それぞれの始動③
「ふんふんふふふーん♪」
木漏れ日の落ちる森の中を、鼻歌混じりに歩く女性の姿があった。女性の手には発売されたばかりの少女漫画誌が抱えられ、浮かれ具合の源となっている。
折角の新刊なのだから自室にこもって読むよりも、太陽の光が降り注ぐ開放的な屋外で読もうと思い立ち、読書に適した場所を探して森の中を徘徊する。
「そこでなにをしている?」
そのように不審者丸出しだから、大音声の詰問を浴びせられる羽目になるのだ。
単に場所探ししていただけなのだから、やましいところなどどこにもない。それでも思わず身を竦めてしまうのが人間の性だ。女性は恐る恐る声の方向に振り向いた。
「なんだ、シルヴィナか」
「そちらはバッハイグね」
シルヴィナと呼ばれた女性は仲間の姿を目にした途端に渋い顔をした。
バッハイグと呼ばれたのは、いかにも硬派な出で立ちの気取った青年だ。なぜか森の中に放置された樽の上に仁王立ちしている。
バッハイグの視線はシルヴィナの手元に注がれた。
「なんだその本は? 貴様、勝手に町に下りたのか?」
「ご安心を。正体がばれるようなお間抜けはしておりませんので」
「当たり前だ。貴様の行動で俺たち《ザンダ一味》の存続が左右されてたまるか」
シルヴィナは巨大な丸眼鏡に指を添えつつ攻撃的に言い返した。対するバッハイグも苦々しさを全開にして言い放つ。同じ《ザンダ一味》と言えど、二人は犬猿の仲だった。
バッハイグの言い分は至極当然だが、シルヴィナはどうにもバッハイグが好きになれなかった。口にすることの一々が攻撃的で癪に障る。
「シルヴィナを責めるな」
二人の険悪さを諫めるように重厚な声が割りこんできた。いつからそこにあったのだろうか? シルヴィナの背後に巨大な壁がそそり立っていた。
その壁の頂上付近から二つの光源、両目がシルヴィナを見下ろしていた。縦横に枝葉が重なる緑の天蓋、そこに顔が隠れてしまいそうなほどの規格外な巨体を有する男だ。長身のバッハイグが子供ほどもある樽の上に立って、ようやく視線が水平になる。
鎧のように堅牢な鱗で全身を覆った怪獣人、《ザンダ一味》の長、ザンダ・バルカニヤンが音もなくその場に現れていた。
「俺たちは望まずに人間社会の外へと追いやられ、こんな僻地で生活しているのだ。誰もが人間社会との繫がりを求めて当然。できることなら人間社会へ戻りたいと願っているし、機会があるのならそうするべきだ」
「人間どもに追い出された怪獣人の言葉じゃないな」
諭すように説くザンダに、バッハイグは鼻を鳴らして皮肉を返す。
「だが、ここは首領の顔を立てて引き下がってやろう」
『やーい、負け惜しみ野郎』と言いたくなるのを、シルヴィナは口を手で塞ぐことで留まった。ザンダが『喧嘩両成敗』の視線でシルヴィナを睨んでいたからだ。
「首領は子供を叱るお父さんのようですね」
「俺にとっちゃ、この《ザンダ一味》はどでかい家族みたいなもんだ。バッハイグは兄さん、シルヴィナは妹だな」
勝手に嫌いな相手の妹にされて、シルヴィナは反抗期の子供のようにむすっとした表情を浮かべる。「ふん、ガキめ」とバッハイグが鼻を鳴らし、シルヴィナの不機嫌度合いはさらに深くなっていった。
「ところでその『首領』という呼び名、やめてはくれぬか? 俺はそんなに偉くはない。その上、最近ではこの隠れ里を《ザンダ一味》と呼んでいるそうではないか」
「それこそ、首領がこの隠れ里をまとめている証拠だろうが」
バッハイグはぶっきらぼうな口調で喋り始めた。先に言われてしまったシルヴィナは、口を開きかけたままで固まっている。
「首領はこの隠れ里の看板にされるほど、皆に多大な影響を与えているということだ。さすがに隠れ住んでいる身分で村長だ里長だと大々的に名乗るわけにもいかないからな。『首領』と『一味』で我慢しろ」
「そこまで強く言われてしまうと、やめさせるにやめさせられないではないか」
「それが狙いだからな」
ぞんざいな態度ながらも気遣ってくるバッハイグに、ザンダは全幅の信頼を寄せた笑みを浮かべる。
その一方でシルヴィナはむくれていた。本来なら、バッハイグの言葉は自分が口にするはずだったのに。シルヴィナの不機嫌にますます拍車がかけられる。
「あら? お三方揃ってなにしてるの?」
そこに場を弁えない声が割って入ってきた。木陰から姿を現したミザリィが一触即発の渦中へと親しげに語りかけてくる。
「あ! それ今月号でしょ! 読み終わったら私にも貸してよ。『カラメルぷりん』だけでいいから。…………あ」
そこでようやくミザリィも気付いた。シルヴィナが今月発売の雑誌を持っているということは、最寄りの町に無断外出していたことに他ならない。それをバッハイグあたりに咎められていたのだろう。
「ご、ごめんなさいねシルヴィナ。私のお遣いなんか頼んじゃって」
ミザリィの露骨すぎる擁護に、ザンダもバッハイグも呆れ顔だ。
「小言はもう終わりですか? でしたら私はこれで」
もうこの場の泥沼は収拾の仕様がない。シルヴィナは刺々しい言葉を残してその場を去り、ミザリィがシルヴィナを追いかける。シルヴィナの草木を荒々しく踏みつける足音と、ミザリィの控えめな足音が遠ざかっていく。
