!』
やっぱりな。内心で苦笑しつつ、俺は彼女に了解の返事を返す。普段はしっかりしてるのだが、たまにこういう抜けたところがあって、彼氏としちゃそれがまた可愛いのだ。
卵、キャベツ、青のり。買って帰る物を脳内で復唱していると、ホームのスピーカーから電子音声が響いた。
――まもなく電車が参ります。黄色い線の内側までお下がりください。
「お、悪い。電車来たから一旦切るぜ」
『オッケイ。代金はあとで割り勘ねー』
「スーパー寄ってからそっち行くわ。じゃなー」
会話を終える。ここは田舎の無人駅。ホームにいるのは俺一人だけで、この時間帯の電車には乗客も多くないと思うが、ぺちゃくちゃと車内で喋り散らすのはマナー的によろしくない。
右の方から黄色の車体――二両編成のワンマン電車がホームに滑り込んでくる。ワンマンというのは、文字通り乗務員が一人しかいないという意味だ。都会で暮らせばまずお目にかかれない、田舎の象徴たる交通機関の一つである。
――シャラン。
耳のすぐ横で、鈴を鳴らしたような音がする。それと同時に、背後から粘りつくような視線を感じて、俺の身体が本能的に強張った。
誰だ? 咄嗟に振り向こうとする。だが俺が動くよりも早く、クスリという笑い声が鼓膜を揺らして……。
――直後、後ろから肩を押された。
「へ?」
身体がグラリとよろめく。不意の出来事に意表を突かれ、足を踏ん張ることさえ出来ない。哀れそのまま線路へと突き落とされた。
……電車が近付いてくる。
痛みに耐えて右を向けば、見えるのは驚愕に歪んだ車掌の顔。
つんざくような甲高い警笛を最後に、俺の記憶はそこで途絶えた。
※
背中越しに感じる規則的な振動で、失っていた意識が現実に引き戻される。
ここはどこだろう。重たい瞼をこじ開ければ、眩しい光に眼球を貫かれる。俺は反射的に手で顔を覆って、瞳が周囲の明るさに慣れるのを待った。それからゆっくりと身体を起こし、おそるおそる自分の無事を、それから周囲の状況を確認する。
俺は電車の中にいた。
大学に持っていくリュックサックが、すぐ横に無造作に置かれている。どうやら俺はついさっきまで、電車の床で気を失っていたようだった。
「夢……だったのか?」
一瞬そう考えて、すぐに違うと思い直す。
毎日この路線に乗っているからこそ分かるのだ。これはいつもの電車じゃない。立ち上がって辺りを確かめてみれば、案の定、おかしなところが山のように見つかった。
まず、外の景色が見えない。真っ白な霧がどこまでも続いていて、線路の横に何があるのかさえ分からなかった。そもそもこの悪天候じゃ電車は運行しないはずだ。
車内の様子も奇妙だった。俺以外に乗客はおらず、運転席には黒いカーテンのようなものがかかっていて、ノックをしても返事が無い。壁や床は見覚えのある質感だったが、妙に綺麗に掃除されていて、ゴミもホコリも一つとして落ちていなかった。
「明らかに変だよな……」
ホームに突き落とされてからの記憶が無い。そのせいで、自分が何故こんな場所にいるのかも分からない。
ここからどうしようか。
悩みながら車内を歩き回っていると、電車が唐突に減速を始めた。
咄嗟につり革へ掴まって、倒れそうになるのを何とか堪える。電車は甲高い金属音を響かせながら、やがて駅らしき場所に停車した。
乗車口が開く。生ぬるい風が吹き込んでくる。ホームに人影は見当たらず、普段ならある筈のアナウンスも無い。しばらく待っても開け放たれたままの乗車口は、まるで俺に、ここから出て行けと言っているかのようだった。
様子を窺いつつ、ホームに降りてみる。電車と違って手入れが十分にされていないのか、電柱は雨風に晒されて汚れ、アスファルトの隙間からは草が生えていた。
なんか、不気味な場所だな……。
「やあ」
真横からかけられた朗らかな声に、思わず身体が固まった。
今のは……俺に向けられた言葉だよな?
近くに人なんていなかった筈だが。不思議に思いつつそちらを振り向く。そして直後、俺は呆気にとられた。
一人の女性がそこにいた。
目も眩むほどの美人だった。
「ど、どうも……?」
戸惑いながらも応えた俺に、女性は優しく頷きかけてくる。
肩まで伸びた美しい長髪が、そよ風を浴びて胸元の膨らみまで流れた。
駅員の制服をピッチリと着こなす様は、どことなく男装の麗人のよう。綺麗、というよりは、カッコよさを感じる出で立ちだった。
しかも俺より背が高い。180はあるんじゃないか……?
「君は高峯拓也くんだね」
「へ? は、はいそうっすけど……どうして俺の名前を? それにここはどこなんですか? 俺、こんな駅知りませんし、こんな電車に乗った記憶も無くて」
「戸惑っているんだね。まあ無理も無い。いきなりこんな場所に連れて来られたら、誰だって普通は混乱する筈だ」
「連れて……え? それってどういう」
「ああすまない、自己紹介がまだだったね」
こちらの言葉を遮って、女性が俺の肩に手を伸ばす。
艶やかに澄んだ、黒曜石のような瞳。ずっとこうして見つめていると、知らぬ間に吸い込まれてしまいそうだった。
「私の名はナミ。この空間の主にして、君を保護する者だ」