それぞれの始動①-①
アディシアが瞼を開くと、鮮烈な陽光が目に飛びこんできた。億劫な動作で上体を起こし、この数日間の病床生活からの回復具合を確かめるように体を動かしてみる。
「うん、大分調子が戻ってきたみたいですね」
アディシアは素足を下ろしてベッドから立ち上がると、棚の上に畳まれていた自分の服を手に取り、寝巻きの釦を外していく。絶望的に貧相な、もとい小振りな乳房から、半開きの蕾のような臍までが外気に露出する。傭兵を生業にしているためだろう、アディシアの肌には傷が多かった。同い年の少女が化粧やお洒落で躍起になる時代を、血と汗と涙を流す戦いに明け暮れさせているのだ。
アディシアが寝巻きの袖から腕を抜こうとしたところで、ふと窓の外が目に入る。
窓からは密林のように軒を連ねる家屋と、その間を行き交う虫のような人々が見えた。アテリノの町では見られなかった煉瓦と漆喰造りの家屋は大都市である証だ。城塞都市ヘルヴィムの名を象徴するように、都市の外周は大津波のような外壁で囲まれている。
はるか遠方で噴煙を上げる三角形は、ヘルヴィム火山帯の象徴であるヘルヴィム山。
少し視線を移動させると、都市の全域を見渡す小高い丘の上に巨大な建造物が見られた。立方体を組み合わせただけの無骨で堅牢な造形は、城砦と形容するのが相応しい。中世期に建造されたヘルヴィム城の姿だった。
(それにしても、ヴェネンニアを運んだ先が《巌の頂》支部に近いヘルヴィムだなんて。遺跡で強奪しなくても近場まで運ばれてくるんだから、とんだ無駄骨ですよね)
アディシアが呆れながらも着替えを終えると同時、扉の取っ手を回す音が聞こえて、一人の女性が室内に入ってきた。
アディシアよりも少々年上、二十代前半の働き盛りを絵に描いた、熱意の塊のような女性だ。薄汚れたツナギに、バンダナでまとめられた金髪。顔を彩るのは最低限の化粧だけで、それ以外の余計な装飾品は一切身につけていない。
「あら、アディシアちゃん、もう具合はいいの?」
「はい、リーゼリアさんの看病のお陰様です」
アディシアは行儀よろしくぺこりとお辞儀した。それから俯き加減のまま、リーゼリアの顔色を伺うように上目遣いとなる。
「それでですねー、居候の上にただ駄飯食らいだった身としましては、そろそろ家事手伝いでもさせて頂けたらなー、と思っている所存でして」
「そうね……それじゃあアディシアちゃんにも仕事を手伝ってもらおうかしら」
途端にアディシアの頭が跳ね上がる。その表情はヴェネリア遺跡のときと同様、眩しいばかりに輝いていた。
「その前に、まずは食事にしましょ。ゼヒナスくんたちも休憩で戻ってきてるから」
リーゼリアに先導されて、アディシアは小綺麗な内装の廊下を歩いていく。この数日間で間取りを覚えた居住区を進んでいくと、途中で店舗区画に差しかかった。
表通りに面し、硝子張りになった店舗には、無数の展示棚が並んでいる。展示棚の内部には冒険者用の剣や槍や銃を始め、職人用の包丁や鋏や金鎚や鋸、さらには日常用の指輪や腕輪や首飾りといった装飾具まで、ありとあらゆるピグキャリバーが陳列されて持ち主が現れるのを今か今かと心待ちにしている。
アディシアが滞在しているこの場所は、キャリバーの整備と製造を一手に担うキャリバー工房だ。
宝石箱よりも魅力的なおもちゃ箱を見ているようなアディシアの夢中っぷりに、リーゼリアは微笑を漏らす。
「そんな必死に見つめなくても、手伝いは逃げないわよ」
二人が食堂に到着すると、すでにゼヒナスは食事に勤しんでいた。リーゼリアと同じく汚れの目立つツナギを着ているが、上半身だけ脱いでいる。赤い肌着は汗で湿り、鍛えられた胸板の輪郭を露にしていた。肌着の左右から覗く両肩や両腕も引き締まり、大人の男の力強さを体現している。
ゼヒナスは古代の食器である箸を器用に操って、納豆ご飯に鬼角アジの開きを口に運んでいく。口からは「ピギャー! ピギャー!」という納豆の悲鳴が聞こえていた。
リーゼリアは食堂を見回し、頭数が足りないことに気付いた。
「先生は?」
「あと少しで終わる仕事があるとかで、少し遅れるそうだ」
「そうですか」と言い残して、リーゼリアは厨房に消えていく。
「よう押しかけ弟子、具合はいいのか?」
「はい、もう絶好調ですよ! 倒れる前より調子がいいくらいです!」
アディシアが明るく答えると、なぜかゼヒナスは視線を逸らした。
「あの、それでお訊きしたいのですが、師匠は如何にして王の呪いの特効薬なんかを調達したのですか?」
自分に施した処置が気になって尋ねたアディシアから、ゼヒナスはさらに視線を逸らした。今にも首から足が生え、別の生き物になって逃げ出してしまいそうなまでに。
「……一生懸命、お祈りしたから」
「へー……お祈りですかあ」
ゼヒナスの引きつった笑みに合わせて愛想笑いを浮かべつつ、アディシアの目は全く笑っていなかった。
