撫でて慰める。
メルハーツの迷宮、五階層。
俺はスライムがいるという七階層を目指して、ユエルと共に、気合を入れて迷宮を進んでいた。
そして五階層の中盤あたりまでさしかかり――
「うおっ、あぶなっ!」
「ご主人様ぁっ!」
避ける俺、叫ぶユエル。
五階層の魔物、ビッグチック。
鶏を大人の腰から胸程度の高さまで大きくしたような魔物に、俺達は初めての苦戦をしていた。
数は四匹。
大きな嘴による突きは容易く肉を穿ち、突進の威力も警戒が必要なレベルだと、冒険者ギルドで聞いた。
そう、この突進が厄介だった。
空を飛べない鶏だからか、足が速いのだ。
しかも、前方にいるユエルだけじゃなく、後ろで待機している俺の方にまで突っ込んで来る。
動きが直線的なのが救いだが、とにかく回避行動か防御行動を取らなければならない。
そうしなければ美味しく啄ばまれてしまう。
ちなみに攻撃する気は無い。
餅は餅屋。
戦闘はユエルだ。
俺の未熟な技量だと、攻撃しようとしている隙に反撃されそうだし。
俺はユエルが助けに来るまでの間、避けるか耐えるかすればいいのだ。
今こそメイスの出番か――とも思ったが、相手の攻撃は全体重を使った突進である。
ビッグチックは腰から胸程度までの高さしか無いとは言え、受け止められるかどうかはちょっとわからない。
身体は受け止められたけど嘴で顔面啄ばまれました、なんてことになったら目も当てられない。
というか目が無くなってしまう。
危険だ。
受け流すとしても、突進を受け流すってどうやるんだよ、という感じである。
避けた方が早い。
というわけで俺は走っている。
メイスも一応握り締めてはいるが、突進してくるビッグチックを右に左に避けるだけだ。
よくよく見れば、突進は直線的な動きで、避けるのはたいして難しくない。
けれど、俺は初めての魔物とのまともな戦闘で、ちょっとびびってしまっていた。
やたらと足の早い鶏相手にチキッていたのだ。
再び回避運動を取るも、ビッグチックの突進が僅かにかする。
ダメージはほとんど無いが、たたらを踏み、よろめいてしまった。
「あああああっ!!」
ユエルがそれを見て悲鳴をあげる。
俺が体勢を立て直した頃には、もうユエルは他の三匹を倒していたようだ。
ユエルは俺に体当たりしたビッグチックに向き直り、怒りの形相で走る。
ビッグチックの首を切り裂き、胸にナイフを刺して抜き、頭に二本のナイフを左右から突き込んだ。
徹底的だ。
明らかにオーバーキルである。
それにナイフも傷みそう。
ユエルさんがちょっと怖い。
そしてビッグチックが光の粒子となって霧散する。
けれど、ユエルがこっちに来ない。
いつもなら「ご主人様、やりました!」という感じで駆け寄って来るのに。
下を向いて、動かない。
俺の方からユエルに向かって歩いていくと、ユエルの足元には小さく涙の染みができていた。
俯いたまま、ユエルが口を開く。
「ごめんなさい、私、命に代えても守るって言ったのに。ご主人様を、お守り、出来ませんでした」
そういえば初日にそんなことも言っていた気がする。
守れなかったからって本当に命を差し出されたりしても困るけど。
それに怪我はしてないし。
「いや、ユエルには十分守ってもらってる。今回だって、ほんの少しかすっただけだ」
「でもっ、でも、私はご主人様を守るって、決めたのにっ」
どうやらあのビッグチックは、ユエルの矜恃を踏みにじってしまったらしい。
ユエル一人だけで、突進してくる魔物四匹なんて止められるわけが無いんだけれど。
将棋で言えば、香車四枚が横並びで王を狙っているところを駒一つで助けろ、と言っているようなものだ。
そう考えたら一人で三匹を引きつけたユエルは十分以上に優秀である。
それに誰が悪いかって言ったらスライムゼリーが欲しいがために五階層突入を急ぎ、そしてあの程度の攻撃も避けきれなかった俺なわけで。
ユエルにこれ以上泣かれてしまうと、俺の罪悪感が際限無く肥大していきそうだ。
あぁ、どうしよう。