「ちょっと、あの言い草はないんじゃないかな?」
「苦手なのよ。父親を連想させる存在が」
並んで歩く二人の進路に小さな集落が見えてきた。森の中に溶けこむように、《ザンダ一味》の隠れ里がひっそりと息を潜めている。
二人の前方に飛びこんでくる影。前も見ずに走り回っていた子供がミザリィにぶつかってきた。子供は衝撃で尻餅を落とし、きょとんとした視線でミザリィを見上げてくる。
「ぼく、大丈夫?」
ミザリィはその場に膝を折ると、微笑みながら子供に問いかける。子供はこくこくと頷いて、再び上を向いた顔には鼻水が糸を引いていた。ミザリィがハンカチで鼻汁を拭ってやると、途端に子供は満面の笑みを浮かべる。
「おねーちゃん、あいがとー」
子供は父親と思しき男性に手を引かれながら、元気よくお礼の言葉を口にして去っていった。
子供に手を振り返すミザリィは、自然と柔らかな笑みを浮かべていた。ミザリィに笑顔を見せてくれた子供の瞳に、怪獣人への恐怖は微塵もなかった。その笑顔を見ているだけでミザリィの胸の奥が温かく、そして熱くなる。今までミザリィが散々求め、そして手に入れられなかったものが、この《ザンダ一味》にはあった。
「父親ね……。そういえば、前にちょっとだけ聞いたわね。確かお父さんが蒸発して、お母さんが苦労したんだっけ?」
「ええ。そのせいで母は早くに亡くなったわ。正直、父親を憎んでいる。
だから首領に対してどう接していいのか分からないのよ。無差別な憎しみの標的にしてしまいそうで、自分の感情を制御できなさそうで怖いの」
「自分自身のことですら思いどおりにできない、か。私だってそうよ。好きな人を前にすると、自分でもなにをやってるのか分からなくなっちゃうもの」
女二人は談笑を交わしながら歩いていく。ミザリィはどこからか取り出した林檎を服で拭き、真っ赤な表面に冷たい色の牙を突き立てた。
「でも……そうね、好きな人か。私にも白馬の王子様が現れないかなあ」
「へえ意外。性格は悪いくせに随分と乙女なことを言うのね」
「はっきり言うわね。ただの比喩よ。目の前に理想の男性が現れて愛を語ってくれるなんて、現実にはありえないから。
でも、アナタのそういうとこ嫌いじゃないわ。裏表がないってのが好感持てる」
「よければ、今度化粧でも教えて上げようか? いざ理想の相手が現れても、色気がなくっちゃ射止められないわよ?」
言われて、シルヴィナは改めてミザリィを見た。女の自分から見てもとびきりの美人だと思う。肌は人形のように白く滑らかで、霜が降りたように輝いて見えた。瞬きをし、長い睫毛が震える、それだけで幻想的に美しい。桃色の舌が艶かしく伸びて、手首に垂れた林檎の汁を扇情的に舐め取っていった。
ミザリィは人間ではなく怪獣人だ。しかしその容姿や仕草は、人間の美的感性に反するものではない。
「美人はなにをしたって様になるからいいわね」
「私だって散々躾けられたから続けていられるけど、これでも苦労してるのよ?」
「へえ? それは誰に?」
「え?」
ミザリィはきょとんとした。瞳には靄のようにあやふやな疑問がかけられている。
誰だろう? 誰に言われたのか定かではないが、女は常に美しくあるべきだという教えだけははっきりと覚えている。
シルヴィナは気まずい顔をした。ミザリィはおそらく、怪獣人特有の記憶障害に陥っているのだ。しかし記憶障害を自覚している怪獣人は滅多にいない。だからシルヴィナは、怪獣人に過去を尋ねないようにしていたのに。
「疼く……疼くぜ、古傷がよ!」
シルヴィナの胸中を慮って、というわけではない。二人の耳に痛寒い台詞が聞こえてきたのはそのときだった。
声の方向、切り株に腰かける男がいた。男の頭を桃色の三角布、すなわち女物のパンティーが横断して右目を覆い、眼帯となっていた。
(変態だーっ!)
シルヴィナは思いきり叫びたくなるのを必死に自制した。だって大きな音に反応して顔に飛びかかってこられたら嫌だったから。
「ぬうう、あの男に奪われた右目が疼きやがる」
しかも男は暗黒病まで併発しているらしい。すなわち暗黒変態卿。
シルヴィナはミザリィの裾を引っ張り、小声で囁く。
「えっと、確か彼だったわよね? ミザリィと一緒にアテリノまで墜落したレグキャリバーの様子を見にいって、負傷して帰ってきた人というのは」
「ええ、そうよ。味方のくせにとばっちりで怪我させられたのよね……」
ミザリィはしみじみと呟いた。見ているだけで止める素振りがなかったあたり、ミザリィも男の言動に辟易しているようだった。
「む!」
突然暗黒変態卿は声を出して立ち上がった。怯えたシルヴィナは思わずミザリィの背中に隠れてしまう。
「くる!」
暗黒変態卿が口にした直後、隠れ里の全域を襲う轟音が鳴り響いた。音だけで地面が揺れている錯覚すら覚える。
「《財団》の敵襲だーっ!」
次いで怒号が森を震わせた。そして緑の奥から近付いてくる足音。
「《ザンダ一味》、覚悟ーっ!」
いの一番に乗りこんできたのは、巨大な暴れ馬に跨った全裸の男だった。
「新手の変態やってきたーっ!」
シルヴィナは我慢しきれずに絶叫していた。




