5
空に蠢く、巨大な蜥蜴。
ああ、これが竜って生き物なんだ。生まれて初めて、動いている竜を見た。
本当のレツはいつも暗闇の中にいるから、一体どういう生き物なのか考えようともしなかった。
目の前にいるレツが私にとっては「本当のレツ」だったんだ。
炎の山の上を悠然と泳ぐ姿は、まさしく「人外の化け物」
私は今初めて、人ではない「モノ」と対峙している。
昔、生贄にされた沢山の人たち、そしてこの姿を目の当たりにしてきた大勢の名も無き人々の恐怖が今はわかる。
動けない。まるで足を縫い付けられたように。
そして目を離すことも出来ない。
恐怖と同時に感じる畏敬の念を表現する方法を、私は知らない。
身をくねらせた竜が、ゆっくりと確実に目の前に近付いてくる。それと同時に私の体はカタカタと震えだす。
その姿が大きくなるに連れ、心臓の鼓動が激しくなっていく。
へなへなっと体が崩れ落ちる。
頭を垂れなくてはいけないような、立ち尽くす勇気が奪われたような、直視する事を拒否するかのように。
咆哮一つ。
耳が張り裂けんばかりの音に、思わず両手で強く耳を塞ぐ。
その声の巨大さだけでなく、咆哮のもたらす威圧感に耐えられない。
バサっと何かが羽音を立てて、それによってもたらされた強風が体にぶつかってくる。
座っていて良かった。立っていたら、多分凌げなかった。
--随分と醜い姿に成り果てたな。水の。
薄目を開けて声のするほうを見ると、紅の竜が山肌に座っている。
瞳は赤というには濃すぎる紅。炎を体現しているかのよう。
その瞳が向けられると、思わず逸らしてしまう。正面から受け止めるなんて出来ない。
「醜い? ボクはそれなりに気に入ってるよ」
頭上から響くレツの声は飄々としている。決して紅の竜に気圧されていない。
レツは竜だから当たり前なのかな。
すっと背を伸ばして対峙しているレツの横顔は、自信に満ち溢れているようにも見える。
「久しぶり。すーっかりキミの事なんて忘れていたよ。何千年ぶりだろうね、会ったの」
--その姿、どうやって手に入れた。
「ナイショ。答えたくないから答えない」
そっけないレツの返事に、ぎょろりとした爬虫類の目が自分に注がれる。
ぞわっと寒気がして、目を逸らす。
--人間などを傍に置くなど、気が知れんな。
「じゃあキミも人間になったらいいよ」
にやりと笑ったレツが、私の腕を掴んで立ち上がらせる。
不安で押しつぶされそうで、レツの顔を仰ぎ見ると、レツがふわっと微笑む。
「アレに名前を付けるといいよ。そうすればキミがアレの支配者だ」
「名前?」
「そうだよ。どうせキミにはアレの声も聴こえているんだろう。なら、出来るよ」
別に紅の竜の支配者になんてなりたくないんだけれど。
有無を言わせぬレツの声に、しょうがなく目の前の竜の瞳を覗きこむ。
かつてレツに名付けた時のように、沢山の言葉がぐるぐると浮かんでは消える。その中に目の前の紅の竜に相応しい名が見つけられない。
竜を見つめ考えていると、バサっという音を立てて抗議するかのように竜が尾を動かす。
--名など付けるな。我は人間ごときに殻を付けられる気は無い。
レツの顔を見て確認すると、レツは首を縦に振る。気にするなというように。
幾度と無く尾を振り抗議する竜を無視して、その瞳を覗きこむ。
いくつかの言葉が浮かび、そして消えていく中で、一つだけ浮かび上がってくる。
「……リン」
その名で呼んだ途端、竜が咆哮をあげる。
「名などいらぬと言っただろう。人間のくせに」
頭の中にではなく、耳に音が届く。
レツがポンと頭を軽く叩くので見上げると、微笑を浮かべている。
「さあ、更なる魔法を見せてあげるよ」
リンにレツに挑発するように言うと、レツが両手で私の手を握り締める。
「少しだけ力を貸すから、描いてみて。頭の中に。アレの姿を」
言われるがままに目を閉じ、リンの姿を思い描く。
気位の高い竜。
紅の燃えるような瞳と、耳をつんざく高音の咆哮。
ふいに誰かの姿と重なった。
