カイキテキ・マ・テキテキ 5
俺の命令におっさんは肩をぶるりと震わせたかと思うと、慌てて立ち上がり、投げつけられた洋服をかきあつめる。そして、それらを一つずつ包装紙から取り出そうとするが、慌てるあまり手元がおぼつかず、なかなかうまくいかない。
半ば強引に取り出した後、トランクスからはこうと、両足を突っ込むが、それをひざ元まで上げたところで、おっさんは一瞬だけ動きを止める。タグがつけっぱなしであることに気が付いたからだろう。しかし、はさみもなければ、明らかに怒り心頭な俺にはさみがあるかと尋ねることもできない。おっさんは瞬時にそれらについて考えた後、結局タグをつけたままトランクスをはき、残りのTシャツやハーフパンツも同様にして着た。
一方その間俺は何をしていたかというと、リズミカルに貧乏ゆすりをしながら舌打ちを繰り返し、もたもたと着替えるおっさんにただならぬプレッシャーをかけ続けていた。
しかし、俺の中の苛立ちはおっさんを待っているうちに急速にしぼんでいった。冷静に考えれば、さっきのガキどもとおっさんは無関係なんだし、俺のやっていることは八つ当たりに他ならない。俺は自分をさらに落ち着かせるため、目をつぶり、腹から時間をかけて息を吐きだす。これは随分前に坐禅寺で教わった呼吸法だ。自分を落ち着かたいときはいつも役立っている。
息を吐ききってから、俺は目を開けた。すると、すでにおっさんは服を着終わっており、そわそわと俺を伺うようにして身体を揺り動かしていた。俺はとりあえずおっさんに対し、突然怒鳴りつけてしまったことを詫び、レジ袋に入っていたスポーツドリンクと氷を手渡し、ベンチに腰掛けるように促した。
おっさんはきょんとしながらも俺の指示通りベンチに座り、俺はその隣に腰かけた。隣でおっさんがスポーツドリンクをおいしそうに飲んでいる様子を見ながら、俺は単刀直入に質問した。
なんでベランダであんな状態になるまで、それも裸のままで寝転がっていたのか、ということだ。
俺は返事を待ったが、おっさんはペットボトルから口を離した後も俺から目を背けるだけで何も答えようとしない。俺は続けて、なんで家族はおっさんをベランダに放置したまま外出したのか、なんですぐに救助を求めなかったのかなどを問い詰めるが、それでもおっさんは煮え切らない返事をするだけだった。
成人男性とはいえ、一家の一員をあんな風にほっぽり出すなんて異常だ。何かわけがあるに違いない。しかし、それならなぜおっさんはそれを答えようとしない?
しかし、おっさんの反応を見ているうちに、ふと俺の頭の中に一つの単語が思い浮かんだ。DV、すなわちドメスティック・バイオレンスだ。おっさんが妻や子供から罵られ、しまいには暴力をふるわれる姿を想像してみる。その想像はおっさんの頼りなさげな風貌と相まって、ある種のリアリティを帯びていた。
俺は燃え上がる正義感を押さえつけながら、おっさんに向き直る。小豆のような目を覗き込みながら、俺が家族からDVを受けているのかと聞くと、おっさんはぽかんと口を開けた。そして、すぐさま俺の言っている意味を悟ったのか、ぶんぶんと首を振り、そういうわけでは決してないと必死に否定した。
俺は最初、おっさんが健気にも家族をかばおうとしているのだと信じ、何度も何度も嘘はつかなくていいと優しくなだめたが、それでもDVを否定し続けたため、俺は耐えかねて「ふざけるな! いい加減に本当のことを言え!!」とおっさんの右ほおを思いっきりはたいた。
しかし、おっさんはぶるぶると震えながらもなお違うんですと主張を続けたため、俺はそこで初めて自分の考えに疑問が生じ始めた。俺は感情を鎮めながら、それでは一体どんな理由なのかとおっさんに尋ねた。
おっさんは躊躇いながらも、「信じてもらえるかはわからないんですが」と前置きをつけたうえで答えた。
「自分が誰なのか、全く記憶がないんです」
記憶がない? 俺はおっさんの言葉に眉をひそめ、どういうことなのかと問い詰める。
おっさんはおどおどしながら、言葉通り、あのベランダで目が覚めた時にはすでに何の記憶もなく、自分がなんでその場所にいたのか、なぜ自分が裸で、それも土やらで汚れていたのか、そして何より自分は一体誰なのかが全く分からないのだと説明した。
俺はおっさんにあの家の人間じゃないのかと言ってみたが、おっさんは俺の言葉を予想していたかのように、力なく首を横に振った。おっさんによると、自分も初めはそうだと思い、ふとカーテンの隙間から部屋の中をのぞいてみた。その時の光景はというと、ちょうど家族三人が大きな鞄を持って出かける最中だったと言うのだ。
構成は成人男性一人と成人女性一人、そして高校生くらいの可愛らしい女の子一人で、よくあり仲睦まじい家族だった。そして、彼らを見た瞬間、自分は彼らとは縁もゆかりもない人間だと瞬時に悟ったらしい。
俺はそこで、少しだけ躊躇しながら、その成人男性が間男だって可能性もあるじゃないかと言ってみた。しかし、おっさんは俺の考えも簡単に退ける。いくら記憶喪失とは言っても、自分と以前関わりがあったものに対しては、どこか既視感のようなものがあるはずなのに、窓からのぞいた部屋の様子や三人家族には親近感のかけらも感じなかったとのこと。
三人が部屋を出ていった後、おっさんは一人で何とか記憶を思い出そうとしたが、結局わかったのはこの家庭と自分とが全く関係のない間柄だと言うことくらいで、他のことはちんぷんかんぷんだった。
そして、悶々と考え込んでいるうちに、いつの間にか眠ってしまい、ベランダに差し込んだ真夏の日差しでやられてしまった。おしまい。
俺はおっさんの摩訶不思議な話を混乱しながら聞き続けた。もちろんおっさんの話を丸ごと信じ切ったわけではない。
それでもおっさんが記憶喪失で、自分が一体何者なのかわからずにいるということだけは不思議と信じる気持ちになっていた。




