シガクテキ・マ・テキテキ 10
それにしても不愉快だ。
私は家の玄関で靴ひもをほどきながらつぶやいた。そのような不機嫌な時に限って靴ひもはなかなかほどけず、またプーシキンはいつもより激しく股間を私にこすりつけてくる。
私は威嚇のつもりできっとプーシキンを睨み付けた。しかし、繊細で移ろいやすい乙女心という抽象的概念を下等生物が理解できるはずもなく、プーシキンはただみっともなく舌を垂らしながらこちらを見つめ続けるだけだった。
そしてその瞬間、そのプーシキンの下劣な姿が九条先輩の姿と重なって見えた。
私はあまりのおぞましさに小さな悲鳴を上げ、その後すぐにそのイメージを頭から振り払おうと頭を左右にぶんぶんと振る。私はなんて罪深いことを考えてしまったのだろう。この下劣という概念をその存在に顕現せしめたプーシキンと、麗しき九条先輩を同じようなものだと捉えたなんて。
美しい先輩がこのプーシキンと似ているはずがない。そんなことがあっていいはずがない。でも、品がないところとかは似てる……? いやいや、今のはなし! そんな不条理が許されてたまるもんか!
私はプーシキンに慌ただしく餌をやり、すぐさま自分の部屋へ飛び込んでいく。
そして自分の本棚から、お父さんから昔譲り受けた詩集を片っ端から取り出し、それを自分の机の上に放り投げた。中原中也、谷川俊太郎、ユゴー、ボードレール、ゲーテ。日本と海外のあらゆる有名詩人の詩集が机の上に積みあがる。
私はさらに机の引き出しの奥から、小学生時代に買ったのであろう便箋を取り出した。便箋は可愛らしい桃色で、少々子供っぽいが今更文句を言っている暇はない。私は一枚だけ抜き取り、それを机の上に置く。私はシャーペンを取り出し、一行目からできるだけ丁寧に、そして何より心を込めて文字を綴り始めた。
先輩がどのような人物なのか。もちろん先輩と自分の審美眼を信じる以上、私たちの知らない長所が存在するのだろう。しかし、そうだとしても、今の私にはそれを悠長に探り当てる暇も意志もない。
とりあえず今やるべきことは、柏木が持つ先輩のネガティブイメージをひっくり返すこと。九条先輩と私の名誉のためにも、これは絶対不可欠最優先の課題なのだ。
そして緊急性を考慮すれば、それは別に先輩の隠された美点ではなくていい。人間は日々成長する存在だし、感受性豊かな青年期ならなおさらだ。つまり早い話、先輩がこれからすぐに、みんなが驚くような美点を作り上げればいい。
そのために私が先輩を啓蒙する。私が陰ながら、そしてさりげなく先輩の自己形成を促してあげればいいのだ。私はがむしゃらに筆を進ませ、そして一時間かけて次のような手紙を書きあげた。
拝啓。九条隆之殿。
突然お手紙を差し上げます失礼をお許しください。けれども、あなた様に深く関係する火急の用があったため、このように連絡させていただきました。用件とはこうです。私がこの手紙に添えた、あるいは今後お送りする予定の贈り物を何も言わずにお受け取りください。これらは私が厳選したものであり、必ずやお気に召していただけると思います。お送りしたものをしっかりと読み込み、ぜひ自らの血肉としていただきたいのです。
追伸 贈り物は私の気持ちが込められたものです。必ず目を通し、ゆめゆめお捨てにならないよう。私自身は九条殿を信頼申しておりますが、仮にそのようなことがあれば、災いが訪れるやもしれません。
即興で適当に書いたにしては上出来だ。私は出来上がった手紙を読み返しながら一人悦に入る。
これほど気持ちのこもった手紙を受け取れば、きっと興味が湧き、送られてくるものを無下に扱おうとはしないはず。そして、それこそが私の作戦だ。
この贈り物作戦は先輩が詩的センスに目覚めてほしいという健気な思いから思いついたものだ。私が手紙とともに詩集やらなにやらを送る。そして、先輩がそれを読み、おのずと芸術のすばらしさを知る。そうなれば九条先輩の人としてのレベルがあがる。
別に知識があれば人として素晴らしいと言うつもりはないが、教養のかけらもない人間は見ていてみっともないのも事実だ。そして、今の先輩のちょっとした欠点は部分的にそれが原因となっている。私がめげずにそうした教養あふれる贈り物を続けることで、先輩もきっと私の期待に応えてくれるはず。
つまり、私が考えている作戦を端的に表すなら、九条先輩啓蒙計画と言える。少なくともみんなに馬鹿にされないレベルまで、あるいはそれ以上の人格的陶冶を経て、外見に負けない美しい内面を作り上げる。そして、今回の作戦はその第一弾なのだ。
私はもう一度だけ文面を確認する。若干熱が冷め、先ほどよりは素晴らしいものだとは思えなかったものの、それでも九条先輩の興味関心を引くだけの手紙であることは確かだ。
半ばノリで書いた、最後の災いと言う文言を削除するか迷ったが、こうでも書かなければ先輩は私の贈り物をぽいとなおざりに扱ってしまうかもしれない。私はとりあえずそのまま残しておくことに決め、高鳴る鼓動を感じながらその手紙を可愛らしい桃色の封筒に収めた。