凄く背の高い、孤高の女性。誰もを寄せ付けない圧倒的な美貌。
「ほーら。出来上がっていく」
レツが呟くと、姿はどんどん明確に形作られていく。今まさに、そこにいるかのような温度さえ持って。
手の中から熱が広がっていき、その熱さに耐え切れずレツの手を離し、掌を空へと向ける。
大量の熱風が巻き起こり、空へと霧散していく。
「……余計な真似を」
比較的近い場所から聞こえた女性の声に目を開くと、仏頂面でこちらを睨みつけている女性が立っている。
それは描いた姿そのままで、思わず目を見開いてしまう。
どうして、想像上の人物が目の前にいるの。
「そなたがこの姿を我に与えたのだろう。とぼけるな」
レツの顔を見ると、レツは満足そうに微笑む。
「ありがと。サーシャ」
ポンと私の肩を叩いて、レツは女性と対峙する。
「人の頭の中で我鳴るのやめてくれる? うるさいんだよね」
レツは腕組みをして女性に語りかける。それに対して女性はフンと鼻を鳴らす。
「リンなどという人間じみた名前を付けられただけでも不快だが、こんな人間の姿を与えられ、我が喜ぶとでも思ったか」
「嫌がらせに決まってるじゃん」
さらっと言ったレツに、リンは苛立たしげに溜息をつく。
「何故、我を人間などにした。戻せ」
「いいじゃん別に。人間になれるなんて、きっとこれが最初で最後だよ」
最初で最後という言葉に、ズキンと胸が痛む。
もしかしたらレツも人間でいられるのは、今が最初で最後なのかな。
けれどレツは、余裕の表情でリンに微笑みかけている。
「結構だ。今すぐ戻せ」
クスクスっとレツが笑い声を上げ、腹を立てたのかリンがレツの胸元に掴みかかる。
「名前は可愛いのに、ぜーんぜん態度は可愛くないね」
パシっと音を立ててリンの手を振り払い、レツがこれ見よがしに服を整える。
その様子を歯軋りしながらリンは睨みつけている。
「そんなに人間はイヤ?」
「当たり前だろう。答えるまでも無い」
即答したリンに肩をすくめ、レツは恐らく山が崩壊した時に落ちていた岩にひょいっと腰を下ろす。
「了見狭いなー。これもこれで面白いよ。楽しんだらいいのに」
見下ろされるのが不愉快なのか、リンもまた他の巨岩の上に座る。
そんなにイヤなのかな、人間。悪い事しちゃったかもしれない。
岩の上に座る二人の姿を見ながら、不意にそんなことが心に浮かぶ。
「嫌に決まっているであろう、人間」
心の中を読まれたようで、リンが頭上から冷たい声を掛ける。
謝らなきゃと思いつつも適切な言葉も浮かばす、火に油を注ぐとわかっていながらも問いかけてしまう。
「どうしてですか」
「どうして、だと?」
フンと鼻で笑ったかと思うと、スっと身軽な様子で岩から飛び降りて、リンが目の前に立つ。
すっとリンが足元を指差し、見ろといわんばかりの顔をする。
「人間。お前が今その足で踏む虫けらになりたいと思うか?」
言われて気付く。ごくごく小さな生き物を踏みつけていた事に。
更にリンは畳み掛ける。
「地面を這いつくばる蟻になりたいと思うか。ゴミを喰らう蝿になりたいと思うか。我にとって、人間とはその程度の存在でしかない。そのようなモノになりたいと思うわけが無かろう」
冷たい視線に肌が粟立つ。
「我に殻を与えおって。元来我は雄でも雌でも無い、両性具有の存在であったというのに。そちが与えた殻によって、我は永遠に雌として生きる羽目になった。口惜しい」
ぎりっと睨まれ、全身に寒気が襲う。
逃げられない。
蛇に睨まれた蛙とでも言うんだろうか。
喰われる。殺される。そういった恐怖で足がガタガタと悲鳴を上げているのに、貼り付けられたようにリンの目前から逃げる事が出来ない。
それに背を見せたら、その瞬間に……。
「ボクの大事な大事な巫女なんだから、あんまりイジメないでくれる? ムカつくから」
いつの間にか巨岩から降りたレツがリンとの間に立って、レツの背中によって守られる。
ひょいひょいと手が後ろ手で手招きをするので、その手をぎゅっと掴む。
「巫女? なんだそれは」
