獣の王①-①
〔怪獣思念体ゴースト〕 登場
視界は一面の湯気に覆われていた。両腕両脚を思いきり伸ばしても遮るものなどなく、天を仰げば突き抜けるような青空が出迎えてくれる。湯面に空の青が反射して、空中を漂っているような開放感と浮遊感があった。反して無骨な岩造りの湯船は体をしっかりと受け止めてくれている。体を浸す湯は少し熱め、だがそれが心地いい。
「《ザンダ一味》秘蔵の温泉、しかも露天か。隠れ里とか言ってる割りには、あいつら贅沢な物持ってるよな」
ゼヒナスは全身で温泉を満喫して、傷つき疲弊した体を癒していく。
竹の柵で隔てられた隣の女湯からは、ばちゃばちゃばちゃばちゃとお転婆な誰かが全力で泳ぎ回っている水音が聞こえていた。
不意に激突音が聞こえ、水音が消える。
「キャーッ! アディシアちゃんが岩にぶつかって頭が割れたーっ!」
「ちょ、胸の傷口も開いてる! 温泉がどんどん真っ赤に!」
「はっはっは。あの弟子は、あとで説教してやらねえとな」
シルヴィナとミザリィの微笑ましい悲鳴を聞きつつ、ゼヒナスは湯面を漂う盆から徳利と杯を取り上げる。その徳利をオービットが引っ手繰った。オービットは徳利を傾けて、ゼヒナスが持った杯に酒を注いでいく。
「はぁ……お前も頑固と言うか律儀と言うか、変なところで義理堅いよな」
「当たり前だ。私もザンダも、いや、《財団》も《ザンダ一味》も、貴方がいなければ取り返しのつかない被害を出していた。功労者に敬意を払うのは当然だ」
「よせよ。僕は自分のやるべきことを、やれる範囲でやっただけだ。現に僕がもっと早く到着していれば、《財団》と《ザンダ一味》の被害は少なくてすんだはずだ」
「それでも、だ。それでも、貴方がいなければ双方が倒れていた」
ゼヒナスはオービットのしつこさに苦笑を浮かべた。オービットから徳利を引っ手繰り返すと、今度はゼヒナスがオービットの杯に酒を注ぐ。
「だったら僕らは、肩を並べて戦った平等の功労者でいいじゃないか」
ゼヒナスが口の端を歪めて笑いかけると、オービットも微笑を返す。二人は杯を傾けて酒を喉に流しこんだ。
「はは、苦いな」
杯を空にしたところで、オービットは乾いた笑いを口にした。オービットの胸中を占めるのは、この戦いで命を落とした者たちへの哀悼だ。
「仲間を失った経験は初めてではないが、戦いのあとに呑む酒はいつでも苦い」
オービットに与えられた功労者の称号は、彼らの命を対価に得た物なのだ。与えられた栄誉の重さに、そしてその空虚さに、オービットは硬質の表情を浮かべた。
「それに功労者と呼ばれるには、私はまだ部下の命を奪った最後の一人を見つけられないでいる」
「最後の一人?」
「ああ。ユーリテス攻略戦の際に、私の部下が殺される事件があった。解析では強力な腐食のオールトによって骨も残さず人体が溶かされたらしいのだが、奇妙なことに《財団》にも《ザンダ一味》にも該当する使い手がいないのだ」
「人間を骨も残さずに溶かすオールト、ねぇ……」
ゼヒナスは気を紛らわせるように徳利を揺らしつつ、亡羊と視線を泳がせた。
「それにクレモンテンの問題も残っている。事後処理を終えたら、即座に《巌の頂》へと引き返して拘束してくれよう。《財団》の高潔な理念と、人々からの信頼、そして孤児たちの羨望を裏切ったあいつを断じて許すわけにはいかない!」
オービットは瞳に義憤を燃やし、拳を握りしめた。
「そもそもお前、事後処理もしないでのんびりしてていいのかよ?」
「部下に言われたのだ。雑務は自分たちでもできるから私は傷を癒せと。それに……」
オービットはそこで一度言葉を区切って、感慨深げに口を開く。
「ザンダや一味が、怪獣人が協力してくれるから、と」
オービットは目を閉じて、数時間前の光景を思い返す。《財団》と《ザンダ一味》が協力して負傷者を手当てし、行方不明者を探す光景を。
