テツガクテキ・マ・テキテキ 1
夏休みも半ばを過ぎたある日。
映画の背景のような青空が広がり、真夏の太陽はさんさんと輝いている。マンションの裏庭からはセミの喧しい鳴き声が聞こえてきて、うだるような暑さが肌にまとわりついて気持ちが悪い。
私はリビングからベランダへと出て、手すりに身を寄せながら町並みを眺めてみた。ベランダからは陽光を反射してキラキラと光る川面が見え、その川に架かる橋梁の上をゆっくりとした速度で電車が通っていく。土手沿いでは、少年野球チームが有象無象に動き回っており、ふとマンションの下を見下ろしてみると、買い物から戻ってきた主婦が、近所名物のお喋りババに捕まって、生産性のない会話に否応なしに巻き込まれているのが見えた。
しかし、いくら周囲を観察しても、やはり退屈だった。ベランダの塀に寄り掛かりながら、先週読んだ『共産党宣言』を思い返し、来週買うBL本に胸を焦がし、そして次にマルクスとエンゲルスのホモセックスを想像してみた。それはとってもキッチュでペダンチックだったけれど、哲学的だとは到底言えなかった。私は憂鬱気にため息をつき、空を見上げる。空には細長い棒状の雲が浮かんでいた。あれが夢に出てきたら、きっとフロイトはあの雲を男根の象徴だと解釈するのだろう。
しかし、いくらとりとめもない考え事に身を委ねていても、やはり退屈である事実にかわりはない。高校の部活動や仲良し女子グループといったコミュニティに属さない私にとって、高校の夏休みはあまりに長く、そしてあまりに過ごしにくかった。その上、ここ二週間、パパとママはタイミング悪く海外に出張しており、飼ってた猫は先月血を吐いて死んでしまったばかり。
その気になれば誰かを誘うことだってできるし、友達が忙しければ、最悪出会い系か何かで、馬鹿な男をひっかけることだってできる。だけど、そうしてまで誰かと一緒にいようとは思わない。主として信条的、哲学的理由から。
一人が嫌いなわけではない。諸悪の根源は退屈であることだ。退屈な状態が続いてしまえば、余計なことばっかり考えてしまう。このままではいつか、金持ちのババアを斧で殺してしまうかもしれない。それだけは嫌だ。だって血は嫌いだもの。
私は天に向かって大きく背伸びをする。その時、ふとちょっとした散歩に出かけることを思いついた。これから何か予定があるわけでもなければ、ぐずぐずしている理由もない。私はすぐに靴を履き、日差し除けの帽子をかぶって外へ出る。
いつもの散歩コースではつまらないので、今日は違った道を行こう。私は照り付ける太陽に眉をひそめながらそう考える。
そしてそのまま私はマンション前の大通りからただ一心不乱に歩き続けた。疲れを感じたら日陰で休み、面白そうなものを見つけては立ち止まり、何の予定もない私は一日をぺしゃんこにつぶすつもりで黙々と歩みを続けた。
町境の川を渡り、隣町でランチを食べ、太陽がてっぺんを通り過ぎた頃に自分の町へと引き返していく。もちろん散歩中になんにも面白いことがなかったというわけでもない。だけど、どれもこれも退屈を忘れさせてくれるような刺激的で冒険的なものではなかった。
いったい私は何をしているのだろう。復路を歩きながらふとそんなことを思ってしまう。
何か滑稽な出来事でも起こらないかな。自分がそんな子供のような期待を抱いていることに気が付き、思わず苦笑してしまう。退屈はもう私の身体全体を、蝕まれているのかもしれない。
私は気分を変えようと、行きで通った大通りから細い路地へと入り、そのままさびれた商店街の中を突っ切って帰ることにした。
あまりに外が暑いのか、それともそもそもの集客力がないのかはわからないけれど、商店街に人は少なく、それと帳尻を合わせるように、五店に一店の割合で入り口にはシャッターが下ろされていた。その閉ざされたシャッターの一つには、五年前に近所にできた大型スーパーの名前が赤いスプレーででかでかと殴り書きされていて、その周りにはそのスーパーに向けられているであろう罵詈雑言が添えられていた。
所々開いている店の中には、得てして襟元がダルダルのTシャツを着たお年寄りが座っていて、商店街を歩く私を、何か期待の込もった目で見つめてくる。試しに私がふと店の前に立ち止まり、腕を組んでケースに入れられた商品を見始めると、そこの店番の顔は瞬時に生気がみなぎったような表情へと変わり、私が何も買わずに立ち去ると、私に聞こえるような音量で舌打ちをするか、近所の大型スーパーへのヘイトを小声でつぶやくのだった。
そんなひやかしを三、四回楽しんだ後、私は不意に小さな店と店の間にある、小さな路地へと入っていくことにした。なぜそこに入っていったのかについては何の理由もない。期待のまなざしが少しだけ辛くなってきたこともあるけれど、しいて言うなら、そこの路地が狭く、薄暗く、なおかつじめじめしていたからだ。
上に広がる爽やかな青空とはあまりに対照的で、弁証法的に何かが起こるのかもしれないと、心のどこかで期待していたのかもしれない。そして結論から言うとその何かは起きた。もちろん、ヘーゲルが言うような高次元的なものではなかったけれど。




