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門前町を出て、のんびりと道草しながらやっと村に一番近い宿場町に着く。
幾日もかけてここまで来たけれど、いざ自分の生まれ育った村を前にして足が重たくなる。
私はまだ本当なら巫女として神殿にいるはずなのに、村に戻ってもいいのかな。
何気なくレツに聞いてみたけれど、好きにすればという気の無い返事。どうするか、好きにしたらいいってことらしい。
泊まる宿も決め、外に食事に出た時にも誰か知り合いに会ったらどうしようと気が咎めて仕方が無い。
やっぱり村には戻らない方がいいのかもしれない。
「ねえ、レツ」
「ん?」
「やっぱり止める。行かない。海に行こう」
それだけでレツには十二分に伝わったようで、ぴたりと足を止める。
「どうして?」
「だって。本当なら私はここにいるはずが無いんだもの」
ただ歩いているだけでも道行く人が振り返るレツを連れて帰り、私は何て説明したらいいんだろう。
巫女を本当に辞めた後に戻った時にも矛盾しない嘘をつける自信が無い。
その時には、レツはきっと一緒にはいない。
ふぅっと小さな溜息をついて、レツが微笑む。
「サーシャの好きなようにしたらいいよ」
言うとくるりと方向転換をして、背を向けてレツが歩き出してしまう。
どこへ行こうとしているんだろう。
置いていかれちゃうんじゃないかって不安が頭をよぎって、小走りにレツの元へと急ぐ。
「どこ行くの」
「その辺をぶらっと。先に宿に戻ってていいよ」
にっこりと笑うレツの腕を思わず掴んだ。
目の前にいないと不安になる。ふらっと消えて、そのまま永遠に会えなくなるんじゃないかって。
「大丈夫。ちゃんと戻るから。いなくなったりしないよ」
ポンポンと頭を叩くと、ゆっくりと掴んでいた手をその腕から外して、ひらひらっと手を振る。
行ってきますとでも、またねとでも言うように軽い調子で手を振るレツの背を、それ以上追いかける事は出来ずに立ち尽くす。
本当は手を離しているだけで不安なのに。
夜が明けるたびに、もういなくなっているんじゃないかって不安になるのに。
手を繋いで、すぐそこにいる時でさえ、ふとした瞬間に過ぎる心掛かりで胸が押しつぶされそうになるのに。
どこに行くっていうの。何をしにいくの。どうして私と一緒にはいてくれないの。
レツ、置いていかないでよ。
それに、誰にもレツの笑顔を見せたくない。その優しさを少しでも他の人に向けたら嫌だ。
いつも誰かに声を掛けられているレツを見るたびに、胸の中に醜い感情が湧き上がる。
それはずっとお腹の中に滞留していて、醜い気持ちで全身が沸騰しそうになる。
私以外に、もっと巫女の適性を持った人に出会ってしまったら。その瞬間に私は捨てられちゃうんじゃないのかな。
確かなものなんて何も無い。だからこそ不安になる。
手に入らなければ気が付かなかったのに。こんな嫌な気持ち。
左の薬指に光る石を見つめていたら、ちくんと胸が痛む。
終わりが来た時、これは返さないといけないのかな。そしていつか誰かが身に着けるのかな。
そんなことを考えていたら、嫉妬でおかしくなりそう。
ふるふるっと頭を左右に振り、こびり付いて離れない嫌な考えを振り払って、夕暮れの路地を歩く。
見知った街。何度も来た事がある。
どこに何があるのかなんて、探さなくたってわかる。答えられる。
家で作るパンの材料に必要ないくつかは、この街でしか手に入らない。
だからよくお使いに来たなぁ。ルアとカラと一緒に。
あの頃、こんな風にこの街を訪れる事になるなんて、考えても見なかったな。
小さな村の中で私の人生は完結するはずだった。
その物語は平凡で、どこにでもあるもので物語になるようなものじゃない。
けれど実際の人生は大きく変わって、巫女に選ばれて神殿に行き、今は神殿を抜け出してきて。
もしかしたら私たちの事、神官たちが探してたりするのかな。シレルはどうしているんだろう。
門前町で片目に会ったし、きっと報告しているよね。
逃げ出してきちゃったんだけれど、全く追われないというのも気味が悪い。絶対に捕まえられると思っていたから。
レツはそんなこと、まるで気にしていない様子だけれど。
夕暮れの路地を歩き、一軒の食堂に立ち寄る。
いつも一緒に食事の場所に入るけれど、レツは一切の食べ物を口にしない。
目の前でニコニコと笑っていて、水一滴すら喉を通る事はない。
いつも食事に付き合せてばかりで悪いし、今のうちに食事済ませておこうかな
居並ぶ食堂の中で、かつて一度も入った事のない食堂の中へと足を踏み入れる。もしも顔見知りに会うといけないから。
威勢のいい「いらっしゃい」という声に促され、窓際の席に腰を下ろす。
ぼーっと食事が運ばれてくるまで外を眺めていると、思わず行き交う雑踏の中に知っている顔がないかどうか探してしまう。
会いたいのか。会いたくないのか。
自分でも良くわからないけれど、無意識に路地を歩く人の中に知人がいるかどうか探さずにはいられない。
本当は誰かに会いたいのかもしれない。でも、誰に?