ユエルは両手を顔に押し当て泣いている。
心が痛む。
すごく痛む。
ユエルには笑顔でいて欲しい。
笑顔で駆け寄るユエル、それを撫でる俺。
治癒魔法をかける俺、それに尊敬の眼差しを送るユエル。
ずっとこんな関係を続けたい。
しかし、これはユエル自身の問題だ。
ユエルは俺を守ると言って、守れなかったのだ。
きっとそこに問題がある。
だけど、もう過ぎたことだ。
過去は変えられない。
どうしようもない。
失った自信は、自分の力で、自分の行動で取り戻すしかないのだ。
俺がいくら言葉を弄しても、頭を撫でてもどうこうなる問題じゃ無い気がする。
まぁ撫でるか撫でないかって言ったら撫でるんだけど。
ユエルの心を晴らす上手い言葉なんて浮かんで来ないし、俺には頭を撫でることぐらいしかできない。
慰めるのは苦手だ。
俺が慰められるのは、せいぜい自分の息子さんぐらいだろう。
「ユエル」
声をかけると、ビクリ、と身体を震わせる。
これは重症だ。
俺の怪我はかすり傷、というか傷にさえなっていないのに。
撫でるぐらいしかできないけれど、少しでも、ユエルの気持ちを晴らしてあげられるだろうか。
ユエルの頭の上に手を置く。
けれど、いつものような、自分から頭を擦り付けてくるような動きはない。
気落ちしているからだろう。
私は撫でられる資格なんてない、みたいなことでも考えているのかもしれない。
ありそうだ。
打てば響く、撫でれば微笑む、そんなコミュニケーションが楽しかったんだけれど。
頭の中心から、なだらかな頭のラインに沿ってじっくりと、じっくりと手を下ろしていく。
今までの経験からして、多分ユエルは髪の表面を軽く優しく撫でられるより、頭皮に手のひらの熱が伝わるぐらい、じっくりと撫でられる方が好きだ。
なんだかそっちの方がユエルの表情が幸せそうだったような気がするし、年齢的にも奴隷という境遇的にもユエルは人肌の温もりに飢えているような、そんな気がする。
左手をユエルの背中に添えながら、右手をゆっくり、ゆっくりと上下させる。
けれど、ユエルの表情は未だ暗い。
まだ笑顔を取り戻すには足りない、ということか。
右手の撫ではそのまま続けつつ、左手を持ち上げる。
自由になった左手を、しょんぼりと垂れたユエルのエルフ耳に添える。
普段はピンと尖って元気そうなのに。
ユエルの表情を観察しつつ、ユエルが喜ぶ撫でポイントを探そうと、柔らかな耳をやわやわと揉み込んでいく。
「ふっ......んっ......」
浅い吐息が漏れた。
ここだ。
ユエルが反応したポイントを左手で重点的に撫で擦り、それに合わせて右手の撫でを強くしていく。
「んんっ......」
ユエルの額が、僅かに汗でしっとりとする程度まで撫で続け、右耳をしっかりと揉みほぐしたら、今度は左右の手を入れ替える。
なんだかユエルの表情が僅かに紅潮し、悲しみの色が抜けてきたように見える。
だが、あのはにかむような笑顔を取り戻すにはまだ足りないようだ。
頭の撫でを一旦止め、今度は両耳を両手で同時に揉み解す。
人間の耳より少しだけ柔らかいエルフ耳の軟骨を、指できゅっと挟みこみ、内側をこちょこちょとくすぐり、全体に手のひらの熱を伝えるように優しく包みこみ、先端をやわやわと伸ばしていく。
「ふぁ......んっ......やっ......あぁっ......」
耳を撫で続ける。
撫で続けるが。
なんだかいつもとユエルの表情が違う気がする。
これは、なんていうか。
はにかむというか、とろけていると言った方が正しい。
これじゃない。
違うんだ。
俺が見たいのはユエルのこの表情じゃない。
もっと、なんていうか、癒される感じの笑顔なんだ。
こんなとろっとろの背徳感溢れる表情じゃない。
そういえば、今ユエルを撫でている右手は昨日トイレで――
いけない。
考えてはいけない。
そうだ、やはり間違っている気がする。
一旦止めようと、両手を離す。
「あっ......」
悲しそうな声をあげ、再び暗くなるユエルの表情。