「キミが寝ている間に人間が作った制度だよ。ボクの声を人々に伝え、そしてボクの退屈しのぎの相手をしてくれるんだ。いいでしょー。欲しいでしょー」
「いらん」
即答したリンを、レツがクスっと笑う。
「でもさ、上手いこと共存しないと、いつかキミが狩られるよ」
「上手いことやっているようには思えんな。我が呼んだのは竜であって、そのような醜い人間の姿をしたモノではないぞ」
睨むリンに手を伸ばしたレツは、何をするのかと思いきやその頬を撫でる。
「醜い? キミは人間だとしても十二分に魅力的な姿だと思うけど」
その行為、言葉に目を背けたくなる。
ぎゅーっと胸が鷲づかみにされ、胃の中に滞留していた醜い嫌な気持ちが沸々と湧き上がってくる。
「誤魔化すな。そのような戯言、聞きたくもないわ。そのような言葉で我の胸がすくとでも思ったか。浅はかな」
パチンと手を弾き、リンは醜いものを見るような侮蔑の目をレツに向ける。
レツは振り返りにっこりと笑うと、ぎゅーっとその腕の中に私を包み込む。
「な、何?」
その問いにはレツは答えず、またリンへと向き直る。
「ごめんねー。嘘バレバレだよね。ボクはこの娘が世界で一番可愛いと思ってるの。本心じゃなきゃ伝わらないよね」
蔑視の表情のリンは、ポンとまた元いた巨岩に飛び乗って腰を下ろす。
「人間ごときに情を移すなど。狂気の沙汰だな。で、何をしに来た。水の」
「そっちが呼んだんでしょ。何の用?」
腕の力を抜き、レツがポンポンと頭を数度叩くので目を上げると、レツが頬に唇を落とす。
「すぐ終わるから。そしたら海に行こうね」
耳元で囁いたかと思うと、レツもシュッとリンとは違う巨岩の上に飛び乗る。
「見下ろされんの、嫌なんだよね」
そんな言葉を残して。
何やら頭上で繰り広げられている会話は白熱しているようだけれど、人語で話していないので内容は全くわからない。思念で話をしているわけでもないので、二人の遣り取りは届いてこない。
気を抜いたらリンに喰われそうな気がするので離れたいような気もするし、かといって離れたらレツの姿も見えなくなっちゃうから、少し離れたところから二人の姿を見守るしかない。
しばらく見上げていたら、はたと気が付いた。
「気付かなければ良かった」
左手の薬指に嵌まった、少しゆるい指輪を右手の指で触れる。
きゅんと胸が苦しくなって、リンの言葉を反芻する。
リンやレツ、竜にとって人間は虫けらと同じでしかない。狂気の沙汰と、リンは言う。
レツが私を想う気持ちは竜にとっては、狂気。私がレツを想う気持ちは?
本当にレツが好きなのに。レツと一緒にいたいと想っているのに。
それは私が人間でレツが竜である限り、永遠に叶う事はない希望なのかな。
だから、レツは人間になりたいって言ったのね、あの時。
そっか。そういうことか。
リンに出会って、知ってしまった。
巨大な何かとしか認識していなかった竜は、巨大な蜥蜴のようなものだと。見上げるほど大きい山とも見劣りしない位のその身体。
永遠とも思えるほどの長い長い生。
私じゃないんだ。
レツに本当に必要なのは、私じゃない。
道を歩く時、虫を踏まないかなんていちいち気にしながら歩いたりしない。その命の重さなんて考えたりしない。
つまり、その程度なんだ。竜にとっての人間って。
目の前にいる姿は、初めて会った日からずーっと今まで人間だったから、そんなこと考えたりもしなかった。
私は路傍を歩く蟻を愛せない。そしてまた、異形の化け物を愛せるとも思えない。目の前の巨大な竜の実体を見てそう思った。
それもまたレツならば、愛したいと思うけれど。
いつも傍ににいるのが「人間」だったから、「人間」としてのレツしか見ていなかった。
手の上に、はたはたと音もなく涙が零れ落ちる。
ずっと一緒にいようね。ずっと一緒にいたいね。
そう思い描いた姿は、竜の姿のレツじゃない。人間の姿のレツなんだもの。
それに虫けらに愛されたって、本当に自分に相応しい相手がいるのなら、そちらに目を向けるよね。