離れていたから故郷が恋しくなったのかな。今までそんな郷愁に駆られた事なんて無かったのに。村がすぐ傍にあるからかな。
目を閉じると浮かぶのは懐かしい顔、走り回った野山、そしてたった一人の身内であるママ。
会いに行ったらどんな顔をするんだろう。
なんだかじんわりとこみ上げてくるものがあって、これ以上物思いに浸っていたら村に帰らずにはいられなくなる。たとえそれが巫女として間違っていたとしても。
食事が運ばれてきて、溜息交じりに路地から目を離すと店員が怪訝そうな顔をするので、取り繕うように笑顔を向ける。
「旅行ですか」
「はい。ちょっと」
「そうですか。もしお時間があるなら、隣の村は巫女を輩出した村でちょっとした観光地になってますから行ってみてはどうですか」
観光地。あの鄙びた村が。
「そう、なんですか。ありがとうございます」
多分ぎこちない笑顔を浮かべて店員に礼を言うと、店員はそのまま席から離れていく。
村が観光地ですって。何それ、どういう事よ。
一面の畑が広がって、小さな商店がいくつかあるだけの、本当に何も無い村なのよ。
帰れない。
絶対に、村には帰れない。
もしも私が「その巫女」だとわかったら、一体どんな事になるんだろう。
ぶるっと寒気がして、腕に鳥肌が立つ。
昔にウィズが言っていた事を思い出す。「王妃にだってなれる」という言葉の意味。巫女の血を欲しがる人は沢山いるという事。
巫女じゃない私に戻りたいのに、きっと本当に村に帰る日が来たとしても、それは叶わない夢なのかもしれない。
いっそ、それならずーっと神殿にいたい。
巫女じゃなくたっていい。神官でも女官でもいいから神殿に残りたい。
見世物になるのはイヤ。
それに例え声が聴こえなくなったとしても、その姿が二度と見られないとしても、少しでもレツの傍にいたい。
この辺りでは水代わりともいえるワインを一口舌の上に転がすと、慣れ親しんだ味が広がっていく。
これはカラの家で作っているワインかな。もしそうだったらいいな。
懐かしさに、いつもよりも早いピッチで飲み続けていると、あっという間にデカンタが空になる。
もうちょっと飲もうかな。でも飲みすぎるときっとレツが煩いだろうし、このくらいにしておこうかな。
悩んでいると、カタンという音を立てて新しいデカンタとグラスが一つ置かれ、目の前にレツが座る。
「美味しいの、それ」
「うん」
どうしてここがわかったのかとか、どうせレツに聞いても無駄なんだろう。
「じゃあボクも付き合うよ」
赤い液体がグラスに注がれ、レツの口へと運ばれる。
一口、口に含んだのかどうかわからないくらいの量を舐め、レツが顔をしかめる。
「美味しくない?」
「いや、美味しいとかそういう問題じゃなくて」
それ以上レツはワインには触れようとはしない。
「宿に戻っててねって言ったのに、何で一人で食事しているの」
「だって」
「だってじゃないの。こんなとこで一人でお酒なんて飲んでて、誰かに絡まれたらどうするの」
心配してるのかな。そんなこと起こるはずもないのに。
それに大体ここは見知った街だから、何か起こっても対処できるし。
「大丈夫だって。それよりも食べないレツを付き合わせるのは悪いかなと思ったの」
頭を抱え、レツが色々言いたいことが混ざっているであろう巨大な溜息をつく。
「あのね。キミさ、自分が他人にどんな風に見られているかなんて考えてないでしょ。もうちょっと意識しようね」
ん? 言っている意味が全くわからない。
首を傾げる私の頭を、コツンとレツが痛くない拳骨で叩く。
「何年も深窓の令嬢扱いされていたキミの所作、仕草。立ち居振る舞い。それから磨かれた外見。そういうの、他人がどう思うか考えた事ある?」
「……そんなに変わった?」
「変わった。だから一人にならないで、ボクが心配だから」
ぷいっとレツが横を向くけれど、そんなに変わったかな。私は何も変わっていないと思うんだけれどな。
少なくとも中身は何も変わっていないと思う。
「もー。何で何もわかってないのかな。いいよ、食べ終わったらさっさと帰ろ。周りの視線にキミを晒すのもイヤだね」
何でそんな風に怒るのよ。
「一人にしたの、レツじゃない」
そもそもレツが一人にしなければ良かったのよ。それを人の問題みたいに言って。
ボソっと呟いた言葉にレツが睨み返す。