「そう、僕、頑張ったんだよ? 可愛い可愛い愛弟子が早く治りますようにって、沢山お祈りしたんだ。お百度参りしたもん」
「んなもんで治るかあっ!」
アディシアは猛烈にぶち切れた。
「師匠はご存知のはずだと思いますが、王の呪いっていうのは遺跡に閉じこめられていた古代の病原菌による病、つまり古代病の俗称のことです。古代病の病原菌は現代では絶滅しているものが多く、抗体を持っている人間も特効薬も皆無なので、死亡率が極端に高いことでも有名です」
数日前にも思ったのだが、どうやらアディシアには説明好きの一面があるらしい。アディシアの饒舌を、ゼヒナスは処刑台を一段一段登っていくような面持ちで伺っていた。
「そのような前例がある危険な病気ですから、《財団》でもきちんと予防接種を実施していたのですが、どうやら今回は効果がなかったようですね。……って、私が倒れたということは、発掘隊の人たちに死亡者が出ていてもおかしくないのでは?」
「あー……いや、それに関しては問題ないと思う。多分……」
どうにもゼヒナスの言葉は歯切れが悪い。アディシアは疑わしげにゼヒナスを見る。
「前にも言ったが、この時代の人間はオールトの扱いが下手だ。だからどんなにオールトを使おうが、限界寸前まで消耗するなんてことは起こりえないはずなんだ」
「……あ!」
アディシアは数日前の出来事を思い出した。ゼヒナスに言われてオールトを解き放った直後、急激な脱力に襲われたのに思い至る。
「ええっと、確か……『オールトとは生命力から発現する力であり、オールトの弱体化はすなわち生命力の弱体化である』、でしたっけ? それってつまり、私が倒れるまで病状を悪化させたのは……」
「うん。僕のすんばらしすぎる指導によってオールトが限界まで消費されて、体力や免疫力が極端に低下したせい。人為的な不注意です。しくじっちゃった」
「この人開き直りやがりましたよ? 私は断固として謝罪と賠償金を要求します!」
「自分で言うのもどうかと思うが、僕は謝らないことで有名だ!」
「くっそ! この性悪能天気クソ野郎……っ!」
ゼヒナスは苦い顔をした。普段のアディシアはお役所仕事的なまでに礼儀正しいのだが、要所要所で失礼の大暴投をかましてくる。もしかしたら、そちらが素の性格なのではないかとすら思うほどだ。
「まあ、そういきり立ちなさんなって」
アディシアの憤慨を諫めた声は、ゼヒナス以上の陽気さを放っていた。
気がつけば、この工房の主であるキャリバーマイスターのジョハンスが食堂に姿を現していた。年齢こそ白髪の多い壮年男性であるが、しかしてその全身からは若々しい活力が溢れていた。褐色に日焼けした健康的な肉体に、南国風の花柄シャツを着ている。
「こいつはお嬢ちゃんの病気を治すために、自分の血を分け与えたんだぜ」
「ジョハンス、余計なことを言うなよ」
「いいじゃねえか。自分の善行を語るのは白々しいもんだぜ?」
『自分が代りに語ってやったんだから、ありがたく思っておけ』という気遣いに、ゼヒナスは口の中の苦虫を持てあました表情を浮かべる。
「あの、今のお言葉はどういう意味でしょうか?」
「お嬢ちゃんも言っていたが、王の呪いの死亡率が高いのは抗体が存在しないからだ。だったら、過去に病気を経験した人間から輸血という形で抗体を与えてもらえばいい。血液とともにオールトも供給されるから、体力と免疫力の向上にも効果的だしな」
アディシアは思わずゼヒナスに視線を注いだ。照れているのだろうか? ゼヒナスはそっぽを向いたまま、アディシアと視線を合わせようとしない。
「それに、そろそろお嬢ちゃんが全快する頃だろうと踏んで、お嬢ちゃんのピグキャリバーを整備してくれと頼んできたんだよ」
ジョハンスは腕を掲げ、片手に携えていた巨大な銃剣をアディシアに見せた。
「ランバミルト工房製の名ピグキャリバー〈マーゲリス〉。の複製品か。射撃武器にもかかわらず近接戦での打ち合いをも想定し、弾丸の発射機構を保護するために大型化。しかしその結果、近接武器としても比肩のない殺傷力を得ることになった稀有な逸品だ。複製品ということでやはり原型品よりは性能が落ちるが、その分価格も手頃で整備も手軽。庶民が実戦で使うなら賢い選択だろうな」
一通りの寸評を述べてから、ジョハンスはマーゲリスをアディシアに投げ渡す。
「こいつの要望で制御装置を組みこんでおいたから、二度とオールトの使いすぎで倒れるなんてことにはならんだろうさ」
「だから、そういうことを一々口に出すんじゃねえよ」
「だったら口止めしておけよ」
親子ほども見た目の離れた二人が、同年代の悪ガキ同士のように軽口を応酬させた。
リーゼリアが三人分の食事を持ってくるのと同時、ゼヒナスが立ち上がった。「外の空気を吸ってくる」と言い残し、食堂から去っていく。これ以上この場に居合わせたら、ジョハンスになにを言われるか分かったもんじゃないとでも思ったのだろう。
三人で食卓を囲み、それぞれの作法で祈りが捧げられ、食事が始められた。