仮に足元で虫が求愛していたとしても、人間である私は気付くわけもない。
狂気の沙汰。
虫けらに身を落として、虫けらを愛する。
そう考えれば納得できる気がする。リンの言った言葉の意味も。
もしも奇跡的に虫けらに愛情を持ったとしても、それは愛玩動物に対する愛情と変わらないと思う。
種族を超えて共に歩んでいく道を選ぶなんて、普通に考えたら出来ない。
今そこを歩く虫に愛情を持っていないから、そう思うだけかもしれない。愛情を持っていたら違うのかもしれない。
でも、でもっ。
それでも今私の中にある「レツを好き」という気持ちは嘘偽りのないもの。
その全てをも愛していたわけじゃないかもしれないけれど、でもレツと一緒にいたい気持ちは変わらない。
ぎゅっとレツが選んでくれたワンピースの裾を握り締め、眼前の二人と一匹の竜を見る。
視界は涙で曇ってよく見えない。
今目の前にある現実をどう受け止め取るのか。そしてどうしたいのか。答えは永遠に出そうにもない。
「どうしてキミはこういう時だけ頭が回るんだろうね」
話し合いが終わったようで、レツが戻ってきてクシャっと髪を撫でる。
「おいで」
そう言って広げた腕の中に身体を預けると、レツが何度も何度も髪を撫で続ける。
今胸の中にある甘酸っぱい気持ちも、そしてこの温もりも、本当のレツがもたらしたものじゃない。所詮は作り上げられた幻想。
声を上げて泣くしか出来ない私を、レツはいつまでもいつまでも抱きしめていてくれる。
いっそこの腕の中で死ねるなら、どんなに幸せなんだろう。
レツはそんなことは望んでいない。きっと立場が逆だとしたら、私もレツと同じように思うだろう。
大好きな人の命を摘み取るような事、決してしたくない。
ちょっとずつ涙が引いてくると、レツがポンと肩を叩く。
それを合図に顔を見上げると、レツの唇が涙を掬う。
「しょっぱい」
顔をしかめるレツに思わず笑みが零れる。
「しょっぱいよ、だって涙だもん」
「ボクは涙がしょっぱいなんて知らなかったんだ」
苦笑を浮かべるレツの顔を見ていたら、また涙が溢れてくる。
わんわんと泣く私を、レツは飽きる事無くあやし続ける。
「レツは、レツは……」
ぐちゃぐちゃな頭の中、どうしても聞かずにはいられず、涙と鼻水で上手く言葉が出ないけれどレツに問いかける。
レツは首を傾げて微笑んで、私の言葉を促す。
「きょ、きょう、狂気の……どうして、私」
最後まで上手く話せない。
すすり上げる音がして、みっともないのに、レツは優しい顔で笑みを浮かべている。
「虫けらなのに、私、人間なのに」
「うん」
「どして、私のこと、好きに、なって。なって、くれたの」
声が掠れ、まるで叫び声をあげてるみたいだ。
天を仰ぎ、泣き崩れる私の目の前にしゃがんだレツが、頬を撫でる。
「好きになるのに理由なんて無いよ。好きになってくれてありがとう。で、ゴメンね」
「ゴメンとかっ……」
ゴメンなんて欲しくないよ。そんなものいらない。
「まるで、別れのセリフじゃない。そんなの。聞きたくないよぉ」
きっと私、今すっごく汚い顔になってる。
でも言わずにはいられない。
「ここが。私たちの奇跡の終わりなの?」
聞きたくないのに、聞かずにはいられない。
レツ、レツ。
本当はいつまでも一緒にいたいよ。けど、ダメなんだ。奇跡は永遠には続かないから、奇跡なんだもの。
沢山色んなものを二人で見たかった。いっぱい色んな場所に行きたかった。
そうだ、海。
海にいけなかったね。どうして海に行くはずだったのに、山に来ちゃったんだろう。
こんな事ならのんびりしてないで、早く海に行けばよかったよ。
他にも沢山、一緒に行ってみたいところ、あったよ。二人でもっと色んな事がしたかった。
「……一緒に、いたいよ、レツっ」
レツがいい。
この先の未来、一緒に歩いていく相手はレツがいい。
ずっとこの左手を繋いでくれるのはレツがいい。
どうして私は人間なんだろう。どうしてレツは竜なんだろう。
「ありがとう」