これ以上言うと、どんどん火に油を注ぐ事になりそう。
イライラとしたレツの様子が不思議だったけれど、急いで食事を終わらせて宿に戻る。
一夜明け、まだまだ外が暗い頃にレツに起こされる。
カーテンを開け、窓の外を確認すると、外にはまだ月と星が瞬いている。
「サーシャ。行くよ」
目を擦りレツの顔を見ると、レツは用意万端整ったようですっきりとした顔をしている。
「キミの生まれ育った村、見てみたいんだ。朝早いうちに行けば、誰にも会わないだろ」
言ったレツに飛びついた。
本当は見たかった。自分の生まれ育った村がどうなっているのか。
誰にも会えないとしても、懐かしくて、本当はどうしても行きたいと思っていた。
飛びついた私の背中をポンポンと叩いて、レツが頭の上で笑う。
「感激してくれるのは嬉しいけど、とっとと用意してね」
容赦のないレツの声に急かされ、足早に宿を後にする。
ほんの30分ほど歩くと、生まれ育った懐かしい村の入り口が見えてくる。
ドキドキと高ぶる気持ちを抑えきれず、ついつい早足になってしまうのをレツにたしなめられたりしながら、でも早く行かないと誰かに出会ってしまうかもしれないしと思うとどんどん足取りは速くなっていく。
村の入り口の門には、高々と『巫女生誕の地』という看板が掲げられている。
その飾り立てられた看板に閉口してしまうと、レツも苦笑を浮かべる。
「随分と歓迎されているようだね」
レツの軽口に返す言葉も出てこないくらい、ある意味打ちのめされている。
静かに、子供の頃に育った村そのままで出迎えてくれたら良かったのに。
ほんの少し、巫女を辞めた後にここに戻ってくる事が気が重くなる。だけど私の帰れる場所はここしかない。
門を抜け、村の短い商店街に入る。
早い時間に来ただけあって、まだ村は寝静まっている。
「どこにあるの」
小声で話すレツの短い問いかけに、指を指して答える。
どうしても口を開く気にはなれなかった。声を出してしまったら、私が今ここにいる事を誰かに知られてしまいそうな気がして。
繋ぐ手に力を籠めると、レツの手も同じように力を籠める。
見上げたレツの顔が穏やかに微笑む。
大丈夫だよというように。
指差した先へ、レツと肩を並べて向かうけれど、そこにはやはり看板が立っている。
『巫女生家』
滑稽としか言いようが無い。
ここは確かに私の家だったのに、私の家じゃないみたい。
店構えや建物自体は変わっていないから、今もママはここで生活しているんだろう。
一体どんな気持ちで毎日生活しているのかな。
私は何も変わってないんだよ、ママ。
何故かこみ上げてくる切なさを振り切るように、レツの腕を引っ張って歩く。
ぐいぐいと腕を引く私に、レツは何も言おうとはしない。同じペースで歩き続けるだけで。
ここでレツとパンを焼いて生活するなんて、絶対に無理だ。
早くここから出なきゃ。誰にも見つからないうちに。
駆け出しそうになる私の肩をレツがポンと叩く。
「大丈夫だから。水竜の祠に連れて行って」
こくんと頷いて、村の外れにある水竜の祠を目指す。
そこで失恋の涙を流したのは一体何年前なんだろう。それからどれだけの時が経ったのだろう。
あの時涙を零させた感情は、どこにいってしまったのだろう。
もしもこの先レツと別れた時、月日が経てばこの想いもどこかへ消えてしまうのかな。
なんか、イヤだな。
そういえば私、最近先のことばかり考えている。期限のあるこの奇跡の終わった後の事ばかり。
今目の前にいるレツの事を失っても辛くないように。
水竜の祠の前に着くと、レツが手を離して中へと入っていく。
水竜を奉る祠に水竜自身が入るって、なんかすっごい不思議な感じ。
レツに手招きされてその中に入ると、小さな祠の中でレツが膝を折って湧き水に手を浸している。
「冷たいね、この水」
祠の中でレツの声が反響している。
「この水の源が水竜の神殿に繋がっているんだって。あの奥殿のあるところに繋がっているのかな」
「それはどうだろう。確かに水源は同じだけどね」
水に手を浸したまま、レツが目を瞑る。
何を考えているのだろう。奥殿を取り囲む湖と同じ水が流れるここで、レツは何を感じているんだろう。
しばらくブツブツと何かを呟いた後、ぐいっと手を引っ張られる。
「ずーっと頭の中が煩くてしょうがないんだ。付き合ってくれる?」
頭の中が、うるさい?