傷つけ合った者同士が確執をなくすのは困難だろう。それでも、人間と怪獣人が手を繫ぎ、協力し合う光景を前に、オービットは両者の共存に光明を見い出した気がした。
ほんの数時間前まで、怪獣人に対してこんなにも寛容になれるとは思っていなかった。
バッハイグに指摘されたように、オービットは怪獣人憎さで目が曇っていたのだ。だが、その偏見や曇りがなくなってしまえばなんのことはない、怪獣人はちょっと個性的がすぎるだけの人々ではないか。
人間の中にだって、バッハイグのように悪意に満ちた怪物は存在する。文化や宗教の違いによる軋轢も存在する。怪獣人の人間離れした容姿が恐れとなって、自分の心の醜さを映し返していただけなのだ。
「人間と怪獣人の共存。道は困難だろうが、実現するといいな」
「無理、だろうな」
あろうことか、共存を望む当のゼヒナスから否定の言葉が口にされた。
「どうして怪獣人が近年になってから急に出現するようになったか分かるか?」
「言われてみれば、万年に渡って出現しないのは不自然だな」
「人間が怪獣や怪獣人へと変貌する仕組みは、彗星因子の大元である彗星怪獣ツアラプルとの関係が強い」
酒を喉に流しこみながら、ゼヒナスは説明を始めた。
「ツアラプルが四千年の周期を経てこの星に接近してくると、その超巨大なオールトと共振を起こして彗星因子が活性化し、オールトを大幅に強化させる。本来この働きは、ツアラプルの餌でもあるオールトを増産するための機能で、いわばこの星と人間は巨大な養殖施設でもあるわけだ。
ただ極稀に、オールトの増幅ではなく怪獣化する因子を持つ人間が存在する。仮にオールト強化の因子をα因子、怪獣化をβ因子としよう。このβ因子が四千年間で変質し、人間大のまま怪獣化させるγ因子になったんだろうな」
「なるほど、つまり、そのツアラプルが去ってしまえば新たに怪獣人が出現することはないわけか」
どんなに共存を望もうが、怪獣人はたかだか百数十年で絶滅してしまう種族なのだ。約束された滅亡に、オービットは知らず知らず哀愁の念を覚える。
「そしてツアラプルの影響を受けているのは、僕たち覚醒者やオールト・ジェネレイターも同じだった。オールト・ジェネレイターは、言うなれば都市用の超巨大ピグキャリバーだ。都市の全人口からオールトを集め、共振増幅させて都市に還元する。
だがその上げ幅はツアラプルの影響あってのもので、ツアラプルが去った途端に必要出力を得られなくなり、文明は滅亡した」
「それで《彗星戦役》の終結と、《月の欠片文明》の滅亡がほぼ同時期なのだな」
「僕たち覚醒者にしたって、ツアラプルの影響なくして覚醒することはない。だけど僕たち覚醒者は、強力すぎるオールトをツアラプルとの共振で維持している状態だ。ツアラプルのいない三千数百年間は目を覚ましていることすらできず、休眠しているしかない。僕たちにとってこの現世は、長い夢の中の泡沫なのさ」
ゼヒナスはどこか自嘲的に呟いた。ゼヒナスは一眠りするだけで、今見ている眩しい光景を遥かな過去へと置き去りにしてしまうのだ。それなのに、失うのを分かっていて、それでも人との儚い繫がりを求めずにはいられなかった。
沈んだ空気を払拭するように、女湯からきゃぴきゃぴと弾んだ声が聞こえてくる。
「ミザリィさんのお胸はいつ見ても大絶景ですねぇ」
「だけどアディシアちゃんはお肌つるつるじゃない。それに腰だって細いし。若いっていいわね」
「ほほう。そう仰られるシルヴィナさんは安産型のご様子」
「もー。やめてよー」
きゃっきゃっ。あはははは。
「……よしっ! 妖精たちの戯れを覗きにいくか!」
「それをお前が言っちゃうんだ!」
さすがのゼヒナスも、オービットのトンデモ発言には叫ばずにいられなかった。
しかしなにを思ったか、オービットは脱衣小屋の扉を潜って外に出ていってしまう。
「たのもーっ!」
女湯からオービットの声が聞こえてきて、ゼヒナスは湯船の中にずっこけていた。




