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喜劇的☆マ☆テキテキ  作者: 村崎羯諦
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シガクテキ・マ・テキテキ 1

 恋。それはなんて甘美で麗しい言葉なんだろう。


 恋は人のために存在し、そして人は恋ゆえに美学的な生き方を許される。恋ゆえにジュリアンはギロチンにかけられ、ロミオは毒を飲み、そして若きウェルテルはピストル自殺を図った。


 恋情はありふれた形容詞で表現することさえできず、偉大な詩人や作家しか、その真髄にたどり着くことのできない崇高なもの。脳科学的にはフェニルエチルなんとかというホルモンで説明がつくらしいけど、そんなの全くナンセンス。私の内奥に生じる感情の高ぶりはそんなシステマチックに説明することなどできるはずがないし、何よりそれは詩的ではない。分子構造がハート形をしているとかじゃない限り、そんな物質の存在なんか絶対に認めてやんない。そんなことを本気で信じている科学者はきっと、モテない冴えないしょうもないやつら。多分、六、七割は童貞。


 とにかく、科学者の反駁の余地のない言葉も、ただ恋に恋してるだけだよなんてニヒリスティックな言葉も関係ない。私は今、強烈に恋している。それは真理であり、そして何よりこの上なく詩学的。それ以外の事実は必要ない。つまりはそういうこと。






 運命の出会いは昨日の夕方、夏休みの午後練が終わった後、私が飼っている不細工なパグ犬、プーシキンの散歩をしている最中に起きた。


 散歩コース上にある近所の公園に立ち寄ったその時、今までおとなしくしていたプーシキンが突然走り出し、私は思わず手綱を離してしまった。


 プーシキンはそれ幸いと速度を上げ、一直線に隅っこに設置されていたベンチの方へ駆けていく。そのベンチには一人の男子高校生が手にポテチの袋を持って座っていて、プーシキンはためらうことなくその人に飛びかかり、ポテチを持っていた腕にかみついた。


 当然彼は痛みと衝撃で手を離し、地面に落ちた袋から中身のチップスが袋の外へと散乱してしまう。するとプーシキンはすぐさま彼の腕から口を離し、これ以上ないほど下劣な笑みを浮かべながら、散らばったポテトチップスを猛烈な勢いで食べ始めた。


 ああ、またやってしまった。


 私は飼い犬が行った悪行への羞恥で顔を赤らめながら、落っこちたポテチを呆然と眺めている彼のもとへと歩み寄った。飼い主の責任として謝罪と賠償をせねばならない。私の足取りは鉛のように重く、どんな文句を言われるだろうとびくびくしていた。


 しかし、ふと頭を上げた彼の顔を見た瞬間、私の鬱屈した気持ちは、ヘラクレスの柱の向こう側へと飛んでいってしまった。


 それも仕方がない。なぜなら彼の顔はこの世のものとは思えない、ギリシア彫刻のような美しい顔立ちをしていたからだ。


 目と鼻は日本人離れした堀の深さで、唇は薄く、ランのような淡いピンク色をしている。くっきりとした二重瞼の下には長いまつげが伸びており、その奥には栗色の大きな瞳が潜んでいて、その瞳は、目を凝らせば彼を見つめている私の姿が見えるんじゃないかと思えるほどに澄み切っていた。輪郭も細く、さっぱりと短く切られた髪型と相まって、美しさと調和した精悍さをも漂わせている。


 それはまさにハッと息をのむ美しさだった。


 私は謝罪の言葉も忘れ、彼の前でただただ立ち尽くすことしかできなかった。最初は彼の方も何の用事だろうと不思議そうに私を見つめていたが、何も言おうとしない私に関心を失ったのか、すぐに顔を伏せ、地面に散らばったポテトチップスと尻尾を振りながらそれらを食い散らかすプーシキンを見つめた。その顔は深い憂いに満ちていた。


 そして彼は優雅な仕草で足元に落ちていた一枚のポテトチップスを拾い上げ、まるで聖母が我が子を慈しむような手つきで土を払い、それを口に放り込んだ。それから彼は再び地面に目をやり、もうほとんどが犬に食われてしまったことを見て取ると、メランコリックに長いため息をつく。


 それから隣に置いていた大きいリュックサックを背負うと、ゆっくりとベンチから立ち上がってその場を去っていった。


 私はその間中ずっと彼を見つめ続けていた。彼の顔を見たその瞬間から、私の心の中には恋という崇高な感情が芽生え始めており、そのBGMとしてマルティーニの「愛の喜び」が響き渡っていた。


 私は公園を出ていく彼の背中を見つめ、そして、無意識のうちに彼の後をついていった。燃え上がるような感情の高ぶりと、締め付けるような胸の苦しみが私の胸の中で嵐のように暴れまわっていた。


 一目惚れ。そう言われたら、確かに俗っぽい始まり方なのかもしれない。実際、それまでの無知蒙昧な私は心の隅でそのような恋愛を小ばかにしていたところもあった。


 だけど、今の私にはそんなことはどうでもよい。私の心が甘く切ない恋情で満たされきっている、この事実さえ以外に一体何を気にすればいいのだろうか。


 そのまま彼は道草することなく歩き続け、結局最後まで私の方を振り返ることもなく一軒の家の中へ入っていった。きっと彼はこの家に住んでいるのだろう。私は忘れないようにとこの家の外観を目に焼き付けた後、玄関前の表札を確認してみた。


 表札には太字で「九条」と彫られてあった。これが彼の苗字なのだろう。私は奥手な少女なので、これ以上強引にアプローチすることは到底できない。とりあえず住所の苗字がわかっただけでも十分だし、こうして彼の近くで立っているだけで心は満たされた。


 私はもう一度熱い視線を目の前の家に送り、そこでやっと公園にプーシキンを置いてけぼりにしてきたことを思い出す。明け方までこうしていたいのが本心なのだが、私の大事なプーシキンをそのままにしておくこともできない。私は非情な運命を呪いながら、その場を去っていった。


 その途中、私は歩きながらふとある事実を思い出す。そういえば彼が着ていた制服は、私の高校のやつじゃないか。もしかしたら部活の先輩が彼を知っているかもしれない。いや、知っているに違いない。なにしろあれほど美しいお方なのだから。


 そう結論付けるとともに、私の心は再び舞い上がった。


 恋の楽しさとはまさにこのような一喜一憂のことを言うのだろう。早速明日、部活の先輩に、彼のことについて聞き出そう。私は興奮を必死に鎮めながらそう自分に言い聞かせる。


 ああ、早く明日になって欲しい。そんなことを考えながら私は公園に戻り、ポテトチップスの袋を頭にかぶりながら駆けまわっていたプーシキンの回収を終え、陽気に帰路へ着いたのだった。

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