付き合うってどこに付き合ったらいいんだろう。
怪訝な顔をしていたら、レツの唇が首筋に触れる。その瞬間、ビクっと体が跳ねる。
生暖かい感触に体を捩ると、耳元でレツが笑う。
「慣れない?」
「慣れるわけないじゃない」
くすぐったさと、気恥ずかしさでたまらない。
突然始まったレツの食事に一頻り付き合って顔が真っ赤になった頃、レツの唇がそっと離れていく。
「ずっと頭の中で誰かが我鳴ってて煩いんだ。その正体確かめに行くよ」
正体? 我鳴る? レツの頭の中で?
何故だか不安が過ぎってレツの服の袖を掴むと、レツがポンポンと頭を撫でる。
「大丈夫。そんな心配そうな顔しないで」
だけど、もしかしたらそれが終わりを知らせる合図じゃないのかな。
もう神殿に帰って来いっていう合図じゃないの?
「神殿じゃないよ。別の場所から聞こえてくるんだ。行こう」
考えを読んだレツに言われて頷くと、ぐいっと腕を引っ張られて、次の瞬間視界が反転する。
転んだ?
そう思った時には、身体は泉の中に引き込まれていて、意識はあっという間に暗闇の中に落ちていく。
混沌とした意識の中で、誰かの声が聞こえてくる。
女の人?
--来い。ここに。
聞いた事の無い声に導かれ、どこかへと連れて行かれる。
低いような高いような、それでいてものすごく通る声が、暗闇の中で道筋を照らしている。
次に目を開けた時、やはり水竜の祠の中にいる。
「あれ?」
思わず出た私の声に、レツが苦笑する。
「外に出るよ」
その声に背を押されて祠の外に出ると、目の前に広がるのは入った時とは全く違う景色。
煙をたなびかせている山。
ふつふつと燃え滾るような炎の塊。
そのあまりの熱気に目を開けていることさえ辛い。
ここはどこなのだろう。
生まれ育った村でもない。今まで見たことのあるどんな場所とも違う。
眉を寄せながら周囲を確認すると、多分家だったのであろう廃墟が点在している。
木が立ったまま枯れている。炎で燃えてしまったんだろうか。真っ黒な煤で覆われている。
どこを見ても、周囲はそんな光景だらけで、とても人の住んでいるところとは思えない。
ここで誰かがレツを呼んでいたの?
荒廃しきった大地の上で、一体誰が……。まさか私の次の巫女になる人?
レツの顔を見上げると、レツは一点を見つめたまま、その視線を動かさない。
無表情のようにも見える表情で、見つめる先には再び炎を吹き出すんじゃないかっていうような地鳴りを響かせる巨大な山。
ゴゴゴという地鳴りの音に恐怖を感じてレツにしがみ付くと、レツは顔は動かさずにポンポンと私の背中を叩く。
ぎゅっと握り締めてレツに体を寄せるけれど、いつものように笑いかけてはくれない。
--ようこそ、水の。
見上げたレツの眉がぎゅっと皺を寄せる。
どこからこの声は聴こえてくるのだろう。まるで奥殿にいるレツの声を前殿で聴く時のように、直接頭に響いてくる。
まさか……。
ぞわっと全身が粟立つ。
怖い。けど、探さずにはいられない。
視界を巡らせ、黒と赤の世界にその声の主を探すけれど見当たらない。
ふっと視線を感じて、崩壊した山の頂に目を向ける。
……いた。
紅色の竜。