一目見てわかる。
きっと、この表情は「不安」だ。
俺はユエルの身体に手を出さないし、ユエルには初日に、短剣術を使えるからお前を買ったと言った。
だからこそ、戦闘にこそ自分の奴隷としての価値を求めていただろうユエル。
そして、戦闘で役に立っているという矜持を、さっき、崩された。
そんなユエルの表情は、まさに親に突き放され、置いていかれた子供そのものだ。
耳から手を離されて「不安」を感じているのだ。
あの、可愛らしいユエルが。
こんなにも辛そうな顔をして。
見ているだけで胸が締め付けられるような気持ちになる。
できない。
不味い。
止められなくなった。
仕方なく、ユエルの両耳に手を戻す。
「ん......」
おぉ。
ちょっとはにかんだ。
やはり間違って無かったのか。
俺の全力が実を結んだ瞬間だ。
耳を撫でる俺の手に、愛おしむように指を這わせるユエル。
戻ってきた。
ユエルに積極性が戻ってきたのだ。
続行だ。
ユエルの正面にしゃがみ込み、表情を注視しながら両手をユエルの頬に添える。
潤んだ眦を、親指で撫でる。
涙袋を優しく伸ばすようにそっとなぞる。
頬骨のラインに沿って、頬肉をゆっくりと揉み込んでいく。
「んん......」
顔の紅潮が強くなるが、自分の手を重ねるようにして俺の手を挟み込むユエル。
積極的になっている。
つまりは撫でられる資格が無い、なんていう気持ちはもうどこかへいってしまったということだ。
正しかった。
俺は間違ったことはしていなかった。
頬肉を親指で強めに撫でながらも、他の指を遊ばせたりはしない。
小指と薬指でユエルの顎のラインをしっかりとホールドし、人差し指と中指で、耳の内側をくすぐるように撫でさする。
「ひっ......あっ......んぅっ......」
ユエルがピクリと震える。
そのままユエルの頬を撫でながら――
ふと、ユエルの背中の向こうに影が見えた。
魔物が来た。
まぁ、こんな迷宮の中でこれだけの時間をかけていたら当然かもしれない。
「ユエル、ビッグチック、一匹だ」
ユエルの表情が、一気に引き締まった顔に切り替わる。
いや、引き締まった顔というよりも、邪魔をされて怒った顔といった方が正しいかもしれない。
ナイフを抜き、ビッグチックの突進に真っ直ぐ、正面からぶつかるように突き進むユエル。
衝突の寸前、ビッグチックを闘牛士のようにひらりと躱す。
そして避けざまに首に向けてナイフを振り抜くユエル。
血を吹き、走りながら崩れ落ちるビッグチック。
ドロップを回収したユエルが、先程の続きをねだるように寄って来る。
僅かに遠慮があるようにも見えるが、その表情には確かな期待の色が混じっている。
もちろん撫でる。
ユエルは撫でれば大丈夫だった。
持ち直した。
やはりまだまだ子供だということだろう。
あとは、ユエルの顔に一切の遠慮が浮かばなくなるまでこれを繰り返せば良い。
「そろそろ帰ろうか、ユエル」
「はい、ご主人様!」
俺の言葉に、ユエルははにかむような笑顔を浮かべて、元気に返事を返してくれた。
俺達は街に戻り、装備を買う事にした。
ユエルが、投げナイフが欲しいと言ったのだ。
ユエル曰く、投げナイフが沢山あれば、今回俺を守れたかもしれない、とのことだ。
そういえば前に、ゴブリンをナイフの一投で倒していた気がする。
スキルの恩恵か、かなりの威力があった。
それに、もう一度ビッグチック四匹相手に俺を守ることができれば、ユエルも自信を持つかもしれない。
それはユエルの笑顔に繋がるだろう。
投げナイフがあればそれが出来ると言うのであれば、買わない手はない。
幸い治療所と冒険者のふたつの収入源のおかげで、懐には余裕がある。
ユエルには投擲用のナイフを四本と、今ユエルが持っているものよりも僅かに長く、実用性の高い名匠の弟子が作ったというナイフを二本買った。
ほぼ素寒貧に戻ってしまったが、ユエルはこれで複数の敵が来ても大丈夫だ、とのこと。
ユエルがナイフ砲台になる日も、近いかもしれない。