ぎゅっとレツの腕の中に抱きしめられる。
「ありがとう。サーシャ。ありがとう。ありがとう」
レツの声が涙声に変わっている。
ほんの少し、人が生きやすく自然を動かすことしか出来ないとレツは言っていた。
レツ自身にもどうする事の出来ないことなのだろう。
いつまでもレツの隣で笑っていたかった。
鬼ごっこでもかくれんぼでも、いくらでも一緒に遊べばよかった。
くだらない喧嘩すら、今思えば楽しい思い出でしかない。
二人で見た夕焼け。満天の星。そして身体中に染み渡るような暖かい朝日。
全てが、宝物だよ。レツ。
「人間。そちの起こしたくだらない奇跡に少しだけ力を貸してやる」
レツの腕の中から顔を上げると、リンが感情のない瞳で真っ直ぐに見つめている。
「リン?」
「その代わり、対価は払ってもらうぞ」
冷淡な声で告げると、正面から抱くレツとは対象的に、背後から私のことを抱きしめる。
ピリっと鋭い痛みがして目線を背後に向けると、リンの歯が首筋に立てられている。
「確かに、極上の味だな。人間というのは。これは他の生き物よりも良い。癖になるな」
背中から伝わってくる熱すぎる熱に顔をしかめると、レツが眉をひそめてリンの顔を押し返す。
「ボクのなんだから、あんまり食べないでよ!」
ふっと鼻で笑ってから、リンの手が空へと向けられる。
放たれた光輝く熱の塊が、空に舞い上がると同時に、昼間なのに星のように瞬き始める。
白。黄色。朱色。水色。
様々な光が空から降ってくる。
「金平糖?」
レツが露店で見たお菓子の名前を口にする。
確かに、金平糖のような形をしている。
一粒手にとって、レツが星を口に入れる。
「甘い。本物の金平糖みたい」
「我の命。人間の愛情。ほんの少しだけ形にしただけだ。持っていけ、水の」
振り返って見たリンの表情は相変わらずの無愛想な感じだけれど、目がほんのちょっとだけ柔らかい。
「但し、さほど持たん。限られた時間は僅かだ。有意義に使え。それから」
身体を離し、リンはまた岩山の上に飛び乗る。
よく通る声が、まるで竜の咆哮のように響き渡る。
「我はこの地の支配者だ。人間の王という存在を認めてやってもいいが、この山には何人たりとも踏み込むなと伝えよ」
真っ直ぐに射抜くような瞳が、私に告げる。
「そちの名は」
答えてもいいのかわからずにレツの顔を仰ぎ見ると、レツは微笑んで頷く。
「サーシャです。水竜の巫女サーシャ」
にやりとリンが口角を上げる。
「サーシャ。今日より水竜の巫女ではなく、竜の巫女を名乗れ。そちは我の、そして水の巫女だ」
思いがけない言葉に目を瞬くと、くすりとリンが笑う。
「先ほど契約したであろう? そちの血は我のものだ。必要が有れば、いつでも呼ぶが良い」
「リン?」
「ふん。気に入らぬが、殻を付けられてしまったし、血を交わしてしまった以上仕方なかろう。ああ、もう、とっとと行け」
面倒くさそうにしっしと手を振るリンの仕草と呼応して、紅の竜から熱風が送られる。
あまりの熱さに顔をしかめて身体を捩ると、リンがケラケラと笑う。
レツが忌々しそうな顔で睨み返す。
「……頭から水、ぶっ掛けてもいい?」
「お断りだ。とっとと行け」
それ以上言い返しもせず、レツが手のひらいっぱいに集めた金平糖を袋に詰め、手を差し出す。
「行こう。サーシャ」
その手を握り返すと、レツが微笑み返す。
「うん」
繋がった左手からは確かに熱が伝わってくる。
ありがとう。今、ここにいてくれて。切なさで胸が締め付けられそうになる。
どうか繋いだこの手の先から、レツに好きだっていう気持ちが伝わりますように。好きで好きで、本当はずっと一緒にいたいって伝わりますように。
あなたが竜でも、私は好きよ。
明日あなたが目の前から消えてしまったとしても後悔しないように、かけがえの無い思い出を作ろう。
「ねえ、首、やじゃない?」
「首?」
「アレが噛んだとこ。傷消しとくね」
その後間抜けな叫び声を上げてしまったので、きっとリンに呆れられただろう。